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 ・・・  波瀾万丈4  ・・・ 


 誰もがいなくなってから、蘭はようやく一息ついた。
 桶で水を汲み、頭から被った。
 ……少し、熱かった。
 夫のつける稽古に比べれば全然大したことのない攻撃なのに、精神的に、酷く疲れた。
 これが後四日間続くのか。
 ため息も出なかった。神経が興奮している。とにかく気を落ち着けなければならない。こんな状態で気配も探ることも出来ないし、まともに護衛が出来ない。
 桶を持つ手が震えていたので、そっと上から押さえて撫でてやった。
「軍帽を脱いだのは正解だったな」
口と目が、不自然に歪んだ。競り上がってくる感情を必死に嚥下する。
 髪を持ち上げて水気をきった。
 脱衣所の外には現朗と激が護衛しているので、ここで見張っていれば脱衣所に何かあることはまずない。

 少し恨むぞ、日明。
 ……こんな任務を、させやがって。

 任務中だというのに下らない雑念にとらわれそうな自分を叱咤して、もう一度水をかぶった。
 しばらくして蘭も浴室から出て、備え付けの布で身と髪を大雑把に拭き、靴下と靴を素早く履いた。何人かが嫌そうな目を向けてくるが知ったことではない。流石に鈴木が怒っていたので、持ち物に何かした形跡はなかった。



 廊下では白い軍服の激と現朗が立っていた。
 濡れ鼠の蘭を見て、一瞬、二人が目を丸くする。痛いほど感じる視線に、上官は顔を背けて逃げようとした。
 だが、目敏い彼らの目から逃れるわけにはいかない。
 彼女の頬に、うっすらと熱湯で焼けた痕が見えた―――
「大佐、なんだよそれっ!?」
激が思わず声を上げた。
 その怒りの声が、鈴木女史をはじめ全員の足を止めた。
「……部屋まで送れ。後の警護を頼んだぞ」
ゆっくり蘭は二人の方に向き直って、命令を下す。見つけられたからには、自分が部屋まで護衛するよりも彼らに任せて、着替えたほうがいいだろう。
 黙れ、頼むから黙れ、荒立てるな。と、彼女の願いもむなしく、激は口答えをせずにいられなかった。
「警護っ? ふざけんなよっ。その前に落とし前つけることがあるだろうが」
部下の拳は小刻みに震えている。
「あら。貴女のような方にも、慕ってくれる人もいるものね」
鈴木が口を開いた。くすくすと口元に手を当てて笑う女たち。
 一瞬、白眼で睨みつける。現朗は友人の前に手を置いて、押しとどめた。
 やり場のない怒りに、激は拳を振り上げて、壁を叩く。
 轟音を伴って宿が震えた。
 腹で息をして怒りを抑えようとするが、出来そうにもない。つかつかと蘭は部下の前まで来た。

「任務に集中しろ」

「っ!」
激の赤い顔を、冷たく見下す。普段ならば犬のように忠実な男なのに、命令だけでは彼の怒りは全くおさまらない。
「お二人だけにしても宜しくてよ」
追い討ちをかけるように女の言葉が飛んでくる。
「……日明様がいるのに、はしたない女」
「全く。もしかしてそのために軍に入っているのじゃない?」
「そうよねぇ」
 激の限界値が低いわけではないが、これ以上我慢させることは出来ないだろう。女の声は人の神経を逆撫でするのにはこれほどいいものはない。零武隊隊員には口を酸っぱくして条件のことをいっているし、条件を破った場合の処置もきちんと言っている。それでも……激昂してしまえば、あの条件を守り通すことは相当困難だ。
 危険は高くなるが仕方がない、と蘭は判断した。
「現朗。一人で部屋までの護衛を頼む。着替えが済んだらすぐに私も行く。
 激、お前は外の警護に回れ」
言うだけ言って、返事を求めず激の真横を通り過ぎた。
 女たちの言葉を一切耳に入れないで、足早に廊下を歩く。
 彼もやや遅れてついてきた。
 「最っ低な女どもだな。あれが帝の関係だと? なめんのも大概にしとけよ。どうしてあんな屑がのうのうと生きてやがる。しかもどうして偉そうにお言葉なんぞ垂れるんだよ畜生っ!
 早く畜生道にでもどこにでも堕ちやがれっ。つーか俺がおとしてやりてぇっ。
 あいつら、自分が命狙われているってこと分かってんのかよっ!?」
「分かっていない」
角を曲がったとき、いきなり蘭は足を止めて、振り返った。
 激はびっくりして立ち止まる。
 その顔を蘭は上目遣いで、睨みつけた。
「だが、それくらい、いつものことだ。
 今回を限りに私だってこんな任務は御免だ。
 ……わかるな?」
上官の声に、一瞬で、激は正気に引き戻された。
 みるみるうちに、彼の眉毛はハの字にうなだれる。
 今にも泣き出しそうな表情だ。大の男が、どうしようもないくらいに情けなく。
「大佐……すまねぇ」
掠れた声が蘭の耳に届く。
 折角、条件を元帥府からもらったのだ。それを初日から失敗しそうになった。
 暴力禁止。絶対に手をあげてはならない。
 わかっていたのに、いとも簡単に我を忘れかけた。
 ……蘭の顔に、火傷の痕があったからだ。
 自分が不甲斐なくてしょうがない。
「わかればいい」
くるりと背を返したので、彼女は見えなかった。
 確かにこの部下は、条件を忘れかけた自分を叱咤していた。だが、一方で、別の感情が湧き起こっていた。

 あいつらに、大佐が苛められた。
 その時、自分は、のうのうと廊下で見張っていた。
 何よりあの女どもに、一矢報いてやれなかった。
 その全てが許せない。絶対に許すことが出来ない。

 その強い思いを、蘭は見つけることが出来なかったのだ。