あなたと それではまるで 世界を一瞬で変えた、その
       沈みかけた 手が触れるたび 屈み込んで 空の雲を手で掴むには
       ああとても 開いた扉の 夢の中の住人は君に
 ・・・  あなたと  ・・・ 


 誘っても来ないぜ。あいつ。

 炎が現朗に今夜の予定を尋ねると否定的な言葉が返ってきた。「それは、残念だな」と言葉では取り繕っていたものの予想外の答えに驚いていた彼に、激が後ろから囁くように言ったのである。
 一瞬意味が理解できなかった。激は、机で書類整理をする現朗の白い背中を不審そうに睨みつけながら、再び繰り返す。
「誘っても来ないっての。  現朗。最近、どーも余所余所しいんだ。
 ここ三ヶ月酒を一緒に飲んだ記憶がねえ」
「笊を通り越して土管のあの男と一緒に酒を飲んでも、記憶はなくなるだろう」
炎は淡々と嫌味で返す。そうじゃねえよぉ、と拗ねた声が戻ってきた。どうやら普段のおちゃらけた気持ちではなく、本心から言ったらしい。
「また、お前が怒らせるようなことをしたのではないか?」
ふふんと鼻を鳴らして嫌味に返した。
「じゃあおめーも嫌われたのか? 炎よぉ」
「私が避けられるはずがないだろう。
 今日は偶々日が悪かっただけだ」
貴様と一緒にされてたまるか、とばかりに、強い調子で答える。
「ふーん。あっそぉ。
 じゃあ俺と違って現朗と御友人の炎君には引っ越し祝いの一つでも贈ったのかぁ? ええ?」
「引越しだと?」
ぴらり、とその書類を顔の前にひらめかした。
 極秘、持ち出し禁止という決まりどおりの文字が上部分にのっており、それから現朗の顔写真、名前、経歴が載っている。
 どうやら、元帥府の履歴書を勝手に奪ったようだ。炎は引っ手繰った。
 その中段のところに、新しいインクで追加されている。
「……引越したのか。
 それも……三ヶ月も前に……」
「あとなんか書類の一番上の名前の部分、おかしいんだ。現朗の苗字のとこにさ、ほら、青鉛筆でチェックをつけてやがる」
二人はその書類について検討した。青鉛筆のチェック、唐突な引越しと申請した日付。気になる点はいくらでもある。話している間に次第に白熱してきた。そのため、その後ろを偶然鉄男が通りかかったのに気づかなかった。
 大男の目に、その書類が触れた。現朗の顔写真。それを取り囲んでこそこそと話し合う二人の上官。
 いきなり、彼は二人を割って覗き込む。
 その大きな体格とは裏腹に気配は非常に薄く、二人の心臓が喉もとまで飛び跳ねた。今手にあるのはあってはならない存在だ。
「こ、こ、こ、これはだなっ!」
と、声を荒立てて言い訳しようとした激よりも早く、彼は、口を開いた。
「現朗殿のこと、何かあるのか?」
二人は顔を見合わせ、それから頷いた。
 「……おかしい、と思うか? 主らも」
激は重々しく口を開いた。
「まあな。ここ数ヶ月はちょっと普通じゃねぇ。引越ししたのもわざわざ隠すし、朝の出勤も昔より遅い。食事の好みも変わった。昼の弁当が手作りになった」
「細かく見てるな、お前」
炎が驚きの声をあげるのを、曖昧に言葉を濁らせて誤魔化す。
 実は、親友と思っていた彼が隠し事をしていることが心底気に食わず、つい本気で調べてしまった。内偵を雇ったり後をつけたりするのは当たり前で、持ち物調査から情報収集の全てを仕事の合間合間にやってのけた。
 零武隊の彼が本気を出したというのに、結果は白だ。唯一見つかった疑わしい点は先ほど見せた引越しの書類くらいしかない。
 ―――それが。
 余計に激に火をつけた。
「毒丸が現朗がおかしいと言いだしてな。冷たいと言うのだ。女でも囲い始めたとか、遊女に熱を入れているとか、根も葉もないことを言う。
 外から見る分には何か変わったようには思えないのだが……」
「いや。あながちそれは捨てきれない可能性なのかもな。
 零武隊の隊員に秘密にしようとすることなど、女絡みか密通絡みかのどちらかしかありえん。……後者の可能性もあるぞ。
 だとしたらことは重大だ。
 零武隊は帝直属の歴史の始末屋。その存在自体一般には知られていない。知ってはならぬ情報が漏れているとなると……まずいな」
ごくり、炎の真剣な言葉につられて、他二人が生唾を飲み込む。確かに、あの現朗が周囲に隠し事をするとしたらそのくらいしかない。それも情報戦と荒事が得意な零武隊にばれないように様々な思考を凝らしているところを見ると、相当な秘密が隠されているのだろう。
 かくして、帰り支度をしていた毒丸を鉄男が呼びつけて極秘調査が開始された。



 夜十一時。
 お屋敷街の名残で道幅も一軒ごとも広いここら辺は、道端に人もおらず、非常に暗かった。四人は飲み屋帰りの酔っ払いを装って歩いていた。服から酒の臭いが立ち上る。
 相談した結果、あの書類にある住所を実際に乗り込むことになった。もし現朗が誰かに脅迫されていたり、または、自ら進んで間諜になっていたのならば、行動は早い方がいい。そこで、時を待たず夜のうちに乗り込んでしまおうと考えた。
 その家は、なかなか広かった。佇まいもしっかりしており、名家のようだ。
 何食わぬ顔で、家の周囲を一周する。雨戸は閉じてられているが、中で動く気配がする。まだ起きているらしい。
 いったん家から離れて、作戦会議を始めた。
 「おそらく現朗たちが居るのは居間だ。
 庭から忍び込んで、声だけでも聞いてみるのはどうだ?」
と、激がいうと、三人は暗闇の中同時に首肯した。門が頑丈に閉まっていたので、塀をよじ登って入ることに決めた。
 一番身軽な毒丸が入って、数十秒後、三人の下に小石が投げ込まれる。小石は三人がいたところよりも左に十メートルほど離れたところだ。そこから入って来い、という合図。
 塀を登ってみると、成る程、その部分は地面に何もなくすんなりと入り込めた。
「毒丸、大丈夫か?」
「……ちょっと足首ひねった」
鉄男が心配そうに言っているのが、暗闇の中から聞こえる。息を殺して、居間のある庭のところまで回りこんだ。
 が。
 居間から、音がしない。
 別の部屋にいってしまったのだろうか。
「寝たか?」
「……そうは思えないが……」
炎は答えて、一人茂みから出る。そして、居間の雨戸に近寄った。
 耳を当て、音を聞く。家の中の音を探す。彼の耳は常人離れした能力があり、信頼を置かれている。
 ぎし。ぎし。
 足音が、『音を立てないように』動かしているのが、幽かに聞こえてくる。
 ……なんだ?
 その意味を理解した瞬間、血の気が、一気にひいた。

「逃げろっ。
 ばれているっ!」

炎が叫ぶと同時に、雨戸から刀の刃が出る。
 男の頬を掠めた。
 どがっ! と、雨戸が蹴り放たれて白い軍服の男が躍り出た。刀は既に抜いている。一直線に、激や毒丸の居るところを狙って駆け抜ける。
 ぶんっ―――
 刀を振る音は本気だ。このままでは怪我人が出かねない。毒丸はすでに鞭を構えているのが気配で知れた。
「う、現朗ぉっ! 待てっ。俺だぁぁっ」
隊員同士の喧嘩はご法度。ましてや、彼の家に忍び込んで刃傷沙汰など軍法会議になる前に消されることが必死だ。
 激の声に、ぴたりと刀が止まった。
「……激か?」
半信半疑ながら、一応尋ねる。
「そーだよっ。後、炎と鉄男と毒丸っ!」
暗闇でよく見えないのだろう。四人が近づいてくると、流石に見えてきて、現朗もしぶしぶ刀をしまった。
「なんだ夜更けに。事件でもあったのか?」
ぶるぶると激は顔を横に振る。
「近くで飲んでてさー。お前の家、この側だって話になって……ちょっと驚かせるつもりだったんだよー」
あはははと笑って有耶無耶にしようとする友人に、ふうん、と気のない返事をして、現朗は激の首筋に顔を近づける。成る程体からは酒の臭いがする、が、息からは酒の臭いなど一切しない。
「……俺の家の住所、何故知っている?
 まだ元帥府の書類にしか載ってない事実だ。明日じっくり聞かせてもらうぞ」
耳元で脅されて激の温度が一気に低下する。
 硬直している激の横を通って、後ろの三人の方へにこりと笑顔を投げつけた。
「ここまで来たのに茶も出さないのは失礼だとは思うが、失礼なのはおあいこということで。
 即刻、帰って頂こうか?」
言葉は丁寧に、態度は低く、しっかり脅迫しながら淡々と言う。
 気迫に押されて、炎が頷きかけた―――

「おい現朗っ。
 まだ片付かんのかっ!? 折角冷やしていた酒が温くなるぞっ」

闖入者の声に、五人の間の時が止まった。
 残念なことに、彼の人物は手に燭台をもっていた。いや、実際持っていなくてもその声を聞けば同じことだった。蝋燭の明かりで照らされたそこには―――
『大佐ぁぁ!?』
げっ、と言われた本人が声をあげるのが、ここまで聞こえる。
 現朗は腹の底からため息をついた。
 ぱたぱたっと毒丸は靴を脱いで、雨戸から家にあがりこんだ。
「どーして大佐がいんのっ!? 現朗ちゃんと」
「そ、そ、そ、それは……ええと……」
珍しく歯切れの悪い上司を、なんでなんでと問いかけながら壁に追い詰める。その間に現朗の制止も聞かず三人も靴を脱いで上がってしまう。
 蘭は必死に現朗に目で助けを求めた。
 現朗はまず彼女から蝋燭を取って、それを部屋の灯りに付け直した。居間が照らされて全員の顔がよく見える。
「う、現朗にその、仕事を手伝ってもらって……家に来てもらったのだ」
しどろもどろに言い訳をつむいだその言葉に―――
『ここ大佐の家なんすかっ!?』
四人は更に声をあげた。
 え? と不思議そうな顔をする。それ以外の要件で、どうしてこの家に来るのだろうか。
 そこに、毒丸が言った。
「……だって現朗ちゃんの家でしょ。ここ」
「な、なんでそれをっ!?」
言えば言うほど墓穴を掘る蘭に、さらに現朗は肩を落とした。このまま任せていくのは駄目だと悟って、金髪は重々しく口を開いた。

「大佐の家を襲う刺客がここのところ急激に増えたので、俺も泊り込むようになったのだ。
 ……もちろん大佐一人でも十分御身を守れるだろうが、天馬殿もおられるだろう? 元帥府の住所はそのために書き換えた」

 成る程、一見筋が通っている理由だ。
 だが、瞳の不審な色は全く消えない。
 まず、元帥府の書類にあった、青字のチェックが説明がつかない。そしてなにより、慌てすぎる蘭の態度が納得いかない。
「そうだ。そうだっ」
「じゃあ俺も泊まりますよ? 現朗ちゃん一人じゃ大変でしょ」
毒丸が提案すると、ぶんぶんと首を横に振る。
 なんだろう、この態度は。
 その答えに一番にたどり着いたのは鉄男だった。
 ―――蘭の首筋に、鬱血の痕を見つけた。
「……戻ろう。これ以上いるのは無粋だ」
くるりと背をむける男に、はぁっと疑問の声があがる。
 現朗一人鉄男の感情が分かって、内心合掌した。鉄男は一生懸命動揺を隠そうとしているが、梁に頭をぶつけている。
 負傷した頭を擦りながら床にしゃがみ込んでいる鉄男を誰も助けないで、じろじろと現朗をみていた。
 特に、激の視線が痛い。
 現朗とて親友だと思っているし……本当は、隠し事をするのはとても厭なのだ。
 ちっ、と、激が舌打ちをした。

「……結婚おめでとさん。
 そういうことは絶対言えよ。
 友人のつもりだったのは俺だけか?」

ぐっと金髪が唇を引き締める。辛そうな表情が瞳に浮かんだ。
「違うっ! な、な、なんてことを言うんだっ。激。冗談がすぎると斬るぞっ」
「……なぁ〜るほど。大佐が口止めさせていたんですね」
「違うといっているだろうがっ!ただの護衛だっ。
 それ以上でもそれ以下でもないっ」
「大佐」
と、現朗が言葉をさえぎった。
 二三歩いって、彼は、彼女の顔を見る。
 助けろ、と半泣きで慌てている、いとおしい妻。

「これ以上友人を騙したくないのです。宜しいですね?」

そんな甘い声を、この男がいえるなんて驚きだった。そして何より驚いたのは、その意味不明な言葉で、蘭は肩を落として俯いてしまったのだ。
「……勝手にしろっ」
拗ねるように、部屋から出て行ってしまう。
 その後姿を見送って、現朗は四人に座布団をすすめた。顔を見合わせながら、おずおずと座る。その間に酒と杯を持ってきた。
「さて。積もる話はあるんですがとりあえず」
と、現朗が全員に杯を回し、酒をついでから言った。

「新婚の大事な一晩を台無しにしたんですから、朝まで付き合って頂きます」

 すぅっと四人の血の気が引く。
 現朗の持ってきた酒はスピリット。
 洋酒の飛び切り強いやつだ。
 乾杯、と空々しい現朗の声に四人は泣く泣く杯を合わせた。
 そして、酒の殺し合いは、急性アルコール中毒に三人がぶっつぶれるまで続いたのである。