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 ・・・  怖いもの 5  ・・・ 


 揺り起こされて目が覚めた。
「おい。起きろ。遅刻するぞ」
朝から低血圧には響く声で文字通り叩き起こされて、仕方なく体を起こす。ソファに寝るのは慣れているのだが節々が痛んだ。昨日も連日続く熱帯夜で、上に一枚かけていたはずだったがそれすら床に落ちている。
 窓の外は明るいものの、肌蹴た着物では少し寒さを覚えた。五時か、六時か。まだ当分遅刻しそうな時間でないのは容易に知れた。
「……何時よ?」
伸びをしながらたずねると、蘭は時計も見ずに即答する。
「六時半だ。朝食は出来ておる」
「……まだ十分寝れるじゃねえか」
 朝だというのになんと元気のよいことだろう、と半眼で睨んでみたが彼女には少しも効きはしない。どころか、八俣がのんびりして動こうとしないのをみるといきなりその腹にちょこんと乗ってきた。半ばぼんやりしている彼を起きろ起きろとゆすっている。
 むくれる其の様は、まるで休日の父親に強請る子供のようだ。
 おそらく朝食が早く食べたいのだろう。飯が絡むと途端に子供っぽくなる。
 ……そうされると意地悪したくなるのよね。
 などと思っているとは知らず、蘭はぽこぽこと八俣を殴っていた。わざと眠くて頭の働かない振りをするがそれに気づく気配はない。
 しばらく八俣が蘭で遊んでいると、朝から清清しい容姿の現朗が入ってきた。
「おはようございます警視総監。
 勝手ながらアイロンはかけさせていただきました」
彼が寝惚けた振りをしているのを即座に見抜いたのだろう、制服をだらりと横たわっている男の胸に置く。服は糊がぱりっと効いていた。制服にアイロンをかけられるとはなかなかの技量だ。
 着替えに邪魔になりますから、と言いながら上官の首根っこをつかんで部屋からたたき出す。蘭は珍しく素直に出ていった。寝巻きの帯を解きながら見ると、金髪はてきぱきと寝台のシーツと枕カバーをかき集めていた。
「……マメねえ……」
「そうですか?」
「洗濯物は洗面台の横の籠に入れておいて。今日は手伝いの人が来るから」
「わかりました。
 ああ、それと。大佐が壊した部屋は一応修理しましたので、後で見ていただけませんか? 警視総監のお持ちの着物はなかなか難しいものばかりで、できる限りのことはしたのですが……」
「ありがと。
 大変な子守を押し付けちゃって悪いわね」
「大佐の所業を零にするくらいのことはなんともありません。
 ……それと。大佐が何故こちらにいるのか、伺ってもよろしいでしょうか?」
急に金髪が口ごもる。
 ちらりと隻眼で睨むと、目は真剣そのものだった。焦らすように煙管に火をつけて、はじめの一服をしっかり吸い込む。
「……家の鍵、じゃ納得しなーい?」
吐き出しながら問うと、相手は気に飲まれないと必死で言葉をつむいできた。
「…………。
 やはり夫の居ない間に別の男とひとつ屋根の下にいるべきではないと思うのですが。それに相手が日明中将ですので」
「日明は八つ当たりに見境がないからねぇ」
返事はなかった。
 沈黙を煙を燻らせながらしばらくしていると、食堂から叫び声や食器の触れ合う音、そして食欲をそそるいい香りが漂ってきた。
 ……我慢させるのも、限界だろうな。
 煙草盆に火種を捨てて、ようやく着替え始める。
「………………悪いんだけどあたしもよくわからないのよ。
 昨日の夜蘭がいきなり来て、一週間泊めてって言ってきた。それだけよ。
 日明はあたしと蘭の間を心配しないから、そこら辺は安心しなさい。この前みたいに零武隊を丸々潰すような事態は起こらないから」
「状況は常に変化するものです」
「はいはい」
心配性、といいたいが、確かに客観的にいえばその心配は的を得ているなと思い直した。半裸の男の腹に乗って揺する動作など、妙齢の女性がすれば深い意味があると感じるのが普通だろう。部屋に入ってきたときの現朗の一瞬驚いた顔を思い出しながら釦をとめていく。

 ……あいつに警戒心がないのが悪いんだが、それを今更教育してもなぁ。

 蘭の物覚えの悪さは親友の教育をみていやというほどわかっている。
 自分が女性だということは辛うじてわかっているみたいだが、女性というものが何を意味するのかが露ほども理解できていない。軍の初めての遠征のときに堂々と風呂に入ろうとして元帥すらも愕然とさせた、という話も聞いている。
 結婚して以来流石に色々とわかってきたみたいだが、それでも男として警戒しているのは相変わらず日明だけで、他の男は危険でないと認識しているようだ。八俣の場合、この状況にさらに昔馴染みの兄貴分という気安さが加わって甘えてくるのだから性質が悪い。
「宿を取れっていったんだけど、それは嫌だって言うのよ。
 だから、ま。独身寮に連れて行くもよし。あんたらが護衛として泊まるもよし。
 好きにしなさい」
「申し訳ございません」
その言葉をいったい昨日から何回聞いただろうか。
 ばたばたと廊下を走ってくる音が、二人に聞こえた。
 部屋の前で止まって、ばんっと扉が開く。
「まだかっ!
 飯が冷めるっ!」

着替えをしているかもしれない部屋をノックなしで開けてしまう無防備さ。
 これが日明 蘭なのだ。

「もう行くわよ」
やっぱこいつに男を警戒をさせるのって……無理よねぇ。
 その瞬間、親友の苦労に心底同情したのだった。