あなたと それではまるで 世界を一瞬で変えた、その
       沈みかけた 手が触れるたび 屈み込んで 空の雲を手で掴むには
       ああとても 開いた扉の 夢の中の住人は君に
 ・・・  夢の中の住人は君に  ・・・ 


 同じ夢を見ているのだ、と、現朗は気がついて愕然とした。
 彼女の寝言、寝返り、そして表情まで、どこをとっても数日前に見たときのそれと同じだった。
 大義を背負い、帝都と契り、職務に殉じる彼女が、いったい何に対して魘されるというのだろう?
 そして魘される直前に見えるその、花を散らしたような笑顔はなんだ?
 夢の中の住人は君に何を告げている?


 「日明のことを知りたいの?」
警視庁に重要書類を届けに来た白服の軍人に対して、珍しく制服を着ていた八俣が軽く尋ねた。
 声は軽い調子だが、その目に宿る光は有無を言わせない力を持っている。
 現朗がその殺気で睨まれるには、たしかに十分な理由があった。
 先日、新人研修に懲罰的要素を加えた書類整理にて、『変死』の項目から過去の調書の一つが消えていたのが発見された。職員たちは誰かが返却場所を間違えて仕舞ったと考えた。有名な殺人事件や大型事件ならばいざしらず、変死事件の調書など金にもならないし、この厳重な警戒をくぐる危険を冒してまですることではない。しかも、戸棚に盗まれた形跡はなく、『変死』の項目のフォルダは埃まみれだった。
 だが、八俣だけは盗まれたと確信した。
 ―――日明。
 蘭の、夫だった者の名前。調書以外には消えてしまった、忌まわしい名前。その名前で彼を呼ぶ人間はもういない。彼は今、生まれたときの名前で墓に眠っているはずだ。
 彼は数年前に亡くなった。いまだ、真相はわからない。警察署では変死という不名誉な形で記録されている。
 その名前を思い出すたびに、後悔の苦い味が胸に広がった。
「……こちらが日明大佐より渡された今回の件の概要です。
 それと、昨年度の暗殺事件の首謀者と見られる者の死亡者のリストをお借りしたいとのことです」
現朗は一瞬黙したものの、言うべき台詞を口にして聞こえなかった振りで通す。八俣は部屋の隅でタイプライターを叩いていた秘書を呼び寄せて、注文のリストを持ってくるように命令した。
 秘書が居なくなってから、机に肘をつき、両手で組んだ上に顎をのせ、そして、目を上げる。
 この上目遣いが、一番気迫をますことを彼は知っている。
「知りたいんでしょう?」
今や遠慮するものはなかった。
「……知りたくてはいけませんか?」
反抗的に言葉を返す男の気持ちは、分からないでもない。闘気に反応し、さらに闘気を燃やすタイプだ。さすが零武隊の男たちは揶揄いがいがある、と心で笑った。
「貸した資料、早く返却してくれれば教えてあげてもいいわよ。お蔭で毎日資料整理で残業してるんだから。お肌荒れちゃって大変なのよ?」
覚悟してたはいえ、それを指摘されると緊張が走る。こわばった顔をで男の目を見た。「おまえ一人で来い、と向こうから指定された」蘭が嫌悪感たっぷりでいいながら書類を手渡した時から覚悟はしていたのだが。
「警察舐めちゃやーよ。現朗ちゃん」
言葉と裏腹に、獲物を追い詰める目の光。
「……申し訳ございません。
 少し、お借りいたしました」
どう答えればいいのか少し迷ったが、とりあえず謝まることにした。反省はしていないが、迷惑を掛けたのは事実だと納得させた。
 鞄を開けて中身をさぐり、古びたファイルを取り出す。家においておくことは出来なかったので、ずっと鞄を二重底にして持ち歩いていたのだ。ファイルには堂々と禁帯出の赤文字が書かれている。表紙はぼろぼろにくずれていたが、硬い紙なので、中身はそれほど悪くなっていない。
「それで。分かることは分かった?」
「……金銭にも仕事絡みにも全くトラブルがなかった、ということだけしかわかりませんでした。調書には随分詳しく人柄が書いておりましたが、死ねば悪口を言う者はそうおりませんので」
「それが分かれば十分じゃない?
 後残るのは女絡みでしょ?」
 女性絡み。
 ―――確かに日明が死ぬ直前足繁く通っていた店の名前もいくつか読んで取れたが、それはあまり重要な情報ではなかった。わかったことは遊女たちに仕事関係抜きに好かれていた、その一点だ。
 近所の貴婦人にも人気があったのか、彼女たちも証言をしていた。全体的に言って、女性からの証言が多かった。余程広範囲で付き合っていたのか、とも思った。
「悪い奴じゃなかった。あいつも好いていたよ」
蘭をあいつと気軽く言ったのを聞いて、現朗の眉間に皺が寄る。
「あ〜ら。嫉妬深いわねぇ」
声をたてて笑うと、金髪はすっかり気を悪くした。ファイルを叩きつけるように机に置きながら、言う。
「良い相手だったならば……説明がつかないんですよ」
 ―――きっかけは、蘭の見る悪夢だった。
 きっかけはただそれだけだった。そしてそれが、彼女がいつまで経っても心を許さないことに関係あるのだと気がついた。自分の全ての不満の根源がそこにあるのだと分かった。
 全ては前夫の死になにかあるのだ。
 始めは、前の相手に対して貞操観念があるのだと思っていた。そう、蘭に言うと、彼女はつまらなそうな顔をして淡々と答えた。
 貞操などないさ。そんな、愛しているなんて、一度も覚えたことはない。
 その言葉に現朗は喜べなかった。他の男に操をたててないということは嬉しい、だが、後半は違う。彼女は愛そのものを否定している。
 真摯に愛していると言っても、それを真に受けないように身をかわす。
 笑って、ありがとうと言い返す。
 その笑みが悔しい。
 ……愛していないなら、それならいいのに。それならそれでも我慢するのに。
 何を、隠している? 何故、隠しているのだ?
 その男は貴女に何をしたのだ?

「そう。じゃあこういってあげれば説明がつくのかしら?
 良い男だった。会っていて楽しい奴だ。日明蘭も愛していた。
 だが女にはだらしがなかった」

「婿養子の分際でよくもまあ」
小馬鹿にした口調で言ったので、八俣の見えない方の瞳が髪の影から光る。
 声が、急に低くなった。
「……お前みたいに強い奴は少ないんだよ」
 日明蘭、という男でも勝てない女を妻にして。
 妻のほうが収入がずっと高く、生活の大半を依存していて。
 婿養子で。
 ―――感情を納得させるのに必死だった。笑顔を作るために、ぼろぼろのプライドを維持するために、女の体に依存した。性欲に溺れて誤魔化した。
 彼がなしたことを以って、小さな男だと罵るのは簡単だ。が、それは出来なかった。彼は冷静に自分の小ささを分析して、自分を常に責めていた。

 そんなプライドを抱えていなければ生きていけないなんて、なんて愚かだろう。そのプライドのために妻に迷惑をかけるなんて、救いようも無い人間だ。なのに、これを手放すくらいなら死んだほうがいいと思ってしまう。

 それを知っているから、八俣は彼を悪者には出来ないのだ。そして、蘭もそれをわかっているから、なおのこと己を責めるのだ。
 つき返されたファイルをとって、ぱんぱんと埃を払った。
「多分死亡原因は、事故だったのだろう」
事故。
 川に落ちて死に方が分からず、二日以上してから発見されたということさえなければ、それでよかったかもしれない。死に方が分からない以上事故ではすまないのが警察だ。
「……この事件はな。
 裁判になったんだ。証言者どもに踊らされてな」
「まさか」
現朗が吃驚する。
 そんな資料、残っていない。裁判になったということは容疑者も居るわけで、その記録は絶対調書に残るはずだ。
 だが、そう言われると、ただの変死事件なのに調書が分厚いのかも納得がいく。証言の記録がやたら多い。この量はまるで、殺人事件を扱った調書のようだ。
 八俣は懐かしそうにそのファイルを眺めた。
「容疑者は妻だ。
 あいつは自分が羨望と嫉妬の的になっているなど、露も知らなかった。女遊びは見てみない振りをしていたけれども。自分が彼を愛することがそんなにも業の深いことをしているとは思っていなかった。
 嫉妬深い狂女。刃物を振り回し、関係のある遊女を殺そうとした。夫はいつも酷い仕打ちをされていた。彼女ならば夫も殺したに違いない。この女はそういうことをする奴だ。
 証言者は遊女だけではなく、顔見知りの者や隣人の方が多かった。
 裁判を聞いていた奴の親族は……全くあんな嘘を真に受けて……天馬を押し付け、骨を奪って葬式を勝手に出したんだよ」
蘭は、警察署から出たとき、疲れているようには見えなかった。普段通りだった。いつもと違うのは、腰に刀がないだけだ。天馬を抱えた八俣が刀を渡すと、手にとって、暫くそれをまじまじと眺めていた。

 ……八俣。私は……彼を……苦しめていたのだな。
 あんなにも。………全く、知らなかった。

 掠れた声で言いながら、くしゃりと顔が崩れた。取調のときも、裁判中でも、全く動揺しなかったのに。泣き方を知らない女は、ニ三粒涙を零して、直ぐに元の表情に戻した。
 俺があの時、逃げなかったら。職務というものから逃げず、他人に任したりしなかったら。
「……そして、後に零にしたのですか」
現朗の声に現実に引き戻されて、すぐに頷いた。
 蘭は何事もなかったように、仕事に復帰した。
 数年した後、元帥府直々に蘭にまつわるその事件を一切消させた。言われる前に八俣も消してやるつもりだった。これは彼女の不祥事というよりもむしろ警察の失態なのだ。
 なんと、当時の担当者らを調べたところ、女と金が動いていた。証言をした者たちが、是非に彼女を陥れるように、警察や検察の者たちを煽りたてたのだ。
 だが、それはそうだろう。
 殺し方もわからず、死亡推定時間も曖昧で、凶器も見つかっていないのに、裁判を開くなど聞いたことがない。証言と動機だけで裁判が開けてしまったら裁判など意味はない。
 ぶるぶると現朗の手が震える。握りこぶしが、その悔しさを物語っていた。
 そのとき丁度、ノックも無く八俣が命令した書類を持って部下が扉から入ってきた。さっと八俣はファイルを引き出しにしまう。彼は不審な様子に全く気づかず、警視総監の机に行き、持ってきた書類を手渡した。
 確かに言われた書類であることを確認してから、現朗の方へ差し出す。
「天馬ちゃんは本命だけど。浮気の一つでもしちゃおうかしら?」
「……そういう話題を俺に振ってきたのは八人目ですよ。
 誰かの手に渡ると欲しくなるんですよね皆様……」
現朗の言葉尻を、八俣は気色悪い笑い声がさえぎった。
「うふふふふふふふふふふふふ―――
 面白いことを言うわね☆
 八雲が狙っているのは
 あ・な・た・よん」


 受話器から聞こえたのは、ふてぶてしい女の声だった。
「おい八俣」
挨拶もなく、いきなり切り出してくる。
「なーに? また変な仕事押し付けたら切るわよ」
「いや。先ほどのリストの礼だ。
 ……それと。
 あれに濃い液をつけたな。加齢臭がついて酸っぱくなったではないか」
 へ?―――
 と、あまりの内容に一瞬間があく。
 そして。
「人を酵母菌みたいに言わないでよっ!
 しかもまだ加齢臭する年じゃないってのっ!」
「どうだか」
くつくつと笑うのが聞こえた。
 公私混合は一切しない―――いや、できない―――奴だったのに。
 余裕が出来た。いい意味で。電話をしながら相好を崩す警視総監に、一瞬秘書が不思議そうな顔をする。
 はっ、と、そこで八俣は気がついた。
「てゆーかあんたその嫌味言うためだけに電話をかけたってのっ!」
「……人が来た。切る」