10
 ・・・  怖いもの 7  ・・・ 


 毒丸。
 ……と、呼ばれた気がした。
 鞭を巻きながら護衛対象の方を見ると、再び、その声が聞こえた。
 彼の周りには、無謀にも零武隊隊長日明蘭の首を狙おうとした人間だったものが死屍累々と並んでいる。どれも脳に一撃を受けての即死だ。
「はーい。
 大佐ぁー。呼んだぁー」
ぱたぱたと走る黒髪の青年の表情は、今の今まで命のやり取りをしていた者のそれではない。
 母親に呼ばれた少年のように明るい顔で馬車に走っていった。
 真っ白な軍服を着た髪の長い上官は、馬車から降りて刀を取出していた。彼女の周囲にも死者が横たわっている。一振りで大の大人数人を瞬殺する恐ろしい技量。
 悪寒が走るほどの素晴らしい人殺しの様子が、毒丸は、この上なく好きだ。だから、勝手でもなんでも彼女の護衛にはほとんど彼がついてくる。
「……毒丸」
近づくにつれて、彼女は冷たい眼に睨まれていることに気がついた。
 眼前まできて、きゅきゅっと両足でとまり慌ててぴしっと背筋を伸ばす。今更遅いような気もしたがしないに越したことはない。褒められると思って喜び勇んできたのに―――
 ……やばっ。叱られるっ!
 青年の頭で最大級の警告音が鳴って、ぎゅっと目を瞑る。

「無茶をするな。お前はまだ弱い」

頭から言われながら、そっと手に他人が触れるのを感じた。
 恐る恐る目を開けてみると、白い手袋が血に染まっている。
 その少しずれたところが流血している。先ほど刺客の一人が使った銃器でやられたものだ。興奮からか、血は勢いよく流れているもののさほど痛みは感じていなかった。
「教授。手当てを」
「へいへい」
彼女が声を張り上げると、眼鏡のスーツが馬車から降りてくる。
 教授にぐっと腕をつかまれて、服を腕まくりにされた。
 ぼたぼたと地面に落ちる血液。止まりそうにもない。確かに酷い傷口だ。
「……こ、こんなの舐めとけば治りますよっ!」
まじまじと四つの瞳に傷口をさらされて、毒丸は恥ずかしくなって腕を戻そうとした。それを蘭がひと睨みして止める。
 彼自身はわかっていないが、相当深い傷だ。
「無理無理。
 こりゃ破傷風モノだねぇ。痛くないのはさすがだけど舐めても治らないよ」
「軍人たるもの体が資本だ。
 教授、彼を馬車に連れて行って応急処置を。私は御者台に乗る」
「え〜〜〜っ!」
不満そのものといった声をあげるが、それを聞かず蘭は踵を返した。ひらりと御者台に乗り、そして、早く乗れとばかりに視線を寄越す。
 しぶしぶと毒丸は教授の後に続いた。
「……大佐は俺が守るのに」
ぼそっと本音が漏れた。
 蘭は面倒くさそうに首を回して、馬車に乗る直前の青年を見る。やれやれといったその目。
「なら腕を上げろ」
それが毒丸の自尊心を著しく傷つけた。
「言われなくても上げてやるぅぅぅっ。
 上げて上げて、大佐に『零武隊はおまえなしじゃ駄目だっ』って言わせてやるんだから。この傷は借りっすからねっ!」

 普段ならその言葉は簡単に流される類のものだったのに。

 誰もの予想外にも―――。

 彼女は驚いた。

 目が見開かれ、その切ない目が、毒丸の心臓を穿った。

 形の良い唇が震え、しかし、言おうとした一言は生唾とともに飲み込まれる。暫く間が空いて、再び口がわずかに動いた。

「……軍人に未来の約束など、するな。愚か者」