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一人の任務なんて久し振りだった。 普段現朗が任されるのは比較的帝都の側の任務が多いが、今回は伊豆まで足を伸ばすことになった。わざわざ伊豆までやって来て情報収集したところ、分かったのは一点。 「……ガセか」 変な新興宗教が起こり始めている。 ―――という、それ自体が偽の情報だった。 誰が、何のために、とそこを探って新たなことが分かった。 ただの町興しだった。 それを聞いた瞬間、全身から力が抜けてその場に蹲ってしまった。不穏な事件の始まりでなくて良かった、と素直に喜べない自分がいる。 それを伝えた役場の青年も決まり悪そうにしていた。現朗は町の重鎮全員に厳重に注意をして戻ってきたところだ。これ以上有用な情報は得られまいと悟って、伊豆に留る事なく帰ってきた。賢明な判断である。 帝都に着いたのは日付変更線を越えた頃だった。現朗は陸軍特秘機関研究所の自分の机に座って、そして、書類を整えていた。あまりにも馬鹿らしいこの顛末を彼は丁寧に文字に起こしていく。ものの三十分で全ては書き終えてしまった。 「さてと」 言いながら指を組んで伸びをする。 首をぐるりと回せばぼきぼきと勁椎が鳴った。 馬鹿らしい。こんな仕事を、よくもあの日明大佐がこちらに回したもんだ。もう少し調べてからにしてくれれば良かったのに。 百の文句が胸の裏を回る。 現朗とて暇ではないのだ。確かに、毎日のように同僚に襲いかかってはいるが。 鞄を持ち上げて中を確かめる。 が、まあこのままでも良いかと思って机の上に放り出した。わざわざ持ち帰る必要もないだろう。 席を立ち、刀を携える。 持ってきた明りを吹き消せば、部屋は真っ暗になった。 出入り口の扉が何時の間にか開いていたことに、彼はその瞬間気づいた。 廊下の窓から差し込む月明り。 その光が、廊下に佇む不審者の存在を浮き上がらせる。 男の手には抜き身の刀が握られていた。 「……見つけた」 低く、くぐもった声。 現朗は男としっかりと目が合った。男が疾駆する。覆面をしており、軍服に身を包んでいる。色付きの軍服。机を避けながら金髪に襲いかかってくる。 現朗は動かない。 ―――否、動けない。 右手が硬直し、左手が震え、ただ呆然としながら見つめている。その男が刀を振り上げる様子がスローモーションのようにゆっくりと見えた。斬られる。本能が悲鳴を上げるのに、理性が哂う。 斬られたいのだと哂う。 疎外感を味わいながら、ここに居るのは疲れた。 仲間の居心地の良さを教えてくれた思い出のある場所。だから、余計に。 無数の敵意に晒されていられるほど、強くはないのだ。 血をかぶって喜んでいたのは、多分、血の色だけが他人と同じだということが嬉しかったからだ。肌の色も、髪の色も、顔のつくりも目の色も何も彼もが違うゆえに、『赤』の色は救いに見えた。異形のモノと人の境が曖昧なこの世で、唯一こちら側に引き止めてくれる証しだ。 唐突に頓悟した。だからといって、今更なにが変わるわけでもないが。 結局理性が勝って、金髪の口元は綻んだ。 相手の白刃はもはや眼前に迫っていた。 「現朗、刀を抜けぇぇぇぇっ」 轟音とも思える叫び声が、青年の脳の中に直接響く。 右手が素早く柄を取る。 目にも留まらぬ速さで抜刀する。 がぎんっ、と耳障りな音がして刃同士がぶつかりあった。 現朗は自身の行動に驚きを覚えた。 なのに、何故だか嬉しい。 斬られなかったというのに、無性に嬉しくてしょうがない。 抜きかけの現朗の方が不利にもかかわらず、相手ごと力押しで撥ね除ける。 後ろに押されて男がたたら踏む間に、素早く刀を構える。 「はぁっ!」 大きく、刀を振りかぶった。 全身全霊の力を込めて繰り出す一撃。 不審者も、それを受け止めるのに精一杯だ。 部屋の隅では日明大佐が悠々とそれを眺めていた。腕を組み、二人の男が戦う様を見つめている。刀同士がぶつかりあうその音。蘭の好む、正々堂々とした武人同士の戦いだった。小細工など通用しない達人レベルの戦い。気を抜けば確実に何かを失う。 どちらかが窓ガラスを打ち砕く。独特の崩壊音。そして、涼しい風が部屋を駆け巡って出ていく。 さて。 と、蘭は息を吐く。最後まで見届けたい欲求もあったが、それは今回の目的ではない。現朗の太刀筋が伸び伸びと自由になった。もう目的は達成された。 とん、と軽く床を蹴ってじりじりと間合いを計る二人の間に割り込む。 「双方そこまで。 刀を収めろ」 勿論。真剣勝負の真っ最中の男が、その言葉を聞くはずがない。 「はぁぁっ!」 「どりゃぁぁっ!」 二人揃って、邪魔をするなとばかりに蘭に切りかかってくる。 それは予想済み。 身を捩って二刀を避ける。 そして、全身の反動をつけて両手の握り拳を振り回した。 どご。 やたら鈍い鈍い音がして、二人の顔の真ん中の人中にクリーンヒット。 男二人、床に転がって悶絶した。気絶しなかったのは流石だが、戦闘意欲は完全に失せた。 蘭は膝を折って、現朗の肩を叩く。 「どうだ?」 ぐふぐふと変な息を吐きながら、涙目で現朗は見上げた。押さえている手から鼻血が漏れている。 「な、にが、で、すか……っ!?」 そのぼろぼろの表情に、流石の蘭も一瞬引いた。 やりすぎたかも、と今更ちょっと後悔が過ぎるかどうしようもない。 「すまん。激は、手加減が出来ぬ奴でな」 彼女は敢えてすっ惚けていってみるが、それは流石に殺意の沸く一言だ。 「きっぱり、大佐の、一撃が、原因ですから」 後ろでは、覆面をとりながら、激も非難めいた呻き声を上げている。しかしそれ以上に止まらない鼻血の方が大問題だ。ぼたぼたと床に零れるのを、必死で覆面の布で拭いていた。現朗よりも激のほうが重傷だった。 しばらく抑えているうちに、現朗の血はなんとか止まった。 蘭は部下の様子をみて、朗らかな声で言った。 「どうだ。 豪快に振ると変わるだろう?」 変わる―――? と、聞き返そうと思ったが、唇が動かない。 今まで現朗の胸を押さえつけていた何かが、影も形も無くなっていた。息をすることが、こんなにも楽なことだったなんて。 どうして、と不思議そうに蘭を見上げる。 切れ長の美しい瞳に、感情が宿って揺れている。おもむろに、蘭は現朗の懐を探って小刀を取り出した。それを割れた窓の外から放り投げる。 青年は惚け表情で、為すがままだ。 蘭は次の狙いを刀に定める。白い手袋が、現朗の右手を包み込んだ。なかなかはずそうとしないので、一本、一本と指を柄から外してやる。刀が床に落ち、音を立てた。 「……大佐」 掠れた声で、男は呟くようにいった。蘭は彼の刀を自分の側に寄せる。後ろにいた激がそれを取り上げて持って行った。 「どうした?」 「あれは…… …………………… ……事故、だった、と、思います。 私が、切った、相手が、彼でした。でも襲いかかって来たので、敵の一人だと、思ったのです。相手が、彼と気付いて、俺は、追いかけた……。……次に彼を見つけたときには……もう、死んでいました……そして、火が……」 「ん、そうか」 ―――と、蘭は血の吐くような独白に、素っ気なく返した。それ以上は何も言わずに、青年の言葉をただただ聴いていた。彼女が黙ってくれていることの有難さが心に沁み込んだ。 自分でも気付かぬ間に溢れた涙が、頬を伝わって落ちる。 ……もし、日明大佐に拒絶されたらと思うと、怖くて言えなかった。彼女に疑われるくらいなら、それを知らないままに死んでしまいたかった。 全てを吐き出しているうちに、現朗は確かにカタルシスを感じていた。涙が体の毒を吐き出し、全身が浄化される。懺悔は止まらず全てを話していた。 蘭はいつの間にか懐かしそうな目で彼を見つめていた。 それは、昔、自分を見ていた目だ。十年前の自分ならば確実にその胸で泣いていただろう。縋りたくなる衝動を必死で堪える。子供っぽい姿はもう晒したくない、特に彼女には。 「報告が遅すぎるわ、愚か者が。 今後一週間、お前は武器を所持を禁ずる。少しは大人しくしていろ。お前の刀の代わりは、激だ。 この男の人の良さは、上に馬鹿がいくらついても足りないくらいだからな」 いつになく柔らかな口調で、彼女は言い聞かせるように言う。 項垂れながら、現朗はその言葉を聞いていた。 すっかり武器に依存していたことに、今、ようやく気づかされた。武器がなければ自分を保っていられないほどだった。手から刀が外れなかったからこそ、刀を取り上げてくれたのか。 そう思うとまた嬉しさに涙が零れた。 「現朗、返事はどうした」 金髪は顔を拭った。一瞬見た白手に真っ赤な鼻血がついていたが、もう、どうとも思わない。 刀がなくても、何の不安もない。 血の色が赤でなかったとしても、迷いはしないだろう。 「拝承しました」 首を上げたその顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。 |
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