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抜ける様な青空に蝉の声が響く。 自分がいなくなった後の二階の官舎の部屋からは、賑やか声が聞こえてくる。 訓練場の片隅で、多くの時間を費やすのが現朗の日課だった。サボっている訳ではない。単に、机の上ですべき仕事はここまで持ってきて木陰で書きあげてしまうのだ。 真夏の訓練場に出入りする人などいやしない。体温感覚の麻痺している自分でなければ、うだるような暑さだ。 そうしているうちに一枚の書類が書き終わる。これで今日までの仕事はすべて終了だ。 書類が終わるといつも嫌な気分になった。なのに、なまじデスクワークは得意だから、いつもすぐに終わってしまう。 鞄に新たな書類がなくなれば、官舎の自分の机に戻らなければならない。それがとても苦しかった。一人は好きだ。永遠に孤独ならどんなに嬉しいだろう。どうして人は人の中でしか生活できないのか。 ―――だが、今は。 左手で小刀を鞘から抜いて握り締めた。 暑いので、二階の官舎の窓は全て開いている。 小脇に鞄をはさみ、ニ三歩後ろへ後退した。助走をつけて一気に官舎の壁を駆け上り、窓へ到達する。 「……隊長」 気づいた真後ろにいた部下が、掠れた声を上げるので一睨みして黙らせた。 まだ部屋の多くの隊員たちは金髪が入ってきたことに気づいていない。特に、話題の中心になっている激は。椅子の上でだらけきっていた。鬱陶しい髪が床にペタンとついていたので、誤ってそれを踏んでしまった男にがなりたてている。 「あのなぁっ! 髪ってのは引っ張られたら痛いんだよ。そこデリケートなのっ。俺の一太郎と同じくらい痛いんだよぉぉうっ」 「じゃあ切ればいいじゃないすか」 しれっと相手は言い返す。それはまあ、そうだ。 激の髪はあまりにも長くて予想外のところにあったのだ。何故こんなにも叱られなければならないのだろうか、と男の不満は言葉の端端から伝わる。 「そんなことしたらどんな髪型になっちまうかわからねえだろおぉぉ―――」 ばんばんと机を叩きながら絶叫する激。本人にとっては譲れないポリシーなのだろうが、どこかずれているように周囲は思った。暑いから面倒なので深くは考えないが。 「……一太郎って名前つけてんだぁ」 「俺と同じ名前だ」 「うっわ。おれは姫子だよ」 「なんでわざわざ女なんだ?」 などとこそこそと、書類を書きながら会話をしている。どんなときであっても、激がいる限りこの部屋に沈黙も静寂もない。誰もが、黙ってはいられなくなる。 昔は、少しはそういう雰囲気もあった。自分が隊長格になる前は―――。 少しだけ現朗はその賑やかな空気に浸っていたくて、暫く身を潜めていた。唯一気づいている部下は気になってはいるようだが、振り返るような真似はしない。有難い。 また激があげた一言に、部屋にいた全員が失笑する。五十人以上もいるというのに。 ……なんて、場違いだろう。 言い様のない後悔が襲ってきた。身がつままれるような痛みで、息苦しい。 それを誤魔化したくて、現朗は体を上げた。滑らかな動きで椅子と机の間を潜り抜けながら、激へ向かう。 激は机に突っ伏してぶすぶす文句を言っている。気づいた様子はない。 現朗の持ち上げた小刀の白刃が激の頭に迫った。 「隊長っ!」 「激っ」 青白く光る刃が振り下ろされる―――瞬間。 ぱしっと金髪の腕を握られた。 激はくたりと仰向けになりながら、上官の顔を見上げた。 「よーっと、やっと来た。 殺気垂れ流し過ぎ。暗殺得意じゃないだろ」 「普段そんな任務はせんからな」 ぎりぎりと力を込めながら淡々と言い返すが、激の太い腕はぴくりとも動かない。 部下たちは、非難めいた目で現朗をみていた。 胸が早鐘のように打ち付ける。またあの、苦い後悔が胸に広がった。逃げたい、一人でいられるところへ、逃げたくてしょうがない。 金髪の手かた力が抜けていくのを感じて、激はつかんでいた手を離す。裾をずらしながら見れば思い切り跡が残っていた。踵を返して、己の机に向かう。次の仕事や、部下から裁可を求める書類がいくつかあった。この分なら一時間もかからないだろう。 鞄に閉まっていた書類を取り出し、机の上のものと交換する。 椅子に座ったまま激は、上半身を返しながらその様子をまじまじと見ていた。 「現朗中尉殿〜」 と、猫撫で声。 はぁ? と慣れぬ呼称に疑問符を浮かべながら現朗は振り返る。そこにはえへへと締まりない顔を浮かべている青年がいた。 「一週間前にもらった仕事なんだけどさ、俺、全然、出来ないんで」 「……一週間前?」 現朗の頭に過去が走馬灯のように過ぎる。 激がデスクワークが不得手なのはすぐにわかったので、そんなに仕事は頼まなかった。ゆえに、彼に頼んだ仕事は殆ど覚えてしまっている。 大佐に調べろと命じられた内容を、調査結果を渡して書類にして提出するよう頼んだ―――はずだ。一週間前に。 白磁のように滑らかで透明な現朗の肌が、冗談抜きで真っ白になる。 「手伝って☆」 「こぉぉぉっの、無能っ!」 我知らずうちに現朗は刀を抜いていた。 手当たり次第に書類をひったくって、激は入り口から逃げ出す。 小一時間その刃から逃げ切って、疲れた上官の元にまたあの笑顔でいけしゃあしゃあと激は協力を申請したのである。 ****** 「……お疲れ様でした」 息切れ気味の隊長に、そう言って布巾が差し出された。 今日もまた帝に仇を成す者たちの駆逐作業で、それ自体は半刻もかからなかった。その後、激とは一時間以上追い駆けあっていた。 現朗は荒く息を吐きながら、部下を上目遣いに睨みつけた。余計なことをするな、とばかりに。 相手は殺気を感じて、慌てて布巾をひっこめる。 だが、現朗の後ろから人が乗りかかった。 「ありがとさんっ。 ほれよ、拭いとけって。地面にこぼれると掃除大変なんだからさー」 軽い声、逆立つ特徴的な髪。激は手を伸ばして眼前の部下から布巾を奪い取り、それをひょいっと現朗の頭に被せてやる。悔しいことに、刀の技量では多少激を上回るが、スタミナに関しては圧倒的に劣る。息切れして今にも倒れそうな現朗とは違って、激はまだまだ余裕があった。だから追いかけっこの後は、激は馴れ馴れしく近寄ってくるのだ。 現朗の視界は布巾にさえぎられて真っ白になる。 布巾は頭にかかった液を吸い、見る見るうちに赤が滲む。 金髪は同じ体勢で立ち止まっていた。 息遣いが、変化する。肩で荒く吐いていた吐息が、聞こえない。ひゅっ、ひゅっと不思議な音がのどを鳴らす。 時計の上で一分以上の時間が過ぎて、さすがの大雑把な激も違和感を覚えた。てっきり追い払われるとか刀を抜かれるとか思っていたのに。 訝しがりながら、布巾の隙間から顔を覗き込んだ。 ―――激の背筋に冷たいものが走った。 一瞬目を剥いてしまったが、直ぐに危険を察知して彼の背中から飛び退く。 はずみで汚れた布が地面に落ちた。 布の下から、小刻みに目を震わせる青年の顔が現れた。 正気のある者の顔ではないことは、一目瞭然。しかも布巾を伝わってこびりついた血が禍々しい縁取りとなって、余計に不気味さを加える。 ただならぬ様相に、周囲の男達は直ぐに刀の柄に手をかけた。 彼の箍が外れてしまったら、殺されかねない。 ―――否、殺された男がすでにいるではないか。 殺人中毒なのだこの男は。 零にしなければ、と全員が同時に同じ判定を下した。ただ、一人を除いて。 「抜くんじゃねえっ。逃げろっ」 激は周囲を守るように棒を構えながら指令を飛ばす。 男たちは一瞬戸惑った。が、この男は一応隊長副官で、任務中は上官の命令は絶対だ。そして何より、普段の様子をみていれば激ならば殺されるはずもないし、激なら殺してくれるだろうという期待があった。隊員たちは次々に背を返し館の中に逃げこんだ。 激だけが、現朗と対峙する。 現朗は、過去と対峙する。 目の前には空があり、大地があり、木があり、激が居る。しかし彼にはそんなものは目に入っていなかった。彼が見えていたのは、白い布、それに開けられた穴、そして懐かしい母と父の面影。 閉ざされた記憶の蓋の止め金が弾け飛んだ。周囲の目を気にしているうちに、そこに精神をすり減らしているうちに、留め金自体が緩くなっていたのだ。 抑圧されていたものが怒涛のように彼を飲み込む。 父も母も、横顔は美しい。暗い部屋から障子の隙間を覗いて、笑っている二人を何度も見た。そういう記憶は沢山あるのに。正面を向いた顔は――― 横隔膜がぴくんぴくんと痙攣し、呼吸が上手くできない。歯を食いしばるが、その隙間からうめき声が漏れる。腹の底から捻り出すような奇妙な声。 現朗は刀を抜いた。無意識のうちに。震える手で。 それは殺人中毒なんかではない。そんなものとは全く違うものだ。 彼は刀に依存しているのだ。決して斬ることが目的ではない。 殴られている犬ほど噛み付くのと同じだ。牙を出していないと自分が保てないだけで、犬は噛み付きたいわけではない。激は腰を落としてしっかりと相手を見つめる。だが、殺気はない。穏やかな、慈悲深い目を向けて彼を『見守る』。 この一か月で判っていた。 現朗が、敵意に異常すぎる程、敏感なことに。 いっそ哀れと思える程に。 青年は、全身で泣いているのが聞こえる。 一瞬。 激が突いた棒に青年は反応せず、あっさりと胸を打たれて倒れた。 |
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