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風呂場の一件は、すぐに隊員たちの耳に入った。蘭は二人に口外禁止と指示したのでなお一層早く、情報が伝播してしまった。二人は確かに誰にも話さなかった。だが、秘密にすればするほど情報戦に長けた彼らは知ろうとしてしまう。 それをわかっていて自分は命令したのだろうか。蘭は、独り自問自答を繰り返したが答えは出ない。ただ正確に伝えてしても、その様な伝わり方をしても、結果は同じだろうと思ったので考えるのはやめにした。 四時から来訪者が断続的に数人来た。有力新聞社の記者と地元新聞の記者、そして今回の国技館建設の総責任者だ。いずれも予定通りの客だったのでスムーズに対応できた。 晩餐は、予定通りその総責任者と鈴木、ほか数人で庭にある東屋で行われた。見張りや使用人がいても東屋内部からは見えないように特別な設計になっており非常に警護はやりやすい。食事が終わると、男たちは幾度も挨拶をして宿を後にした。 午後十時を過ぎると、旅館内は静かになった。皇族専門のこの部屋は離れにあり、本館の賑やかさとは無縁だからだ。 窓を見上げれば薄く笑う月が星屑の間に浮かんでいる。 感傷に浸りながら酒を仰いでいた鈴木は、全開の窓をゆっくりと閉めた。酒を飲み始めてから二時間、丁度いい具合だ。侍女らも酒に誘おうかとも思ったが、彼女たちと杯を酌み交わしたことはない。 今回は、是非彼女たちも一緒に夕食をしたいものね。……一人は厭だわ。 つらつらと思いながら、硝子に映る護衛の姿を睨みつけた。護衛は夜になると、廊下ではなく部屋で行うようになる。それは前の中将の時もそうだった。 その時、不安定な硝子の奥の軍人が時計をみあげた。 何故、今更時間を気にしているのだろう……と答えが出るよりも早くそれはわかった。 小さな音のノックがされる。この軍人宛の合図には必ず独特のノックを交わしている。護衛対象に知られないための配慮だ。蘭が扉を開くと、赤い髪の軍人が立っていた。 「交代の時間です」 変わった長い長髪、引き締まった口元。顔はそこそこに良い。蘭よりも握りこぶし一つ大きい、男らしい軍人がそこに立っていた。 「わかった。異常は?」 「今のところみつかっておりません。しかし……」 言おうと口ごもるのを、囁くように蘭が止める。護衛対象に聞かれてはまずい内容だ。 実は、旅館宛に襲撃予告が先ほど到着した。 ここ数年、日明の護衛だったので、隙がなく暗殺や誘拐など一切なかった。だから行幸と被る皇族関係者は殆ど必ずといっていいほど狙われた。 実際中将の部隊よりもはるかに零武隊の方が実力面では勝っているのだが、そんなことは暗殺者側が知ったことではない。彼らは普段護衛慣れしてない軍人どもが守っている、という意識くらいしかないのだ。 今回は調子に乗った奴らが、ご丁寧に暗殺予告という全く下らないものを贈りつけてきたのである。 「こちらの行動予定がわかっているから挑発してきただけだ。行啓の予定を知ることは難しいからな。 後は頼んだぞ」 「拝承しました」 言われて、さっと炎が敬礼する。 鈴木は、立ち上がった。ほろ酔いで、頬がほんのり赤い。 嬲り殺しできる玩具を見つけた子供のように、嬉しそうに、少し興奮している。 「お待ちなさい」 声が、二人の軍人の間に闖入した。 ぶわっと、男の殺気が盛り上がったのが蘭にはわかった。 蘭は軽く後ろに部下を隠すように振り返る。寝巻き姿の女が、髪を垂らして立っていた。 婉然と微笑むその美しいこと。 「私の部屋にいるのは、日明大佐が宜しくてよ」 「……」 そしてその形の良い唇から、予想通りの、とんでもない発言をする。蘭は唇をぐっと噛んで首を横に振った。 「夜の護衛は、こちらの炎が仕ります。 私が二十四時間するわけには参りません」 「何故? 男など夜に側におくなんて、汚らわしい。普通女性はそういうことに敏感になるのです。誰もが貴女みたいに淫らで頭が悪いわけではありませんのよ。 日明大佐」 酒のせいで心に歯止め無く、女は言った。 「炎はそのようなことはしません。 職務のけじめをきちんとつけて……」 「煩いっ」 ぴしゃり、と彼女が言った。やわらかい絨毯を踏んで蘭の元まで来て、上目遣いで見上げる。口元を扇で隠し、まるで汚物でも見るように冷めた目だ。その瞳だけでも炎の怒りを煽る。先ほど蘭にした所業を思い出すと。 この女……斬り殺してやろうか? 炎がいきなり刀の柄に手をかけるのが見えて、一度二度蘭の体温が下がる。蘭は後ろ手で素早く炎の刀の柄を握りしめた。 おーい。お前たち、本当に条件わかっているよな? 頼むから分かっているよな? 威嚇行動も暴力行動も一切やっちゃいけないんだぞ。 「耳がお悪くて? それとも、問題なのは理解力の方かしら。学校も満足に出てないのでしょう。仕方ないわね。分かりやすくいって差し上げましょう。 貴女みたいに無知で恥知らずではないの。 男が同室するなど私の沽券に関わります。 その男を廊下に出しなさい。部屋に殿方を入れるのは以後一切許しません」 扇子を閉じ、その先で蘭の胸部を押し付ける。 「……許せる許せないの問題ではありませんが。護衛のやり方については口を出さないで頂きたい」 「煩い」 言いながら、蘭の頬を扇子で打った。 二発、三発、繰り返しても彼女は動じなかった。 口汚く罵られてもかまわなかった。 背中で男が襲おうとしているのを感じで、必死で彼が見えないように、攻撃できないように背中を広く張る。柄の上では蘭と炎の攻防が繰り広げられていた。蘭の握力が強すぎて刀が奪えない。 「そうっ。そうなのねっ。なんて醜い。 日明中将がいないから、あの隊員どもと二人きりになれるから、護衛を部下に押し付けるのでしょう? あら? 貴方もこの女とまぐわりたいの。だから庇って差し上げるなんて、本当、可哀想ね。淫乱なのよ。誰でもいいんだから」 ぱちんっ はじけるような音が聞こえた。 酒で酔った、遠慮ない一撃は扇子の方が耐え切れなかった。 鈴木の手元の扇子が折れている。 頬に一筋血が流れた。左下から右上にかけてつくられた、深い傷。 竹が抉ったのだ。 白い軍服の襟が、血で、穢れた。 炎が、じたばたと動くが刀を抜かせない。 「炎。 ……明日のルートの派遣隊に、きちんと丁寧に見回るように伝えておけ。 それと隊員全員に、今回の護衛の方針を十回復唱してから各自休むように、と私の名前で命令しろ。 今夜の護衛交代はない。明日朝、服を届けに来い。 わかったな?」 炎がここまで怒っているのを無視して任せるわけにはいかない。二人きりになったら部下が我慢できない。こいつは間違いなく刀を抜く。 「わかったな? 返事をしろ」 頼みの返事は、いつまで経っても来る気配がなかった。 蘭は背中の力をぬき、身を回して中段蹴りをかました。 扉は廊下の方へ開くようになっていたから、腹部に食らった蹴りの衝撃でそのまま廊下へ吹っ飛ぶ。手早く戸を閉めて鍵をかけた。 「うふふふふ。 あら。図星なの? そんなに男が欲しかったの? 四日くらいこらえられなきゃ、まったく、日明様が可哀想よっ。 ……貴女は私の側から片時も離さないわ。 我慢くらい覚えなさい。雌犬が」 折れた残った扇を叩きつけ、鈴木は寝台へと去っていった。 |
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