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 ・・・  怖いもの 3  ・・・ 


 八俣はわざわざ遠回りをして見送ってくれた。家には使っていない刀も何本かはあったのだが、男装姿の女性というだけでも怪しいのに、廃刀令が施行された現代軍服も着ずに刀を持ち歩いていたら通報されかねない。 かといって、武器を持っていない蘭を一人で歩かせられるほど八俣もお気楽な性格ではなかった。
 だぶだぶのシャツに身をくるみ、姿勢は堂々、態度は横柄とそこらへんはいつものとおりなのだが、彼女にしては珍しく言葉数が少ない。良く寝れなかったのか隈が浮かんでいた。
 陸軍特秘機関の裏門まで来て、足を止める。八時五十五分、思ったよりは早く着いた。彼は身を回して彼女の方へ向き直ると、蘭はふいっと視線を地面に這わせて逃がす。何も話したくないという意思表示だ。
「事情も話せないが、今日も家に帰れないんだな?」
口は真一文字に結んだままで頷く。
「宿を取ったりはできないのか? 金ならいくらでも貸すぞ」
唇の端を噛んで、ふるふると首を横に振った。
「…………一人は駄目だ」
ようやく帰ってきたのはそんな答えだ。
 一週間か……。
 今のところ大きな事件もないし、ここしばらくはこの前の残務処理だけだろう。あったとしても彼女がいて困ることはそんなにない。唯一あるとすれば五月蠅くなるということくらいか。
 ……我慢、してやるか。
 その結論は、実は、家に出るころにはおよそ決まっていた。簡単に承諾しなかったのは彼なりの意地―――つまり、もう甘やかさないぞという方針―――をみせるためだ。ポケットに手を入れて昔渡していた合鍵を取り出し渡す。蘭はそれを両手で受け取った。
 よかった。……本当に、良かった。
 彼女がそう思っているの一目瞭然だった。
 その態度に『してやったり』というようないつもの悪戯っ子の空気がなくて、八俣はなんとなくやり辛くて顎を手でさする。
 なんか、拍子抜けすんのよねぇ。こいつが素直だと。
 物足りないというかなんというか。こちらまで優しくなってしまいそうになる。
「先に戻っててもいいが、食事は俺が作るから絶対お前は台所に立つなよ。火を使うな。あと、これ以上家を壊すな。
 それと、着替えを用意しておけ。財布はないんだろ?」
「慌てて……出てきたから」
枕と寝巻き、それ以外は確か持っていなかったはずだ。八俣は腰から財布を出し、それもまた彼女に押し付ける。
 白い手で受け取って深々と頭を下げた。
「……すまん」
「全部終わったら玄関の扉代その他耳を揃えて日明から取り立てる。
 安心して使えよ」
その後、二三語交わして去っていった。今日はそんなには遅くならないらしい。蘭はその背中を見送った後、しょぼんと肩を落としながら裏門を押した。

 ……なんでよりによってこんなときに日明がいないのだろう。

 夫の出張は予定では後一週間は戻ってこない。彼が来なければ家には帰れそうにはないし、かといって自分事に御国の宝であるカミヨミの姫に頼むのも気が引けた。職務の上で起きたことならばともかくこれはすべて己の所為なのだ。己の因縁なのだ。
 なぜ、今になって来るのだ……。
 あの『事件』の後、行動は重々気をつけたはずだ。それにここ二十年程ずっと何もなかったのに。
 事件のことを思い出すだけで体が熱くなり手に痛みが走る。
 後遺症などはなかったし、その気になればすべてが夢だったようにも思う。だが夢で片付けるには、壮絶な恐怖が心に爪痕を残していた。
 一人になると、恐怖が後ろから忍び寄ってくるようなそんな不思議な感覚を覚える。まだ祟られているのか。否、と否定する。あれ以降何度も御祓いに行ったし、霊的に安定しているというカミヨミの保証つきだ。となると、今になって急に迎えに来たのだ。間違いない。
 ……一人は嫌だ。
 気を抜けば出てしまいそうな涙をこらえて足を早める。一人になったら現れるかもしれない。いや、一人でなくても現れるかもしれない。あれが現れたら今度こそ私は連れて行かれる。
 幼い頃の過ちを、どうやって償えばいいのだろうか。
 もう、この身は我が物ではないのに。私のものではないのに。
「あーら。大佐、その服なんですか? 朝帰りの女性みたいで。
 やばいなー。旦那にばれたらただ事じゃないでしょー」
考え事をしているところに、突然、上から声が降ってきた。
 見上げてみれば髪の逆立った部下が木の上でこちらを見下ろしている。赤い棒と赤いバンダナ。特徴的な垂れ眼を今はにやつかせていた。
「……おまえこそ、そこで何をしている。もう就業時間だろうが」
「いやはははは……」
照れ隠しの笑いをしながらスタンと彼女の元へ下り立つ。おそらくそこは、彼のサボりポイントだったのだろう。
「なんかあったんすか?」
上官が一応後ろ暗いことをしていないと安心していつもの軽い口調でたずねた。個人的なことまで首を突っ込むのは悪いとは思ったが、激は、二心を許せない人間なのだ。もし少しでも匂うところがあったらたとえ上官であっても倫理的に諭さなければならないなどと考えていたが、それは杞憂だったらしい。
「個人的なことだ」
「ま。そりゃそーでしょうが。
 大変だったらなんでも手伝いますよ。大佐」
勘の良い部下に、蘭は眉をしかめ、そして顎に手を当てて考える。
 言うべきか、言わざるべきか。
 彼の安心させる笑みをちらりとみて、心が決まった。
「激……。職務外のことだが、少し頼んでもいいか?」
「なんなりと」