あなたと それではまるで 世界を一瞬で変えた、その
       沈みかけた 手が触れるたび 屈み込んで 空の雲を手で掴むには
       ああとても 開いた扉の 夢の中の住人は君に
 ・・・  ああとても  ・・・ 


 その日は、零武隊隊長日明蘭にとって厄日以外のなにものでもなかった。初めから終わりまで、全て悪いことばかりが重なった。


 夕方六時半―――
 ぺたんぺたんと判子を上下させる。
 紙を取り、一瞥して、定位置に判を押す。
 一枚あたりおよそ十秒。
 ただの単純業務だったが、その書類の量が一万枚を超えると色々ストレスが溜まる。床には書類の塔が立ち並んでいる。
 しかも怒りながら判子を押すと、変な方向に歪んだりずれたりする。苛ついた調子で手についた朱肉を濡れ布巾で乱暴に拭った。
 この手の仕事はいつも新兵に『修行だ』といって押し付けている。
 ……のだが。
 それが何故だか雄山元帥にばれた。
 朝、直々に参謀本部まで呼ばれてその注意を受けた。まずは、ばれるわけがない、と高を括って白を切りとおそうとした。知りませんな、と堂々と行った途端―――
「日明大佐……あまりごちゃごちゃ言うと、君だけ『判子』を使用禁止にして『署名』にさせるがいいのか?」
さらりと脅された。
 流石軍の一番を張る男だけあって、目の中の光には逆らいがたいものがある。彼はどうやら絶対の自信をもつ情報源を持っているようだ。
 署名にされたら腱鞘炎になること間違いない。しかもこの男は脅しではなく本当にやるタイプだ。
 口答えで得策ではないと判断ししぶしぶ頷いて、部屋を出た。
 その後、馬車の中で待機していた秘書的護衛役の現朗に報告した。元帥府にばれないようにするため今後はお前が判子係を頼む、と言う前に―――

「新人に重要書類の判子をさせてたって……。
 それ、勿論、御冗談ですよね?」

金髪が引きつった笑顔で詰め寄ってきた。
 え?
 笑顔が予想以上に怖くて、思わず蘭が身を引く。といっても狭い馬車。後ろの壁に追い詰められ、白い肌に冷や汗が一筋落ちた。 刀を使えばいともたやすくねじ伏せることの出来る男だが、彼を怒らせると報復が色々と怖い。特に笑顔を見せた後は良くないことばかり起こるのだ。
「……も、勿論だ」
闇に捨てた記憶が走馬灯のように蘇って、思わず嘘を吐く。
「あははは。勿論そうですよね。
 いやホント、そんなとんでもないことを仕出かしていたら免職どころではすみませんから。あははは。良かった良かった。
 おそらくやっかみ混じりの悪質な進言でしょう。そんなことありえませんものね。まさか。絶対。元帥もそんな馬鹿げたお話を信じるなんて酔狂な。

 だって。
 新人に。
 重要書類の判子をさせるなんて。
 ありえないでしょう?  ……ねえ?

 では今後はきちんと大佐の判子しているところを私どもが確認すればいいのですね。そうすればそのような誤解が生まれることはありませんものね」
「え……そ、そうだな」
乾いた笑いを上げる部下に気後れしている間に、とんでもないことを承諾してしまった。彼はその言質をとると、馬車が零武隊の官舎に到着するとすぐに、この上官が逃げられないように手配し、全ての書類を執務室に運ばせたのだった。
 やられた、と気づいたが後の祭りだ。
 ……どうやら元帥府に進言したのはこの部下だったようだ。
 憎憎しげに蘭が睨みつけても一向に堪えはしない。飄々と後輩らに指示を出している。
 結果がこの一万枚にも及ぶ書類である。
 彼女が折角新人に押し付けていた分まで全てかき集められた。



 ふと窓に目を向けた。夕焼けが僅かに見えるが、もう、殆ど夜の帳が空を多い尽くしている。
 どん、どん。どんからか―――
 遠くで聞こえる祭囃子の音が、一層大きくなったような気がした。今日は官舎の側の神社で大祭があるそうだ。時折聞こえる通りがかりの子供の楽しそうな声が、余計に囚われの身の己の境遇を思い出させて腹が立った。

 雨になれ。
 今すぐ大雨になれ。

 くさくさとした気分で押した判は、案の定歪んだ。手を止めて睨みつけるが、もうどうしようもない。判子済の山のてっぺんにおいて、ふう、と息をついた。
 祭りを教えてもらった、三日前の朝食のときのことが思い浮んだ。
「今まで知らなかったんですか?」
夫の意外そのものといった顔。
 仕事に祭りは関係ない。そんなこと知るはずがないだろうと言うと、それはそうですけど、と彼は口を尖らせた。
「……それなら、別に、構いませんよ」
何か言おうとしたが、結局、最後のほうを口篭らせた。そこに天馬がご飯のお代わりを追加したので有耶無耶になってしまった。
 何をいいたかったんだか。
 今となってはもう聞く方法も無い。それに、蘭は今彼の裏切りを壮絶に腹が立っているのだ。一週間土下座したって許すつもりは全く欠片もない。
 ノックもなく扉が開いた。
 立っているのは、裏切り者の金髪だ。手にはまた、新たな書類の束がある。
「大佐。只今佐藤隊員が重要書類を預かっておりましたので、それの回収をしておきました」
 奴もばれたか。
 ……気が遠のきそうになるのを、なんとか、ぎりぎりで堪えた。憎しみで堪えた。
「ソファに置け。
 こちらの束は完了したぞ」
現朗は持ってきた書類を言われたとおりの場所に置き、蘭の机の横まで行って山を持ち上げる。
 素早く数えた。
「百二十二枚、確かに完了です。残り七千飛んで六十五枚ですね。
 午後に入ってからペースが落ちておりますよ」
「能率が悪くて悪かったなっ!」
今にも飛び掛らんばかりの殺気を飛ばす。彼女の気を撫でるように、現朗は冷たい目のまま机の元まできた。今判をおしたばかりの書類を、さっととって机の横に置く。
「……引き受けますよ」
その言葉は、蘭にとって予想外だった。
 今、何を言った? と疑問が顔に書かれている。
「お引き受けしますよ。もう隊員は全て帰りましたし、残業している者もおりません。今ならば、元帥府に気づかれることは無いでしょう」
「密告したのは貴様だろう」
「……報告です。
 それに誤解があるので一応言っておきますが、言わなくても向こうは知っておられました。元帥府の情報網を侮らないで下さい。
 気合いいれて残業すればなんとかならない量じゃありません」
そりゃあもう毎月毎月貴女のお蔭でデスクワークをこなしておりますから。
 ―――といいたいのをぐっと堪えて微笑みかける。
「い、いいのか?」
思いがけない優しい言葉に、声が上ずった。目がきらきらと輝いているのは見間違いではない。
 この量を片付けるには明日も篭っていなければならないと思っていた。それが凄く辛かった。
 自由がないと、死んでしまうのだ。閉じ込められると駄目なのだ。
「今後は、絶対に、新人に任すことはお止め下さいよ。やはり重要書類ですから扱いには配慮をお願いします。
 ただ、この七千枚は全て引き受けます」
だから、と言葉を切った。

「一緒に行ってくれませんか? お祭り」

現朗が取り出したのは浴衣だった。
 白地に金魚柄のそれは、確か箪笥の奥深くに眠っていたものだ。彼はいつの間にかそれを見つけたのだろう。久しぶりに見た。天馬が生まれるずっと前に、母親に作ってもらったものだ。
「お前、仕事場によくもまあこんなものを持ってきたな」
嬉しさよりも驚きが勝った。懐かしい品だ。呆気に取られている彼女を見ながら、現朗は、成功を確信する。不快なときははっきり顔に出す。
「どうしても行きたくて。花火が有名なんでけれど、行く相手がいなくて一度も見たことは無かったんです……。
 どうか、我侭に付き合って頂けませんか?」
蘭は上機嫌でそれを受け取った。祭りに行くなど久しぶりで心が躍ってしまう。
「天馬には悪いな」
「お盆には地元で開かれるお祭りがありましたから、そちらに連れて行ってあげましょう」



 『……お前、昨日大佐どこに連れてった……』
真っ黒な隈をつくる同僚たちと対比して、現朗は晴れやかな顔をしていた。
 一晩で七千枚もの書類に判を押したという疲労の色などどこにもない。一方零武隊の―――というより独身寮の―――軍人たちは一晩中町を駆け回らなければならなかった。
「ははは。
 何をおっしゃるんです。大佐はあれだけお仕事が溜まっていたのですから勿論ここで残業しておりましたよ。お蔭で全部片付きましたし」
湯を沸かし、朝一番の珈琲を淹れる。豆は上等なものを参謀本部から 脅し取った 頂いたものだ。やかんは、カタカタと小さな音で朝の空間を刻む。
 休憩室に珈琲のいい香りが立ち上った。
「へえ。あの大佐が全部終わらせたのか?」
と、炎が。
「ほお。あの大佐が逃げ出しもせず一晩中座っていたのか?」
と、真が。
「はぁん〜。大佐がおめーの言うこと聞いてちゃんと仕事したって言うわけ?」
と、激が言って―――

『んなわきゃねーだろがぁっ!』

ぴぃ―――っ
 同時に湯が鋭い音を立てたので。
 隊員全員のつっこみをさらりとながし、こぽこぽと器具に湯を入れる。それから挽いた豆をセッティングして湯を捨てた。
 お湯を注ぎ始めると、香りがふわりと漂う。
「……そうおっしゃられても。残業しなければ一万枚もの書類が残業せずに一日で片付くはずがないでしょう。
 まさか、神社のお祭りに行って、白い金魚の浴衣を着て、腕を組みながら花火を見て、綿菓子を食べながら少ないと店主を脅して、ヨーヨーを掬いながらついでに子供泣かせて、お化け屋敷を半壊して、ちょっとむかついた見世物小屋を破壊したりしてませんから☆
 動物を脱走させて大混乱の上都市全域に厳戒令を出させたのは全くの人違いですから☆」
乾いた声で笑って誤魔化す。
 その日、日明大佐は幾度も元帥府に呼ばれたが、居留守を使い通して絶対執務室から出なかったという。

 ああとても―――
 とっても迷惑。