10
 ・・・  羽化登仙  6  ・・・ 


 暗い闇。
 その中で蠢く生き物。
 間断的に聞こえる断末魔。
 木々の中を駆け抜けながら、激は太い鋼鉄の棒を振り回した。木々の風以外でざわめく音は、ぴたりと彼の後を追いかけてきていた。時折、彼を目掛けて何人―――何匹―――の不思議な獣が襲いかかってくる。蝙蝠と狼と猫を混ぜて蛇の皮で包まれたような、その化け物。全身から腐臭が漂うそれは屍界の生き物だった。
 棒が打ち砕いたのは彼の物の内臓だ。激が過ぎ去ってから、遅れて声が上がる。
 激は快い興奮を感じながら速度を緩めること無く走り続けていた。
 零武隊に舞い込んだ使命は、ある森の『駆除作業』。そこにある祠の封印が解けてしまい、それに応じて沢山の屍界の生物が現世に流れ込んでしまったのだ。
 日明大佐はカミヨミを連れて祠に行っており、色付き服の軍服を着た隊員たちは森の周囲を取り囲んでいる。一般人を立ち入らせないためだ。そして、白服がこの森で蠢くこの世にあってはならないモノの始末を行っていた。
 激にとってこれは初の任務といえるべきものだったが、案外すんなりと受け入れられた。日明大佐から聞いていたが、彼の想像しているお化けよりもずっと怖くなかったのだ。半透明ではないし、実体もある。
「ぎゃぁぁぁぁ―――」
牙を剥きながら、一匹、襲いかかってくる。
 激は足をいきなり止める。
 飛び走るそれは標的が居なくなって驚いたようだ。
 棒を振り上げて、それを頭から叩き潰した。飛び上がる血飛沫が僅かに頬を濡らす。地面に落ちたそれを、さらにとばかりに棒の先でそれを潰す。げぅ、と小さな最後の声。
 静寂訪れた。森に居るこの世にあるべき生物は残念ながらとっくに屍界の物に食い殺されてしまっていた。死臭が周囲から立ち上ぼり、それを風が浄化しようとするが梨の礫だ。もはやこの地は大地そのものが穢れてしまったのだから。
「……よーし、終ーわり」
額を拭って空を見上げた。
 鳴呼。月が―――。
 なんて、明るいのだろう。朗月と表現できるほどそれは吸い込まれるように冴やかだった。  
 殺戮者たちを見下ろすその円やかな微笑みに、激の全身を襲っていた疲労感が昇華していく。

 戦え、闘え、と美女が急かす。

 悪寒が全身を駆け巡った。
 訳も分からず、激はその場を飛び退く。
 彼の居た場所に十本のナイフが付き刺さる。一瞬でも遅れていれば無事では済まなかった。
「遅えじゃねえか」
棒を構えながら、激は振り返って言った。ナイフが飛んできたのとは正反対の方向に、一人の男が抜き身の刀を持って静かに佇んでいる。白い軍服は言葉には表現できない色に染まっていたが、激の待ち人に間違いはなかった。
 月よりもなお明るい金色の髪。
 夜空に浮かぶ天女よりもなお美しいその顔。
 ―――生気のない虚ろな目が輝いた。
 現朗が駆け出す。同時に、激も走り出した。
 鋼の棒が、現朗の身に襲いかかる。
 その動きは道場で見た時よりも―――何倍も早い。
「……っく」
焦った表情を浮かべて、防御に転じる。顔と顔が近付く。
 現朗を下から覗き込む男の、ふてぶてしい顔。そして輝く目。それを見ているだけで、何故だろう、全身に怒りが込み上げてくる。身が焼き焦がれる。
 現朗は横から強烈な蹴りを繰り出す。
 その前に激は飛びのいて、間合いをとった。
 空を切る軍靴。
「これで何度目だ。
 初めは独身寮、次は見回りの最中。食堂もあったし、厠は三度くらい襲おうとしてただろ。
 道場の稽古でわざわざ負けてやったっつうのに、まだ満足出来ねえの?」
激が低い声で尋ねる。闇に埋もれてしまいそうな声だったが、この夜は余りに静かだったので、現朗の耳に良く届いた。
 ―――やはり、気付かれていたのか。
 舌打ちしながら、懐から小刀を鞘から取り出した。彼を相手に、これを隠しておく必要はない。こんなもの不意打ちにならないからだ。
 現朗は顔をあわせている間中何度も何度も殺そうとした。―――が、隙が無かった。
 なかなか一人にならないし、一人になった時は後を付けるのも難しい所へ入り込んでしまう。後ろから間合いを詰めて小刀を使おうとしたときも、あっさりと振り返って話しかけてきた。天然かそれともワザとか判断がつかなかったが、今はっきりとした。
 全身の血が沸騰しているかのように、心音がばくばくと耳のなかで谺する。
「死ね」
 斬れ。
 ―――その衝動だけが手足の隅々まで動かす。
 何も考えない。考えたくはない。
 走りだす男を見据えながら、激は一瞬真顔に戻った。にやついた口元も、小馬鹿にした目も何もかもが無くなった。
 月が浮かび上がらせたのは、穏やかで優しげな目。

「……お前には、無理だ。俺を殺せねえよ」

思わず、勢いをつけていたはずの青年の足が止まる。
 恐怖もなく、殺気もなく、ただ真っ直ぐに自分を見据えられた。
 ただ、それだけのことだったのに。現朗の体には電撃を走ったような、変な感覚が走った。急に、逃げ出したくなった。相手が大きくなったように見えた。足が震えていた。
 ―――それらを一言で言い表せば、怯えだ。
 だが、青年はそれを理解できない。ゆえに戸惑う。
 現朗の困惑が、激にも手にとるように判った。

 この男が欲望のためだけに部下を殺した?
 殺人鬼? 殺人中毒だというのか?
 無意識なんかじゃない。確かに今、感情があるじゃないか。むしろ―――

 最終的に、現朗の感情は怒りになった。一瞬でも動揺した自分に怒りを覚えた。ぎりり……と奥歯を噛み締め、刀をきつく握る。怒りは全て殺気に変える。
 見開いた目が、細められた。
 彼は再び、一直線に激の喉元をめがけて突く。激は繰り出される突きを素早く体捌きで躱し、どんどん後退する。
 ある程度間をとってから、激はくるりと背を返した。
 当然、殺人鬼はその後を追いかける。しかし、普段の相手とは違ってなかなか簡単に追い付けるものではない。逃げに専念して迷いが無い相手は、さらに厄介だ。
 糠星が太陽の光で消されるまでその追いかけっこは続き、結局二人は揃って日明大佐に大目玉を食らった。