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 ・・・  波瀾万丈9  ・・・ 


 手綱を持ち、厳しい命令と人懐こい優しげな声とを使い分けながら馬を落ち着かせる。時折鞭が唸って地面で炸裂した。彼の馬の扱う技術は、相当なものだ。
 周りをよく見れば、土手の方から人が続々と現れている。川岸の土手から這い登ってきたのだ。皆、御者台の男と同じように黒い軍服を着ていた。
「日明大佐。助太刀いたします」
「彼女は私らが」
黒い軍服は日明中将の部隊だ。
 日明は小さな硝子窓から鈴木たちに言葉をかけた。
「元子様。落ち着き下さい。
 もう、大丈夫ですよ」
蘭は軍帽をとって、夫に投げた。
「中将、助かる。
 ……これはうちの躾の問題だ。お前の部隊の力は借りない。馬車を頼む」
「はいはい」
帽子を受け取ってやさしい笑みを返す。長い髪を振り乱しながら、蘭は刀を捨てて鞘だけで迫った。先陣を切っていた黒装束の数人にとびかかる。
 相手は怯まなかった。
 蘭を相手にして、自棄でも無謀でもなく己の技術を最大限に出して斬りかかってくる。
 自分が死ぬと理解し、また間違って勝ったならば尊敬すべき上官を失うとも理解して、なおも冷静な感情のまま斬りにいくことができる。それが零武隊の強さだ。
 気合負けなどはしない。
 ゆえに蘭も己の力を余すことなく発揮した。ただ彼女の場合はお灸をすえる意味も込めてあえて鞘を使った。隊員たちを煽るにはもってこいの素材だ。
  「どう? あれが、零武隊だよ。
 まあ蘭さんには形無しだけどね、一応そこそこ全員出来るよ。おやおや。今の連続攻撃はいいね。そう思わない? あそこで突きがくるなんて普通避けられないだろ」
日明は御者台に乗った部下に、嬉しげに囁いた。
「零武隊の実力はともかく、護衛の下手さには目を見張るものがありますね。
 だいたい、なんで護衛対象と敵対関係になるんですか。
 というか、自分たちが襲ってどうするんですかっ。聞いたことありませんよ」
「厄介事自家生産タイプだからねぇ。
 まあ、後で彼らの面倒見てよ。お願いね」
すぐに勝負はついた。
 十人ほど蘭が打ち倒した時点で、撤退が始まり、十五人ほど倒した頃にはもういなくなっていた。失神した者たちも他の者が連れて帰り、足跡ばかりが残っている。
 蘭はようやく、馬車のところまで戻ってきた。
 久しぶりに夫を見て懐かしく思ったが、その感情を一切殺して敬礼する。
「日明中将。この度はわざわざご助力頂き大変有難く存じます」
「日明大佐。
 大変な任務を零武隊に任せ、面倒をおかけした。行幸のほうは無事済んだ。汽車内で引継ぎを行う。まずは鈴木様方を駅までお連れしろ」
「……はっ」
ワンテンポ遅れて、蘭は返事する。
 面倒な、という心情が顔に出ているのを夫は見逃さない。
 中将の隊員たちは馬車の周りにつき、一人だけ車内に乗り込ませた。女性たちの心を慰める役が必要だ。
 蘭を無理矢理御者台に乗せ、横に日明が座る。手綱を渡すと、それを受け取らずに反対側から下りようとした。
「左側を担うのは、私がしよう」
その背中をがしっと日明が掴む。
 逃がすものか。
「日明大佐。
 先ほどの馬車の運転は、非常に気になるのだが?
 ……運転は初心者ではないよね。まさか」
む、と、言われたくないところ突かれて言葉に詰まる。
 しぶしぶ手綱を受け取って大きく振った。馬は先ほどまで荒れていたのを忘れたかのように、スムーズに走り出す。日明がいることで馬の気持ちが落ち着いたのだろう。
 「早い到着でしたね。
 先の連絡では、名古屋駅で護衛を交代するというお話でしたのに」
「ああ。行幸の帰り途中で隊員の半分に駅から先の護衛を任せた。汽車を乗り継いでなんとかさっき到着。
 色々そちらであったことはわかっていたから、とにかく対岸の橋の側で待機していたんだ。君の部隊はやることは大胆だけど想像がつくからね。
 僕らよりも前に先客がいたけれど、それらはあっさり君のところにやられた」
ただ、と彼は肩をすくめた。
「橋が壊れたから川を渡るのに時間がかかって遅れてしまった」
蘭は横を眺めた。
 確かに大きな川だが、浅く、水量はない。特に準備がなくても渡れそうだ。ただ土手が高いので、それを登るのに時間をくったのだろう。
 日明の軍服が草に汚れているのを見て、口元に笑みが浮かんだ。
「肩に草がついているのをお取りしてもいいか?」
「お願いするよ」
蘭は久々に動いたので機嫌が良い。
 妻が思ったより元気で日明は安堵した。
 橋の様子を見に行かせていた部下が、走って戻ってくるのが見える。彼は数メートル前になると、息をつかず、大声で叫んだ。
「橋が、壊れておりませんっ。
 爆破は、偽装でした」
あまりの内容に、二人は一瞬顔を合わせた。
 とりあえず、馬車を急がせる。
 橋は少しも壊れていなかった。ただ火で焼けた後が、木製の床に黒々と残っているだけだ。
「てっきり壊れたと思った。
 あの音といい、煙といい。火もきちんと飛んでいたし。上手いね」
「……うむ」
おそらく現朗だろうか。
 あのぎりぎりの状況では完全に騙された。

 現朗頼んだぞ。銃はいいが、民間に被害をあまり出すなよ。

蘭は自分の命令を思い出す。確かに、火の矢も河川の方に打ってきたし、持っていた武器も刀だったし、民間人が巻き込まれない細やかな配慮がある。
 そんな命令を聞く余裕があるならば、どうして襲撃とかするのだ。あいつは。