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 ・・・  羽化登仙  9  ・・・ 


 一人の任務なんて久し振りだった。
 普段現朗が任されるのは比較的帝都の側の任務が多いが、今回は伊豆まで足を伸ばすことになった。わざわざ伊豆までやって来て情報収集したところ、分かったのは一点。
「……ガセか」
変な新興宗教が起こり始めている。
 ―――という、それ自体が偽の情報だった。
 誰が、何のために、とそこを探って新たなことが分かった。
 ただの町興しだった。
 それを聞いた瞬間、全身から力が抜けてその場に蹲ってしまった。不穏な事件の始まりでなくて良かった、と素直に喜べない自分がいる。
 それを伝えた役場の青年も決まり悪そうにしていた。現朗は町の重鎮全員に厳重に注意をして戻ってきたところだ。これ以上有用な情報は得られまいと悟って、伊豆に留る事なく帰ってきた。賢明な判断である。
 帝都に着いたのは日付変更線を越えた頃だった。現朗は陸軍特秘機関研究所の自分の机に座って、そして、書類を整えていた。あまりにも馬鹿らしいこの顛末を彼は丁寧に文字に起こしていく。ものの三十分で全ては書き終えてしまった。
「さてと」
言いながら指を組んで伸びをする。
 首をぐるりと回せばぼきぼきと勁椎が鳴った。
 馬鹿らしい。こんな仕事を、よくもあの日明大佐がこちらに回したもんだ。もう少し調べてからにしてくれれば良かったのに。
 百の文句が胸の裏を回る。
 現朗とて暇ではないのだ。確かに、毎日のように同僚に襲いかかってはいるが。
 鞄を持ち上げて中を確かめる。
 が、まあこのままでも良いかと思って机の上に放り出した。わざわざ持ち帰る必要もないだろう。
 席を立ち、刀を携える。
 持ってきた明りを吹き消せば、部屋は真っ暗になった。
 出入り口の扉が何時の間にか開いていたことに、彼はその瞬間気づいた。
 廊下の窓から差し込む月明り。
 その光が、廊下に佇む不審者の存在を浮き上がらせる。
 男の手には抜き身の刀が握られていた。
「……見つけた」
低く、くぐもった声。
 現朗は男としっかりと目が合った。男が疾駆する。覆面をしており、軍服に身を包んでいる。色付きの軍服。机を避けながら金髪に襲いかかってくる。
 現朗は動かない。

 ―――否、動けない。

 右手が硬直し、左手が震え、ただ呆然としながら見つめている。その男が刀を振り上げる様子がスローモーションのようにゆっくりと見えた。斬られる。本能が悲鳴を上げるのに、理性が哂う。
 斬られたいのだと哂う。

 疎外感を味わいながら、ここに居るのは疲れた。
 仲間の居心地の良さを教えてくれた思い出のある場所。だから、余計に。
 無数の敵意に晒されていられるほど、強くはないのだ。

 血をかぶって喜んでいたのは、多分、血の色だけが他人と同じだということが嬉しかったからだ。肌の色も、髪の色も、顔のつくりも目の色も何も彼もが違うゆえに、『赤』の色は救いに見えた。異形のモノと人の境が曖昧なこの世で、唯一こちら側に引き止めてくれる証しだ。
 唐突に頓悟した。だからといって、今更なにが変わるわけでもないが。
 結局理性が勝って、金髪の口元は綻んだ。
 相手の白刃はもはや眼前に迫っていた。

「現朗、刀を抜けぇぇぇぇっ」

轟音とも思える叫び声が、青年の脳の中に直接響く。
 右手が素早く柄を取る。
 目にも留まらぬ速さで抜刀する。
 がぎんっ、と耳障りな音がして刃同士がぶつかりあった。
 現朗は自身の行動に驚きを覚えた。
 なのに、何故だか嬉しい。
 斬られなかったというのに、無性に嬉しくてしょうがない。
 抜きかけの現朗の方が不利にもかかわらず、相手ごと力押しで撥ね除ける。
 後ろに押されて男がたたら踏む間に、素早く刀を構える。
「はぁっ!」
大きく、刀を振りかぶった。
 全身全霊の力を込めて繰り出す一撃。
 不審者も、それを受け止めるのに精一杯だ。
 部屋の隅では日明大佐が悠々とそれを眺めていた。腕を組み、二人の男が戦う様を見つめている。刀同士がぶつかりあうその音。蘭の好む、正々堂々とした武人同士の戦いだった。小細工など通用しない達人レベルの戦い。気を抜けば確実に何かを失う。
 どちらかが窓ガラスを打ち砕く。独特の崩壊音。そして、涼しい風が部屋を駆け巡って出ていく。
 さて。
 と、蘭は息を吐く。最後まで見届けたい欲求もあったが、それは今回の目的ではない。現朗の太刀筋が伸び伸びと自由になった。もう目的は達成された。
 とん、と軽く床を蹴ってじりじりと間合いを計る二人の間に割り込む。
「双方そこまで。
 刀を収めろ」
勿論。真剣勝負の真っ最中の男が、その言葉を聞くはずがない。
「はぁぁっ!」
「どりゃぁぁっ!」
二人揃って、邪魔をするなとばかりに蘭に切りかかってくる。
 それは予想済み。
 身を捩って二刀を避ける。
 そして、全身の反動をつけて両手の握り拳を振り回した。

 どご。

 やたら鈍い鈍い音がして、二人の顔の真ん中の人中にクリーンヒット。
 男二人、床に転がって悶絶した。気絶しなかったのは流石だが、戦闘意欲は完全に失せた。
 蘭は膝を折って、現朗の肩を叩く。
「どうだ?」
ぐふぐふと変な息を吐きながら、涙目で現朗は見上げた。押さえている手から鼻血が漏れている。
「な、にが、で、すか……っ!?」
そのぼろぼろの表情に、流石の蘭も一瞬引いた。
 やりすぎたかも、と今更ちょっと後悔が過ぎるかどうしようもない。
「すまん。激は、手加減が出来ぬ奴でな」
彼女は敢えてすっ惚けていってみるが、それは流石に殺意の沸く一言だ。
「きっぱり、大佐の、一撃が、原因ですから」
後ろでは、覆面をとりながら、激も非難めいた呻き声を上げている。しかしそれ以上に止まらない鼻血の方が大問題だ。ぼたぼたと床に零れるのを、必死で覆面の布で拭いていた。現朗よりも激のほうが重傷だった。
 しばらく抑えているうちに、現朗の血はなんとか止まった。
 蘭は部下の様子をみて、朗らかな声で言った。
「どうだ。
 豪快に振ると変わるだろう?」

変わる―――?

 と、聞き返そうと思ったが、唇が動かない。
 今まで現朗の胸を押さえつけていた何かが、影も形も無くなっていた。息をすることが、こんなにも楽なことだったなんて。

 どうして、と不思議そうに蘭を見上げる。

 切れ長の美しい瞳に、感情が宿って揺れている。おもむろに、蘭は現朗の懐を探って小刀を取り出した。それを割れた窓の外から放り投げる。
 青年は惚け表情で、為すがままだ。
 蘭は次の狙いを刀に定める。白い手袋が、現朗の右手を包み込んだ。なかなかはずそうとしないので、一本、一本と指を柄から外してやる。刀が床に落ち、音を立てた。
「……大佐」
掠れた声で、男は呟くようにいった。蘭は彼の刀を自分の側に寄せる。後ろにいた激がそれを取り上げて持って行った。
「どうした?」
「あれは……
 ……………………
 ……事故、だった、と、思います。
 私が、切った、相手が、彼でした。でも襲いかかって来たので、敵の一人だと、思ったのです。相手が、彼と気付いて、俺は、追いかけた……。……次に彼を見つけたときには……もう、死んでいました……そして、火が……」
「ん、そうか」
―――と、蘭は血の吐くような独白に、素っ気なく返した。それ以上は何も言わずに、青年の言葉をただただ聴いていた。彼女が黙ってくれていることの有難さが心に沁み込んだ。
 自分でも気付かぬ間に溢れた涙が、頬を伝わって落ちる。
 ……もし、日明大佐に拒絶されたらと思うと、怖くて言えなかった。彼女に疑われるくらいなら、それを知らないままに死んでしまいたかった。
 全てを吐き出しているうちに、現朗は確かにカタルシスを感じていた。涙が体の毒を吐き出し、全身が浄化される。懺悔は止まらず全てを話していた。
 蘭はいつの間にか懐かしそうな目で彼を見つめていた。
 それは、昔、自分を見ていた目だ。十年前の自分ならば確実にその胸で泣いていただろう。縋りたくなる衝動を必死で堪える。子供っぽい姿はもう晒したくない、特に彼女には。
「報告が遅すぎるわ、愚か者が。
 今後一週間、お前は武器を所持を禁ずる。少しは大人しくしていろ。お前の刀の代わりは、激だ。
 この男の人の良さは、上に馬鹿がいくらついても足りないくらいだからな」
いつになく柔らかな口調で、彼女は言い聞かせるように言う。
 項垂れながら、現朗はその言葉を聞いていた。
 すっかり武器に依存していたことに、今、ようやく気づかされた。武器がなければ自分を保っていられないほどだった。手から刀が外れなかったからこそ、刀を取り上げてくれたのか。
 そう思うとまた嬉しさに涙が零れた。
「現朗、返事はどうした」
金髪は顔を拭った。一瞬見た白手に真っ赤な鼻血がついていたが、もう、どうとも思わない。
 刀がなくても、何の不安もない。
 血の色が赤でなかったとしても、迷いはしないだろう。
「拝承しました」
首を上げたその顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。