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 ・・・  波瀾万丈13  ・・・ 


 現朗と毒丸の怪我は酷くて、奥の車両について横になると動けなくなってしまった。蘭は制止する言葉も聞かず、二人の服を脱がして怪我を確認する。応急処置が施されているが、薬を塗っていなかった。
 彼女は自分の荷物から薬を取り出してぐりぐりと塗ってやると、苦痛に耐え切れず現朗が声を漏らす。
「っくぅ。っはあ……
 ……た、大佐……もう……っじょうぶですからっ……」
「な〜ん〜だ〜。
 可愛い声をあげても絶対許さん。お前が橋を壊したとき、心臓が止まるかと思った。予算書の数字が頭に回った」
「なんだよ。橋燃えなかったから褒めてくれてもいいじゃん」
「褒めるかっ。ど阿呆」
と、今度は標的を毒丸に変える。
 びいびいと毒丸は甘ったれた声で泣きじゃくった。
 何せ零武隊の薬は効く代わりにとにかく痛い。わざと痛くなる成分を入れたのではないか、と誰もが疑っている。作ったのはあの丸木戸教授なのだ。問い詰めたら否定もしないで笑って流したつわものだ。
「む。まあこのくらいにしておくか」
「っ痛ぇよぉ〜。酷いよっ。そんなに塗らなくても効くのにっ!」
「未だ塗り足らんのか?」
凄い勢いで首を横に振って、上官から逃げようと身を離す。
 洋服を寝転がった状態で整えて、それから毒丸は首を蘭の方に向けた。
「にしても、すかっとしたなぁ。中将あれ狙ってやってたの?」
「……おそらくな。どこで情報を掴むんだかあいつは」
すっかり騙されていた現朗は面白くない顔を浮かべているが、毒丸はうきうきと笑っていた。
「思い出しても笑えねー? あの顔。すっげぇ焦ってんの。
 何を言ったかなんて他人に聞かせられねーよな。あんな内容をさ」
「まあな。
 これでようやく護衛任務も終わりですね。
 ところで、中将が来るという連絡があったのは、昨日の通信ですか?」
「ああ。……日明は頭に血が上るとお前らより厄介だからなぁ。ここに来ては欲しくなかったんだが……」
噂をすれば影とばかりに、車両の扉が開いて中将が入ってきた。蘭の帽子をもって、少し不機嫌そうに口を結んでいる。
 さっと立ち上がった妻に、つかつかと近寄った。
「何をしていた?」
「……治療を。部下が襲撃されました」
「誰に……なんて訊きはしないけど。
 こちらに来て頂こうか。日明大佐」
日明は蘭の荷物を持って、車内の一番奥の椅子に腰掛ける。
 向かい合った四席がいくつも連なるつくりになっており、ここから部下たちの様子は見えない。汽車は雑音も大きいので、彼らの声も聞こえない。
 促がされるままに蘭が隣に座ろうとしたところを、ひどく自然な動きで日明は彼女を抱き上げた。
 そのまま、膝の上に座らせてしまう。
「なっ!?」
目を白黒させる蘭の口を、そっと手が塞いだ。

「……なんで庇った?」

抑揚の無い声だった。
 先ほどまで鈴木らに聞かせていた、あの、劇がかった声とは似ても似つかない。ようやく、本性、もとい、普段の日明に会えたような気分になって、蘭も自然緊張がとける。
「あんな奴らは相手にしとらん。
 遣り返す必要などあるものか。
 貴様も、あの馬鹿な部下どもも、なんでそう、わざわざ目くじらを立てるのだ」
「熱湯かけたり、物を投げつけたり、服を脱がしたり食事させなかったり……。しかもあれだけ罵詈雑言を投げつけておいて男に泣きつくときだけは一人前ときたものだ。
 俺だったら初日に殺していたね」
「お前が部下じゃなくて心底助かったな」
背中と腹部が密着して、体が熱い。そんな状況で胸元に手が触れれば、流石に驚く。
 偶然か……と、思ったが。
 次の瞬間その考えは捨てた。明らかに日明の黒い手が白い軍服の上をさすったのだ。
「……ちょっと待て。何をするつもりだ」
非難の言葉を無視して、前開きから手を入れようとしている。釦に阻まれ指だけしか入らないが、それで十分だった。確かめるだけでいいのだ。
 ばたばたと体をよじっても、彼から逃れられない。強制的で支配的な男に、飲み込まれしまいそうだ。
 男の指は狭い入り口から進んで、上着、シャツを割ってその下の柔肌に触れた。日明は口を開いた。
「下着、つけてないじゃないか。
 着せてあげるよ」
すっかり忘れていたそのことに気づかされて、彼女の頬に朱が走る。
 くつくつと喉で笑うのが聞こえた。
「一人で出来るわっ。ちゅ、中将……やめろっ」
首を返して一生懸命に後ろを向こうとするが、それを顎で抑えて動かせない。彼女の自由を奪い、下から一つずつボタンを外し始めた。
 これが他の男ならば鉄拳制裁をいくらでもかましてやれるのだが、いかんせんこの男の武芸の実力は自分よりも遥か上である。彼が本気になれば自分の意思なんて平気で無視できる。

 職場で夫婦的行為は一切禁止。
 それが不文律のはずなのにっ。

 残された釦が喉の一つまで迫ったとき、流石に蘭も耐え切れなくなった。
「日明ぃ」
怒りと涙をこめながら、とうとう彼をその名前を呼んだ。家での呼び名に、流石に男の手が止まる。
 公が私に混同することはあっても、私を公に混同させることがない蘭が、その名を呼ぶ。彼女が本気で怒っている証拠だ。
 彼女の怒りは激しい上に持続期間も長い。三ヶ月絶対口をきかないという子供っぽい嫌がらせを平気で実行する。しかもこれが、なかなか堪える。
「じゃあこのままにしてよーっと」
強制的な手段じゃ割りにあわないと悟り、作戦を変えた。
 啼かぬなら、啼かせてみせましょう。と、日明は内心呟いてほくそ笑む。
 一回り小さい妻の体をぎしっと両腕で抱えた。蘭が強張るのがよくわかる。二つの手のひらで、追い詰めるようにゆっくり体を撫でまわした。
「下着をつけないならば人前に行かせない」
「じゃあどっかに行け。すぐに着替えてやる」
「……俺に手伝わせてくれない?」
 まずい。
 ……このままでは酷くまずい。
 夫のペースに乗せられる。
 今のところ諦めたようだが、怒っているときの彼は理性がかなり儚い。
 蘭の中では、日明は常識的で理知的な少し尊敬してもいいかなぁと思える人間の分類に入る。端的にいってしまえば、いい男だ。ただ、残念ながらこれは『怒ったときを除いて』の条件をつけた上での話しである。
 いったん彼が怒ると、兇暴な支配者の空気を惜しむことなく周囲に撒き散らし、遠慮も手加減も一切しなくなる。問答無用。蘭の日常の俺様的態度とは比較にならないし、一度でも経験すれば、彼女の我侭なんて可愛く見えてくるほどだ。
 ……そして、さっきの車内のやり取りで完全に彼を怒らせた。さりげなく距離をとっていようと試みたが、それはどうやら許されないらしい。
 汽車が揺れるたびに、触れ合っている部分が擦れて熱くなる。気を抜けば、気持ちがおかしくなってしまいそうだ。
「あ、あ、あ、あの録音機器とかいうモノ。
 あれは、本当に使えるのか?」
慌てて質問して、気を逸らそうとした。とにかく日明の荒ぶった感情を冷まさせて、任務に戻してしまうのが一番だ。
「どうして?」
「お前の得意のハッタリだろう。
 四角い録音機器というのは本当だが、あの変な長い紐は偽物だ。私とてあんなものがあったら流石に気づくぞ」
「……ご名答。あの紐はただの俺の服の紐だよ。
 四角い方は丸木戸教授の発明。まだ録音時間が一分程度だから実戦には使えないね」
「私に報告しないであいつめ……」
愚痴をぶつぶつ呟いていると、ぺろりと耳を後ろから舐められる。ぞわっと鳥肌が立った。
 まずい。絶対まずい。
「中将、その」
「日明」
ぴしゃりと訂正を求められる。

 夫は嫌いじゃない。
 嫌いじゃないが。
 ―――仕事中だろっ!?

 という至極最もな意見を頭で繰り返して気を落ち着けた。
「……まだ職務中だとは分かっているよな。日明中将」
「俺はね。でも零武隊は終わっただろう。引継ぎ済んだわけだし。だから職務中の俺が気にしないんだから、蘭さんが横にいてもいいよね」
一見もっともな意見だ。汽車の轟音にまぎれて意識を奪われそうになる。その理論的な言葉に縋って、甘えたくなる。
 その、ぎりぎりのところで部下たちの顔が浮かんで押しとどまった。
 馬鹿な。そんなへ理屈は通るか。
 彼らがあれだけ頑張って護衛をしたのに、お前だけ楽させてたまるか。

「職務中ならば、鈴木女史のところに行くべきだ」

 ぎりっと耳たぶが齧られた。
 覚悟はしていたのでさして痛くはないが、血は流れた。
 日明の殺気が車内に充満して、即座に消える。部下二人は怪我の身だというのに戦闘態勢をとって通路に立ち、こちらをずっと睨みつけた。日頃の訓練の賜物で、殺気に敏感なのだ。
 蘭は体を倒して通路に顔を出し、手を振って、二人に命令した。
 出ろ。今すぐこの車内から出ろ。
 後退しながら、二人は車両を後にする。ぱたん、と扉が閉まって完全に二人の空間になった。
「……嫌に決まっているだろ。
 俺がどれだけの気持ちでここ数日過ごしたか、わかっているのか?」
低音が耳に落ちてぞくりと粟立つ。
 地雷を踏んだな、と思ったが、彼女とてそれは地雷なのだ。
「元帥府の条件があったのだから仕方がないだろう。
 そもそも、お前がいつもいつも護衛対象どもを甘やかすから私たちが苦労するのだ。それがわからんのか?」
「甘やかしてないよ。
 それより蘭さんのところの部下が使えなさすぎるのが一番悪い。部下に甘い。もっときちんと教育しろ」
「戦闘技術も作戦遂行率も高いうちの部下のどこが悪いっ!?」
「結婚率も恋人率も最低なところ。
 普通もうちょっと上手く護衛対象となんとかすればいいのに、厄介な関係になってなに襲撃しているのさっ」
「なったものは仕方ない。
 ふん、部下どもの攻撃など大したことあるものか」
血を舐め取る。
 びくびくと面白い反応が戻ってくる。
「……触るなっ」
半分鼻にかかった声で抵抗をみせるが、日明は聞かない。
 泣かせたくはないから、耳たぶを甘噛みするのは許してやる。血で、彼女の服を穢すのは嫌いだ。―――その大嫌いな行為をした馬鹿な奴がいたが。
「大したことない、ね。
 それならば、俺の到着が遅れていたら、どうなっていたと思うか教えてくれないか?」
あらかた血が止まったので舐めるのをやめ、質問に変える。
「馬車はあのまま土手に転落し、負傷者が出ていた。
 馬車から降りた女は死んでいた」
素早く答えが戻ってきた。状況判断から予測を立てるのは得意中の得意だ。
 そうだね、と肯定とも否定ともつかない返答を返す。
「じゃあ、俺が来たときどう思った?」
その質問には短時間では答えられなかった。
 暫く汽車の軋む音だけが響く。
 二分程経過して、再び、生暖かい感触が首筋を襲ってきた。
 時間切れのようだ。
「……驚いた。来るのは名古屋だと聞いていたからな」
「それで?」
首に落ちていた体液をぬぐい終え、尋ねる。
「馬車を任せる相手が見つかった……と。
 あと……女も死なずに済むとか……思った」
「ふうん。つまり、それはどういうこと?」
「護衛がうまくいったということ。条件が満たされるということ」
それは日明の望んだ答えではない。
 物分りのわるい妻が気づくために、選択肢的な質問を用意する。
「喜怒哀楽でい言えば何?」
「……たぶん、喜……」
歯切れの悪い蘭に、言葉を促す。
「本当?」
「…………うん」
途切れ途切れに聞こえる小さな声。
「嬉しかった……と……思う」
「嬉しかったの? そういうことだったのかい?」
詰問され、焦るように記憶を掘り起こされて、そして、蘭は混乱していく意識が次第に一点に収縮していくのを感じた。 混乱していた記憶が整頓され真の姿が見えてくる。

 違う。嬉しかったんじゃない。嬉しくて、楽しくて、急に視界が明るくなった。

 やっとのことで、辿り着いた。

「……ほっとしたんだ……」

どれだけ自分が疲れていたか、どれだけ酷い状況だったか、どれだけ……助けを求めていたか。―――急に、気がついた。理解した。全てを。
 蘭の体から緊張が溶けた。
 身を委ねてくるその体重を、しっかりと支えてやる。
 撫でる手が、先程までとは違って優しく感じられた。
 「低い相手を全く相手にしないのは立派とは思うけど。上手くやってくれないと困る。護衛任務の半分は、護衛対象との協力に成り立つものだ。
 こんなんじゃ俺が心配で仕事が出来ない」
「今回は特別だ。条件があったから、私が強く護衛対象にいえなかった。
 部下どもにストレスが溜まったのは、そのせいだ」
「……そういうことじゃない」
「だって……」
口ごもる妻に、言い含めるようにゆっくりと日明はいう。
「君の部下は得てして君に頼りすぎなんだ。実力じゃない。精神的な面で、だ。
 本来なら、彼女たちを手懐けるのは彼らの役目だった」
「あの……女性たちを……手懐けられるものか」
なんとか部下を庇おうとするが、それを許すわけがない。
 後ろで夫が首を横に振るのが、分かった。
「君の悪口を言えば、すぐに彼女たちは迎合したよ?
 そのくらいわかるだろう。
 何故言わない。上官を尊敬しているからか? 敬愛しているからいえないのか? ……愚かな。あの場で君の助けになるためには言うべきだ。俺が君の悪口をさっきいったのは、君は、辛かったかい?」
ぶるぶると首を振る。
 そんなわけない。助かった、と思った。理不尽な女たちの怒りを感情を、全て彼が引き受けてくれて、とても楽になった。
 日明はその首筋を吸い付いて、痕をいくつも残す。普段は軍服に隠れる白い肌が、前の釦が外されて無防備に目の前にさらされていた。
 こんな美味しい機会、逃してたまるか。
「蘭さんと彼女らが協力できるわけがないなんて、百も承知。誰もが知っている。だからこそ君の部下に期待をしていたのに。
 全く役に立たないことが判明した」
「……そうだ」
否定は出来ない。忍耐力があるほうだと蘭が考えている現朗がこの調子では、もう二度と鈴木女史の護衛は出来ないだろう。
 彼女に限らなくとも、だ。
 そもそも零武隊には無理がある。人付き合いが上手くない。そんな器用な人間の集まりじゃない。
「だから、もう絶対こんな任務を零武隊にさせないようにしてやったよ。
 俺の部隊を鍛え直して、俺がいなくても護衛が出来るようにした。今後全て護衛は俺のところが受け持つ。行幸と重なってもなんとかなるだろう。
 そりゃうちの部隊は、零武隊みたいに一人一人戦闘能力が異常に高いわけじゃない。でも、組織力、統率力、情報力さえ合致すれば凄い力になる。
 まあ、だからさ。君のとこの部下も、少し忍耐力を鍛えさせなさい」
日明が言外に言いたいのはわかっている。
 蘭は、甘い。
 確かに甘い。日明みたいに完璧な天才ではないから。自分が欠点だらけということを知っているから。
 欠点を持つ他人を甘やかしてしまう。
「……わかった」
しゅん、と小さくなった彼女をぎゅっと抱擁した。