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八俣が久々の残業が終わって深夜二時を回って外に出ると、一人の男が街灯の下に立っていた。 まずはその気配に拳銃を一瞬握り締めたが、相手が日明中将だとわかると直ぐに手をポケットから出す。月明りの下で彼がいつもの笑顔でへらへらと手を振っているのがわかったので、八俣も自然に振り返していた。 「お帰りなさい」 顔が見えるほどの距離までくると、元気そうな―――むしろ嬉しそうな―――顔の親友がいてほっとする。まあ、あの蘭を見たら欣喜雀躍として喜ぶだろうことは想像がついていたのだが。 「ただいま。蘭さんがご迷惑おかけしました。 はいこれ、今回の分」 言いながらやけに分厚い封筒を差し出す。 扉の代金が入ったとしても多すぎる量に、ぎょっとした。 「多すぎるぜ」 「いやいや。イロイロ考えたらちょうどいいくらいだと思うよ。 ……むしろ少ないかな?」 「いや多いだろ。 だいたい。あいつ何がそんなに怖くて帰れなかったんだ?」 「あ。聞いていないんだよね。そういうところ、人として信頼出来るよなぁ〜」 あはははははは。 乾いた声が熱帯夜の闇に消える。 暑くてたまらないはずなのに、どこか寒気を覚えた。 何か、不安を覚えさせる嫌な予感が己に何かを告げている。 「……ねえ八俣、蛇に咬まれたらどうなるか知ってる?」 まずはよくある謎掛けかと思った。 しばらく考えて良い答えが浮かばず、仕方なく一番に思い浮かんだ答えを口にしてみる。 「毒蛇に咬まれたら、腫れる」 「腫れるよね」 日明は夜道を歩き始めたので、八俣もわけがわからずついていった。 この時間、外はどこでも真っ暗だ。しかも日明が向かおうとしていたのは警視庁の側にある木々の深い方だ。人通りがないのは勿論だが、獣の声が聞こえるような方向へ向かっているのに気づいて、八俣は疑問に思う。 「……だから?」 返事がいくら待っても来なかったので、数歩前を行く親友に駆け足で近寄ってこちらから聞き返す。 「昔咬まれたんだってさ。蛇に」 「蛇に? ……そんなんであんな……」 言いかけて。 そのまま八俣は硬直した。 自分の記憶の奥底と全てが繋がったのだ。 昔、蘭が変なモノに咬まれたと泣きながら走ってきたことがある。 傷口を見ておよそ蛇だろうと見当がついたのでまずは手当てをと思った。が、その前に、悪友の飛天が言った。 『おめえ、そりゃ、山の神だ。山の神に気に入られたんだぜ』―――と。 また来る、絶対来るというだけで我侭な弟弟子が怯えるのが面白くてついつい調子に乗ってからかった。 お前を連れて行く。山の神は元気の良い子供が好きなんだ。 だから山ノ神が来てお前を食べるために咬んだのだ。そうに違いない。 これは間違いなく山ノ神の咬み跡だ。今晩夢に出てきてお前を連れて行く。 お前は元気すぎるから気に入られた。 連れて行って食われるか、それとも一生従者になるか。可哀想に。 後で聞いたところによると、咬まれた手は腫れに腫れて一晩うなされたらしい(毒を抜かず手当てをしなかったから当たり前だが)。だが一晩で治ってしまったので(ここら辺はやはり常人離れしている)すっかり忘れていた。 おちょくるのが楽しくて手当てをしなかったのは、年上として結構酷かったように……今なら思う。少女は腕の一部が暗紫赤色になっていたし、リンパ節が腫れて熱も出ていた。 よく泣いたのではなく、熱で涙が止まらなかったのかもしれない。 だが、まさかそんなことをいまだに信じていたとは。 「どうしてだろうね?」 追い討ちを掛けるように日明がたずねてきたので、八俣は足を止める。 このままついて行ったら、地獄の底まで連れて行かれかねない。即座に方向転換して、親友に背を向けながら警視庁へ戻ろうと足を踏み出した。 「……いやぁ。 ど、どうしてかな。……あははははは。 おいちょっと待てよ! 昔のことだろっ。 子供のころの話じゃねえかっ!」 が、もう日明が許すはずがなかった。 彼はすでに地獄への一歩を踏み出しているのだ。いまさら引き返すことは許されない。ぽんと軽く手を肩に置いてぐわしと神経と骨を同時に断つくらいの握力で握り締めてきた。 あまりの痛みに振り返ってみると、日明がおぞましい顔で睨むのが、月明かりによく映えた。にたぁ、と口を引きつらせる。笑っているつもりだろう。もちろん安心させるためではなく、恐怖を与えるために。 「…………子供のころのことだからこそ、わざわざ京都まで寄り道して落とし前つけさせたんじゃないか」 隻眼の黒法師の顔を浮かべ、心で合掌する。 きっと奴はわけがわからぬままに殺されただろう。大阪府警から明日殺人事件の調書を取り寄せてみるか、と考えた。 肩の手が外されぽんと背中を叩かれる。 予期せぬ力に、軽い力だったが二三歩前につんのめった。 「飛天坊にはとどめを刺そうかどうか迷ったよ。だけどほら、時間ないだろ? 途中でやめて帰ってきた。 素直に受け取ってくれ。 ちょうどいいくらいの金額だと思うんだよね。 葬式代……じゃない、入院代込みだからさ」 「受け取れるかぁぁぁっ!」 一瞬もれた本音に背筋を凍らせながら、ばしっと封筒を地面に払う。ぼたっと暗闇のどこかに落ちた音がした。 まあ、強制的に受け取らせればいいか。 冷たい目でそれを見た後、日明は平静に鞘から刀を抜く。 ……洒落じゃねえ。 八俣も一応持っていた警棒を構える。 銃も持っていたが、この男に銃は一切効かないのはもはや検証済みだ。相手の攻撃を交わすことができる分だけ、棒のほうが幾分役に立つだろう。 じりじりとにじりよってくる軍人に、じりじりと逃げようとする警官。 それはもはや、結果の見えた戦いだった。 逃げられる、わけがない。 ……だが逃げられなければ殺される。 「本当のことをおっしゃって下さいっ」 病院の一室で、水色の髪をした筋肉質な男が横たわっていた。彼の自慢の顔だけは無傷だった。……そこだけは無事だった。 ご丁寧に賊は彼を袋叩きにした後病院に連れて行ってくれたらしい。 副警視総監は朝になってその報告を聞いて飛んできた。 病院内を駆け足で案内された部屋に行くと、まるで待っていたかのように優雅な表情で横たわっていた。 元気そうだったが、起き上がることはできそうにないと聞いて青ざめた。医者からも一週間は絶対安静にするようと言われて心臓が口から飛び出しそうだった。 鉄の棒で殴ってもびくともしないこの筋肉の塊に、一体誰がこんな所業ができるだろうか。それにもしこの帝都にまだ彼の命を狙う賊がいるのだとしたら、護衛を増やさなければ危険だ。 「だーかーら。 階段から落ちたのよ。階段から」 「総監の家に階段はありません!」 「……官舎のよ」 「官舎の階段から総監が落ちたら、階段が壊れます!」 本当のことを言ってください、と半泣きで詰め寄ってきた。 確かに良い部下なのだが。 ……心配されたくないところに心配されれば、困るだけだ。 彼女もこんな気持ちだったのだろうか、と思いながらくるりと身を返す。 「……もう何も聞くな」 そういった後、腹心を部屋から追い払った。 三日後、笑顔の近衛中将―――つまり、犯人―――が妻を連れてきてお見舞いという名の嫌がらせにやって来た。そこで聞いた話によると、昨日わざわざ京都まで行ってそちらの見舞いまでしたそうだ。 手のこんだ嫌がらせで……。 「……八俣、その、いろいろとすまんかった………」 蘭がいじらしい声で呟く。おそらくこの怪我の顛末は知らないのだろう、階段から落ちたものだと信じている。 「いーわよ」 「もう日明が祓ってくれたから、大丈夫だ」 ……ちょっと待てよ。 さすがに子供の頃のあれをそのまま信じ込むってのは、おかしくないか? 確かに一日二日は山の神と信じても、それ以降いくらでも蛇を見る機会はあったはずだ。 にこにこと笑いながら林檎を剥いている親友を見て――― 「てめぇの所為じゃねえかっっっ!」 「馬鹿だなぁ。 原因は君らでしょ。 ……ほら蘭さん林檎剥けたよぉー」 「桃はないのか?」 「人の見舞いの品勝手に食うんじゃねえぇぇぇっ!」 傍若無人の夫婦は嵐のように見舞い品を食い尽くして、しかもちゃかりお土産まで貰って出て行ったのである。 |
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