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当旅館の名物、総檜造りの大浴場に入ることになったので、蘭も一緒に入らなければならなかった。 鈴木が大浴場に入りたいといった時は、勿論許可しなかった。風呂はそうでなくとも危険度が高い。大浴場などありえない話だ。 しかし、鈴木は、旅館内でブローチを買うといって出た後、そのまま侍女らを連れ立って大浴場に入ってしまったのだ。蘭がいくら進言しても、聞く耳はなかった。 結果、現在、彼女は着衣のままで洗い場の隅に立っているのである。 軍帽と手袋は脱ぎ、捲り上げたズボンの裾から素足が見えている。大浴場の護衛などしたことがないからどうすればいいのかわからない。こんなことならば日明にきちんと護衛のイロハを聞いておくんだった、と今更後悔した。 一応浴室全体が見渡せるが、湯気と薄暗い照明のせいで視界は悪かった。大きな湯船と洗い場があるだけの、広い檜造りの風呂だ。床板から檜の油がにじみ出ており、ぬるぬると指にまとわりついて足場は最悪だ。 顔をあげると、天井は高く、上のほうは見えない。 贅沢にお湯を使うので、湯気は相当な量になる。高いところにある小窓から採光され、照明はいくつかあったが、全体として薄暗かった。 鈴木や侍女らが楽しそうに上げる声が、反響する。数でこられたら厄介だな、と数パターンの襲撃を予想しながら思った。今ですら護衛対象がどこにいるのか正確に掴むのが難しい。他に客がいなかったのがせめてもの救いだ。 「あれが日明様の?」 「ですって。全く勇ましいお方。女じゃないわ」 「中将様の軍隊じゃなくて残念〜。楽しみにしていたのに」 「何で脱がないのかしら。やらしい。殿方に見られているよりも気持ちが悪い」 「そう言うものじゃないわ。 お仕事なのよ」 自分たちのことだけに集中していればいいのに、蘭への陰口は絶えることない。女三人寄れば姦しいとはいうが、侍女は四人もいるのだ。 侍女たちは、鈴木よりも二三年下で、ふっくらとした肌に脂がのり、胸元で水が玉になるいい女だった。癖一つない長髪を自慢げに垂らし、どの娘も容姿は特筆に価するぐらいに良い。小さな唇を開けば、小鳥の囀りの様な可愛い声が零れた。 大和撫子だからこそ、なお、いっそう、その口から漏れる毒言は聞けたものではない。 聞こえない、聞こえないと思っているうちに、蘭も感覚が麻痺してきて本当に聞こえなくなってきたようだ。 ばしゃんっ。 その霞がかった頭に、冷水がかけられた。 笑い声をあげながら浴槽へ逃げ去るひとつの影。 ほほほ、と、周囲から上品な声が上がった。 蘭は微動たりせず立っていた。その侍女が来ていたことはわかっていたし、桶を持っているのも知っていた。桶に水を汲んでいたので、その娘のすることは粗方想像がついていた。 しかし。 無視されると揶揄いたくなるのが人間の本性だ。 他の侍女たちも、彼女にならってわざと水や湯をかけて湯船に逃げ込む。湯船にはすでに鈴木が入っていた。 蘭はただ周囲の不審な気配がないかだけを気にしていた。水ごとき、何を相手にする必要があるだろうか。 「皆、お止めなさい。お止めなさい」 と、止める気のない声で護衛対象が言っているのが聞こえた。その声がある限り、彼女に異変がないのは確かだ。 水では効果がないと、次第に女たちは悟ってきた。 だが、止めるには何もなさ過ぎる。気に食わないこの軍人に何も出来ずに止めるのは、プライドが傷つく。 行動はエスカレートせざるを得なかった。 水を投げ捨てた侍女の一人が、その桶を大きく振りかぶった。 この軍人から焦る表情を引き出すことを期待して。 逃げることを予想しながら。 ばこっ。 木があたる音と、誰かの悲鳴が同時に響く。 そして、次の瞬間、からんからん、と蘭の脚元で桶が鳴った。 予想に反して彼女は少しも動かなかったので、放物線を描いた桶は見事に女の顔に当たったのだ。 今まで動かなかった蘭の視線が、ゆっくり、風呂場の護衛対象らに向けられる。感情のない瞳に、恐怖を覚えないといえば嘘になる。 侍女たちは、固唾を呑んで次の反応を待った。 しかし、何もなかった。予想される反応も期待していた表情も何も引き出すことは出来なかった。 蘭はしゃがんで桶を横に置きなおすと、再び、元の体勢に戻って護衛を始めたのだ。 その堂々たる態度が、先ほど自分らを怯えさせたことが、その全てが女たちの癪に障った。 沈黙が全員の気を荒立てる。 何故、この女が中将の妻なのだ。こんな程度の女が。男勝りで、醜く、誇れる点は一つも無い。愛嬌もない。 そうか、この女がいるから中将が来れないのだ。 この女が邪魔をした。 だから、この女は、今自分たちを護衛し監視できて、とても喜んでいる。 だから、怒ったり泣いたり叫んだりしないのだ。桶が当たったとしても、見下す気分に浸っているのだ。 嗚呼、なんて我侭で高慢な独善的な女だろう。 尊敬する主を苦しめている元凶の、悪女だ。 理不尽な怒りが膨れ上がり、ついに、頂点まで達した。 桶を投げた侍女は、湯船から出た。水音は殆ど立たなかった。彼女はぺたぺたと洗い場の隅に行き、新たな桶をとって熱湯を注ぐ。 それを持って、今度は蘭のすぐ前にまでやって来た。視線だけ寄越したが、それ以上のことはしなかった。 「……お人形さんごっこ? 面白いわね。付き合ってあげる」 言いながら、熱湯をぶちまける。 流石に、これは無視するわけにはいかない。 顔を手でガードするが、いくらかはかかる。大した温度ではないが、それでも皮膚は熱に弱い。小さな痛みが体中を突き抜けた。 「っく」 ようやく見られた反応にボルテージが上がる。 「あはは。たかがお湯ごときで逃げてるわっ! 案外、弱いお人形さんねっ」 次々に熱湯が汲まれて持ってこられた。 後退したいが、すぐ後ろに壁が迫っている。 こいつらは、一体何がしたいのだっ!? 怒りよりも、理不尽な女性たちの感情に蘭は迷いを覚える。今護衛をしている。それだけだ。それなのに、何故敵に回るような行動ばかりする。 気配を探ろうとしても、熱さに神経が混乱してわからない。目を開きたくても、防衛本能が閉じようと必死だ。 一人、一人と数が増えて、蘭を取り囲んだ。囃し立てる者、熱湯浴びせに加わる者。唯一鈴木のみ、湯船からその様子を見守っていた。 ……いい加減にしろっ。 と、喉の奥で叫びたくなるのを必死に止める。武力禁止。そんな状況で、どんな言葉だって笑いのネタにしかならないだろう。叫んで失笑を買うのは嫌だ。 堪えるしか、道は残されていない。 護衛対象が今は何もないことを信じて、なんとか堪え切らなければならない。 「ああ。本当に汚いわっ。洗ってあげるべきよ」 「本当。感謝して欲しいわよね」 断続的だった熱湯が、どう変わったのか、息のつくまもなく浴びせられるようになった。 口だけだった者たちが、熱湯汲みに加わったのだ。 必要な酸素を取り入れるだけでやっとだ。息が詰まる。 数分、甲高い笑い声と水音だけが浴室に響いていた。 鈴木はいい加減のぼせてきて、浴槽からあがった。 その音に、侍女たちは驚いて振り返る。無言の主人の怒りを如実に感じ取って、彼女たちの顔に動揺が走った。そういうやり過ぎた行為は、主人は好まない。一応形だけだったにせよ、さっき幾度も止めている。 鈴木は無言で浴室から出て、侍女たちは慌てて彼女の後ろをついていった。 |
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