10
 ・・・  怖いもの 4  ・・・ 


 天下の警視総監が自宅の扉を開けたとき、お帰りなさーいというまるで親の帰りを待っていた子供がするような返事が戻ってきた。
 ……複数?
 玄関の靴をみると、なんと軍靴が三足もそろっている。
 疑問で動けない彼のところに、金髪の隊員がやってきた。
「外は暑かったでしょう。
 どうぞ、上着をお脱ぎ下さい」
汗を拭くための手ぬぐいを渡しながら青年は八俣の上着を脱がせる。

 …………なぜ増える。

 といいたくてたまらなかったが、言葉にならない。
 食堂に行ってみると、蘭は少し頬を膨らませていた。机にはこれでもかというほど豪華な料理がすでに出来上がっていた。素麺なんて久しぶりだなぁ、とつい思いに耽ってしまう。連日の暑さに食欲がわかない日々が続いていたが急に空腹を感じた。
「八俣さん。お邪魔してまーす」
「腹減ったぞ。早く席につけ」
ばんばんと蘭が手をたたいて催促すると、後ろから来た現朗がぴしゃりという。
「駄目ですよ大佐。まず手を洗ってからです」
「……どうしたのよこの料理」
乾いた声で、家主がつぶやくのを聞いて。

『大佐が作ってないから安心してください』

と、軍人二人の声が唱和する。その一言にぶちぶちと上官が文句を言っているが聞こえない振りで通した。
 蘭が激に頼んだことは、激にとっても良い話だった。
 食材代を全額出すから今夜八俣の家で夕食を作って欲しい。
 激は金に糸目をつけない食材を使って、今まで一生作れないだろうと諦めていた料理の本に載っていたメニューを用意してみた。本を使えば誰でもできる、と彼は簡単に言うが、激のセンスはずば抜けていると隊員たちが前から評価していたのを蘭は聞いていた。
 現朗は『激がご迷惑を警視総監におかけするかもしれない』という理由でついてきて、そして今朝蘭がぶちこわした衣装部屋を見ててきぱきと日曜大工とアイロンを始めた。破壊専門が揃っている零武隊では、大工仕事は隊員の誰もが持つ重要なスキルだ。平均して三日にいっぺんは官舎の修理をしている。手持無沙汰の上官には、明日の分の仕事を与えておいた。
 見ているだけでも唾液があふれてしまいそうな料理が並び、あとは家主を待つだけとなったところに丁度彼が戻ってきたのである。
「激ちゃんが作ったわけ? これ全部?」
「え。ええ」
「凄いおいしいわ。これじゃあお嫁さんが困っちゃうわね」
「…………………………あ。ありがとうございます」
警視総監があまりに手放しで褒めるので、慣れていない激は顔を真っ赤にして俯く。そういうだけでも精一杯だ。
「おい。激、こちらを向け。口についているぞ」
現朗は恋人を八俣の魔の手から庇うように、横から声をあげる。振り向いた激に、いつものようにお手拭で口元をぬぐってやった。見え透いた牽制に思わず八俣も苦笑してしまう。
 深い意味はないんだがな……
 現朗は嫉妬深いから面白いぞ、と蘭が言っていたのを思い出しながら素麺をすすった。和やかな時間―――――――――だった。

「それはそうと。どうして大佐、ここに居んすか?」

ぶっ。
 いきなり直球の質問に、八俣は素麺を吹きそうになり、現朗は箸で喉を突き刺し、蘭がニコゴリを喉に詰まらせる。
 現朗と八俣は目を見開いて黒髪を見た。
 ……おまえ、それを聞くか?
 激は二人の反応のわけがわからずきょろきょろと視線を這わせていたが、最終的にはその疑問を捨てて上官のところへ戻ってきた。
「で?」
催促するその真摯で素直な双眸を、逃れられるわけがない。ニコゴリを飲むふりをして冷茶を一口飲む。

「……か、鍵を、失くしてな」

湯飲みを戻しながらしどろもどろに答えた。
「鍵? って、家の?」
「う、うむ」
 激は、まず現朗の顔を見た。
 それから八俣の顔を見た。
 そして、首をかしげる。
「扉壊してでも入りゃーいいじゃないですか」
ひきき……と蘭の顔が強張るのが良くわかる。
 そんな子供だましの言い訳が通るわけがない。
「無理よ。
 日明の家って並の鍵師でも開けられない特注品の上に、罠が多いから鍵なしで入ろうとしたら確実に死ぬわ」
困っている蘭にそっと助け舟を出してやる。
「そ、そういう、ことだ」
こくと頷く上官に、あまり納得してない声でそうですかと激が答えてとりあえずその場は終わった。冷たい四つの目が水色の髪を突き刺すのだったが、八俣はそれを軽く受け流す。
 まったく、これほど嘘をつくのが下手な人種があっていいものだろうか。あんな反応をすれば疑いを深めるだけだ。


 *****

 すべての料理の皿が空になると、揃って顔の前で合掌しながらご馳走様の挨拶をした。現朗は立ち上がって片づけをはじめ、蘭は激を引き連れて『寝台を整えに行く』と言いながら出ていった。
 激が八俣家を探検したがっているので、蘭が案内役を買って出たのは明白だったが何も言わないでおく。現朗が心配そうな顔をしていたので「気にしないわよ」と言ってやると、「申し訳ございません」といつもの口調で返してきた。三人がいなくなって手持無沙汰の八俣が座卓に残っていると、現朗は新聞を渡しながら尋ねた。
「お茶でも淹れますか?」
「お願いするわ」
遠くから激と蘭の騒がしい声が響いてくる。
 ……なんかなー。
 新聞の字に目を通しながら、その実少しも頭に内容が入ってこなかった。この家には似つかわしくないほどのほのぼのとした雰囲気に、居心地が好すぎてすわりが悪い。居ついてしまいたくなる温かさがあった。
 現朗が食器を片付け終わって戻ってきた。
 こぽこぽと日本茶を注いで湯飲みを出す。どこから取り出したのか、上客用の一揃いだった。きちんと茶托にのせられている。
 お茶を飲みながら、他愛のない話や新聞に載っている流行風俗の話で盛り上がった。現朗は零武隊にしては礼儀正しいほうだし、常識もそれなり備わっている。そして知識が豊富な分だけ話していると面白い。
 あまりに話が弾んでしまって、ふと気づくと騒がしい声が聞こえなくなっていた。
「……あのうるさいの二人は?」
「遅いですね。見てきます」
言うなり立ち上がって行ってしまう。
 気のきく男とは知っていたが、なんだかこれでは新妻のようだ。
「……ったく」
自分でも何を考えているのだろうか、と叱咤する。
 少しすると、現朗は困った顔をして戻ってきた。
「どうした?」
新聞から顔を上げながら問うと、金髪は口ごもる。
 その様子から察した八俣はすぐに立ち上がり、現朗を連れて自分の部屋へ向かう。
 覗き込むと、寝台で丸くなって眠ている二つの軍服が見えた。
 何があったのか、二人揃って眠ってしまったそうだ。あまりにも気持ちよさそうな寝顔に起こすのは確かに非常に気が引ける。激を起こせば横の女性も起きてしまうだろう。そのくらい二人はぴたりとくっついていた。
「泊まっていったら? あんた一人分ならあの横に入るでしょ」
「しかしっ、それでは」
声高になる男に、人差し指を口の前に出してしっと制止する。
「あたしはそこのソファで寝るわ。夏だから大丈夫よ。
 ……それより、そこの夏掛けかけてあげてくれない?」
現朗はしばらく逡巡していたが、やはり寝る子の寝顔には勝てず夏がけを二人の腹にかけてやる。激の顔を見たとき、この男がこんな顔を見せるのかと八俣を驚かせるぐらい柔和な表情が浮かんだ。
「……申し訳ございません」
「慣れている。気にするな」