あなたと それではまるで 世界を一瞬で変えた、その
       沈みかけた 手が触れるたび 屈み込んで 空の雲を手で掴むには
       ああとても 開いた扉の 夢の中の住人は君に
 ・・・  空の雲を手で掴むには  ・・・ 


 太陽のように明るい金髪を持つ夫、現朗が微笑んだ。

「浮気したら殺すと言いましたね」

その表情とあまりに不釣合いな言葉に、蘭は湯飲みを落としそうになった。
 吃驚する妻に、金髪は座ったままにじり寄る。表情は笑顔。だが目は本気の色を湛えている。これで手に刀があれば蘭も容赦なく抜いていただろうが、昼飯の終わったばかりの二人は珍しく無刀の状態だった。部屋の床の間に夫婦の刀が仲良く飾られている。
 座卓の上には雑然と食器が並んでいた。ついさっきまで、たった五秒前まで、楽しい昼食がそこで開かれていたのだ。天馬は、帝月と約束をしたとかで、近円寺邸に朝から行ってしまった。朝食を握り飯一個で済ませて、まだ白い月が残る朝早くの時間に、早馬で蘭が見送った。
 休日を夫婦二人きりで過ごすが珍しいことだったからというわけではないが、今日は現朗も蘭もなんとなく機嫌は良くて、まったりとした会話を交わしていた―――というのに。
 驚いて動けない妻の手から湯飲みを奪い取ると、ようやく身の危険を覚えたのか、彼女の目に燃えるような闘気の影が戻ってきた。その怒りの気に挑発されて、現朗の目が僅かに細められる。
「……覚悟できているんでしょうね」
すっと手を伸ばすと、蘭は体ごと避ける。
「した覚えはない」
口ではそういいながら、しっかり体は廊下のほうへ動いていた。
 なんか良くない雰囲気なので、逃げ出すつもりだ。
 だがそんな甘い手を許す現朗ではない。逃出せないように、長い髪の一房を右手で握り締める。髪を人質にとられて、離せとばかりに蘭は睨んだが、現朗は真っ直ぐに見返しただけだ。
「……したでしょう?」
「しとらんと言っているだろうっ!」
かみつかんばかりの勢いで言い返すと、ぐぐいと秀麗な顔が近づいてくる。
 瞳がきっちり定まって動かないその目が、蘭の恐怖心を煽る。剣と力では負ける気はしないのだが、しないのではあるが…………怖い、のだ。整った顔立ちなのが余計に迫力を増すして緊張させる。
「―――教授と」
「丸木戸君と?」
脳内でぐるぐると眼鏡つきのにやけた男の顔が浮んでは消える。
 彼女が完全に忘れていることに、現朗の怒りがさらに深化したのはさておいて。
「一週間前。昼。神田で」
単語をぽんぽんと言われてもなかなか記憶と繋がらない。ぷうと頬を膨らませて早く離せと言わんばかりだ。

「鰻」

 ぴくんと片眉が跳ねた。
 食事のことになると、記憶に良く残る。それが旨ければなおさらだ。
 彼が何に対して怒っているかはわかった。が、しかし、蘭は直ぐには反省する気持ちは起きなかった。
「いや……その、今更言うのもあれなんだが、浮気の定義が少々きつ過ぎやしまいか?」
にこり。と不意打ちのように現朗が微笑んだ。
 どきんと飛び跳ねる蘭の心臓。
 普段眉間に皺が寄った部下の顔ばかりみていたからこそ、笑顔は本気で怖い。
「ははは、そうかもしれません」
「そ、そうだろう?」
「しかしまさか日明大佐ともあろうお方が、そのような言い訳を致すおつもりではありませんよね? まさか」
近づいてくる秀麗な顔。
 彼女の喉の奥で呻くのが聞こえる。

 浮気の定義。

 それはある種人類の根源的問題の一つとも思えるが、とりあえずこの零武隊を率いる隊長は二つの理由からある結論を得ていた。一つは、基準は明確であるべきだという軍隊的発想。そしてもう一つは、意思表明こそが大切であるという武人的思考。
 ―――すなわち。
 『離婚を切り出すまで』、と思っていたのである。それは浮気ではなく本気だと八俣に笑いながらつっこまれたが、前の夫の行動はそれでもぎりぎり浮気になりかけていたのだから仕方がない。
 だが現朗はそれと百八十度違った。
 浮気の定義で彼が初夜に言った言葉は―――

 『同一の異性を十秒以上直視すること』

 だった。
 差があるにも激しすぎるだろう、と蘭は内心突っ込みをいれつつ、自分の定義とつきあわせて合議に合議を重ねた結果、日明家の定義は『仕事の時間を除いて、異性で二人きりで一つの部屋に入ること』とした。
 にもかかわらず、蘭は先日その約束をあっさり破って教授と食事をしてしまったのには、のっぴきならない幾つかの理由があった。まずは暑かった。だから二人して腹をすかせていて、精のつく鰻が食べたかった。しかし、店が混んでいて空いていたのは個室だけだったのだ。
 しかし正確に言うならば、もはや店に入った時点で蘭の思考から約束はすっかり消えうせていた。鰻しか頭に残っていなかった。約束を破ったと気づいたのは、まさに今だ。
「食事をしただけだ」
 だって、人として道に外れたことをしたわけではないし。
 ほんのちょっと、数十分、食事をしただけじゃないか。
 ついと口を尖らせて不満そうに呻く。
 こんな言葉で現朗が納得するはずがないのはわかっていたのだが、言わずにはいられない。居直り強盗に近い気持ちが彼女の腹の奥底からむくむと沸き起こって、それがその不満げな表情から零れ落ちる。

 浮気の一つや二つで命をかけられるか! 馬鹿馬鹿しい。

 現朗はさらに身を寄せてきた。押されて、蘭はバランスを失う。仰向けに倒れそうになったが、鍛えられた腹筋でそのぎりぎりのところで止まった。ずずいと現朗が覆い被さってきたので、肘を後ろについて必死でなんとか体勢を保つ。
「ですが、浮気をしたことには変わりはありません。
 素直に死んでいただきましょう」
妻を見下ろしながら、夫は事務的な口調で言い切った。有無を言わさない、言い訳を聞かない、問答無用だという時にしか使わないその声。蘭のどこかにカチンとくる。
「お前、そんな程度で、死ねというのかっ!」
「勿論」
こくん。
 即座に振られる首。金色の髪が蘭の鼻の頭をくすぐる。

 ……ちょっと待て、本当に死んでほしいのか?

 目が点になった彼女は驚きのあまり二の句が次げない。
「大佐のお気持ちは、存じ上げます。
 私とて、大佐を亡くしたくありません」

 あ、なんだ、これで赦してくれるのか。

 そんな思いが過ぎったのが、現朗には見て取れる。
 油断した瞬間に思い切り殴りつける。それが、一番効果的だ。
 きらりと残酷な光が澄んだ青い目に反射した。
「ですので、手足の腱を切られて零武隊を辞めるか、手足をもいで軍隊を辞めるか―――どうか、いずれかをお選び下さい」
「えらく重い二択だなっ!?」
 零武隊の智将と噂される彼からは想像のつかない台詞に、鬼子母神も思わずコミカルに突っ込んでしまった。
 その瞬間、現朗の手が動いた。
 彼女は完全に反応が遅れた。気づけば、夫の手は首筋にそっと添えられていた。女のような肌をして、獣の様に残酷な指が、頚動脈を僅かに抑える。それだけで途端に息苦しくなる。彼の本気を悟って、蘭の中から甘えた気持ちは消えうせた。
「……俺は本当に怒っているのですよ。
 そんな程度?
 ええ、全く、その通りなんです。そんな程度のことすら、貴女は出来ないで俺を裏切ったのですよ。この一週間、どんなに、苦しい思いをしたのか。貴女が何も言わないから、もう生きた心地すらしなかった」
「殺されると言われていて素直に自首できるかっ!」
反省のない喚き声に、現郎は僅かに指に力を込める。
 何物にも汚されない自信に溢れたその顔が、そのまっすぐな目が、僅かに苦しげに歪む。顔が赤らんだ。
 蘭は払いのけたかったが、あいにくと両腕は身体を支えるために動かせない。
 完全に負けだ。
「……謝りなさい」
と男の薄い唇が動く。
 体中業火のように熱い感情が渦巻いて、蘭よりもずっと自分の方が動悸が早い。冷静な判断はとうに出来なくなっている。

 彼女が反省していないなんて、わかっていたさ。
 彼女が自分の苦しみを百分の一も理解出来ないことなんか、今更問うのも馬鹿らしい。
 どんなに身体は繋がっても、心は繋がるわけではないのだから。

「酷い人だ」

 蘭は眉を八の字に歪ませた。苦しい顔。ふいと首をそらして畳に視線を這わせる。酷いことは、十二分に自覚しているつもりだ。真っ直ぐに受け止めているつもりなのだ。でも、悔しいことに、知らぬうちに人の業がでている。
 やはり―――
 と、蘭は心中吐き捨てて意を決した。
 己の業の深さを反省して決めたのだ。
「ああ、全くだ。私は酷い。
 ……だが零武隊は辞められぬ」
「ならば、死にますか?」
即座に落ちてくる質問を蘭は聞こえなかった振りをして、ついと顔をそらす。彼女の白い頬が現朗の目の前に見える。そんな中、蘭の赤い唇が小さく動いた。
「こんな酷い奴が、お前を巻き込むなんてな……」
鋭い目が大きく見開かれる。
 だが、それは刹那のこと。
 現郎は突如強い勢いでその肩を押した。全身全霊の力を込める。与えられる重圧に、とうとう蘭の肘が音をあげる。
 ばたん。と二人が重なり合って畳の上に倒れこむ。現朗は手首を床に押さえつけながら体を上げる。抵抗する気は無いのか、蘭は頭上の青年をまっすぐな瞳で穿つばかりだ。

 ―――あんなに色々あってようやく結ばれたというのに、ああ、どうせ、構わないのだろうな、この人は。
 貴女が、ただ国のために殉ずるなんて、今更、言われなくても知っている。何事にも囚われず、ただ己の意志に従って刀を持つ。それが日明蘭という、俺が尊敬した、零武隊隊長なのだから。

「わかっておりますか? 貴女が為したことが。
 俺を裏切ってまで教授を選んだことが、何を意味するのか。
 何故浮気をするなと言ったのか、浮気したら殺すと決めたのか、わかっているのですか?」
蘭の頬を濡らす男の涙。
 どこまでも冷たいそれが、彼女の胸を焦がす。
「俺が、貴女のために殉ずるのは、怖くはない。貴女と共に歩む道にある災いなら、喜んで引き受けますとも。貴女と共に刀を振って黄泉の果てまでついて行きます。
 ですが、それは、激も、真も、炎も皆同じ」
零れる涙を拭わないで、彼はくしゃりと微笑んだ。
 ぼたりと大粒の涙が落ちた。

「こんな意味のない約束だけしか……俺には……貴女を縛れないから」

 この気持ちを抱きさえしなければ。
 部下と隊長の関係でい続けられたなら。
 彼は倒れこんだ蘭をきつく抱きしめた。重ね合わせた全身から青年の悲しみが伝わってきて、いつの間にか彼女の瞳からも涙が溢れていた。

 *****


 「ああ、そうだ。これが良い」
晴れやかな顔をして青年が言ったのは、元帥府から戻り残業が決定して直後のことだ。
 蘭が必死に新たな仕事の書類に目を通している前で、新たな資料を持ってき現朗はいつまでも戻らずにいた。外は闇。犬か何か分からない獣の遠吠えが聞こえている。
 元帥と黒木から渡された会計系の書類は、厄介を通り越して存在そのものを零にしたくてたまらないような内容だった。
「どうした?」
上げた顔の眉間には、深い深い溝が三本刻まれている。
 しかし現朗はにこりと微笑んでさらりとかわしてしまう。
「ええ。
 浮気した分をどうやって償っていただこうか考えていたのですが、一晩立場を交換ってどうでしょうか?」
「はあ?」
「今夜は、俺が大佐ということです」
言いながら、現朗は蘭の手にある書類を受け取って、机の上で書類の端を調えた。
 蘭の後ろに回って席を立つように促す。彼の意がわからない彼女は狼狽ながらも言われるがままに立つと、空いた席に現朗はすとんと腰を下ろす。万年筆を取り上げてさらさらと書きはじめた。
「あったかい珈琲が欲しいですね」
言って、彼は書く手を止めて柔らかに微笑む。
 そこで、ようやく蘭もその『遊び』を理解した。
「―――拝承しました。現朗大佐」