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 ・・・  怖いもの 2  ・・・ 


 朝は唐突に八俣に訪れた。
 ……と表現してもかまわないほど、唐突だった。
 壮大な破壊音が心地よい彼の眠りを引き裂いたのだ。

 どがしゃぁぁん

 ばちっと目が開き、そして跳ね起きる。横にいたはずの女はすでにいなかった。窓の明かりから察するにもう七時過ぎか。そろそろ起きなければ遅刻しかねない時間だ。
 本当は低血圧だからこういうのは苦手だったのだが、今の音を無視することができず無理やり身体を起こす。

 ……朝っぱらから〜

 彼女がいたのは、案の定、衣装室だった。
 予想以上の惨憺たる光景に、口元が自然に引きつった。
 簡易洋服掛けに丁寧に並べられた制服は全て床に落ち、並べられていた内掛けと箪笥は見事に全部倒れている。箪笥の上に積んであった箱は床に転がり、いくつかは中身が散らばっていた。この状況で破壊されたものがなかったのは奇跡だ。配慮してそうなったのではなく、ただの奇跡だ。
 元凶が四つん這いになって箪笥の下から出てきた。
「っく……痛たた」
「どういう状況か、説明してくれるかしら?」
その目の前に仁王立ちに立つと、ひぃっと蘭の口から驚きの声が漏れる。
「……ふ、服を借りようと思ったら、その、こ、転んだ」
「ずいぶん盛大な転び方ねぇ〜?」
逃げて箪笥の下に戻ろうとしている彼女の背を上から踏みつけると、むぎっと変な音が聞こえるが気にしない。ぐりぐりと全体重をかけてやるとじたばたと手足をもがき始めた。
「や、やめろっ。八俣っ! 巫山戯が過ぎるぞっ」
「巫山戯てんのはあんたでしょうがぁぁ〜。
 昨夜は家の扉を壊して、朝は人の洋服箪笥を壊して、ちったぁ大人しくできないのかしらねぇ? あ? おめえマジでいくらすると思ってるんだこの野郎。てめえの給料じゃなんとかなる金額じゃねえんだよ。零武隊の年間予算と同じような金額のオーダーメードなんだよ。オーダーメード。
 それを朝から意気揚々とぶっ壊すてめぇの脳細胞は一体どういう働きをしているんだこら」
最後の一言と同時に八俣は足を持ち上げた。
 ふうと、彼女が息をつくの狙って。
 持ち上げた右足をすごい速さで打ち下ろす。

「ぐはぁ」

……かくん、と彼女の首が曲がった。
 そんな爽やかな朝に似つかわないいざこざが起こったわけだが、八俣は滅茶苦茶になった衣裳部屋を掘り起こして余っていた私服のシャツとズボンを彼女に渡した。男物だからサイズは合わないが、寝巻きで外を歩くよりはましだろう。自分の分の新しい制服を探していると、蘭が後ろからついついと服を引っ張って言った。―――朝食は作るから、部屋で待っていろ、と。
 頼んだぞ、と返事をすると嬉しそうな顔で部屋を去る。彼女なりにやはりこの破壊活動は気にしているのだろう。
 新しい制服を持って自室に戻ってきた。
 一晩以上身に着けていた制服を脱ぎ、上半身は裸体のまま愛用の煙管を探す。すぐに見つかった。机に置きっぱなしだった。
 マッチから火を移し、そして朝のけだるい一服をしながらぼんやりと考えた。

 家に帰れない事情って、何かしら。

 考えても仕方がない問いだといえば、そうだ。
 日明との喧嘩でもなく、カミヨミ絡みの仕事でもなく、蘭があんなに怯えてしまう事情がこの世に存在するだろうか。
 ……まあ、日明には連絡をいれておくか。
 胸に予定を一つ刻んで煙を吐き出す。
 昔から八俣の家は蘭にとって第二の家のようなものだった。宿泊は勿論、朝食も幾度かは作らせたことがある。彼女が結婚するまでは家の鍵も持っていたがそれは結婚式の日に取り上げた。理由はいろいろあったが、一番は夫婦喧嘩の逃げ場に使われたら家が壊れるからだ。
 蘭の夫、日明も八俣宅の出入りは公認していた。見えない危険な場所に放っておくよりも、見える危険な場所においたほうが良いだろう―――などという不届きな親友の考えはお見通しだ。八俣の男前さは危険だが、蘭に自ら手を出すほどの馬鹿ではない。
「蘭ー。
 パンと珈琲だけでいいんだからねぇ。他はいらないわ」
煙草を煙らせながら声を張り上げる。
「わかってるー」
期待していなかったが返事が戻ってきた。
 ついでに珈琲の香りも漂ってくる。
 食材の位置もさほど変わっていないし、パンと卵とコーヒー豆も切らしていないはずだから、彼女でも『無事に』作れるだろう。不器用という表現で彼女を喩えるならば不器用という言葉に失礼なほど料理とは反りの合わない生物だ。気をつけないと台所ごとぶっ飛ばされかねない。いろいろ研究した結果、お湯を沸かすこと、パンを焼くこと、目玉焼を作ることの三つだけは可能だと判明している。味噌汁は挑戦したが包丁を使う時点で不可能なことが確認された。
 煙管を加えながらシャツに腕を通し、そしてボタンを閉める。洗面台で髭を剃り、歯を磨き、髪を整えてから制服をきた。
 鏡に映る自分は疲労の色が残っていたが、不敵に笑っていた。

 この状況を、楽しんでいる。

「ま。……久しぶりだものね」
食事だ、と遠くから声が聞こえてきたので、もう一度髪を整えてから茶の間へ向かった。