あなたと
それではまるで
世界を一瞬で変えた、その
沈みかけた 手が触れるたび 屈み込んで 空の雲を手で掴むには ああとても 開いた扉の 夢の中の住人は君に |
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月が。 あんなにも、キレイですよ。 幼子の言葉に空を見上げたとき、秋風が彼女の髪を空へ舞い上げた。雲ひとつ無い真っ暗な闇に丸い月が浮かんでいた。 嗚呼。本当に、美しい。 「明日はちゅうしゅうのメイゲツです。母上」 天馬は月に魅入られたまま、甲高い幼児の声音でいう。声とアンバランスな言葉に、蘭から笑みが零れた。 少年は知ったばかりのその言葉が言いたくてずっとうずうずしていたのだ。 「ああ。いい月だ」 月を見続けている息子の脇の下に手をいれて、軽々と抱き上げる。並みの男よりも太い左腕に腰を乗せた。二人には慣れた抱き方で、天馬はどこも持たなくてもバランスを上手く取っている。 ……こうすると、二人が同じものが見えるだろう? 天馬が他の子供のように、おんぶや抱っこをねだったとき蘭はそうやって諭した。本当は、この体勢が彼女にとって一番刀を振りやすく、走りやすいのだ。 子供の暖かな体温が服を通してじわりと伝わる。 月がさらに近くなって、ちゅうしゅうのメイゲツだ、と再び呟いた。 「良く知っているな。難しい言葉だぞ」 「父上が教えてくださいました」 父上。 自分はまだ彼を夫と考えるだけでも緊張するのに、息子はその呼称にすんなり慣れてしまっている。たった数ヶ月しか経っていないが、彼が居る生活がこの幼子にとっては普通になっていた。 なぜだかそれが、とても嬉しい。 「そうだ。明日のお供え物はお団子ですよ。お団子。 お団子。食べたい。おなかいっぱい食べたい」 きゃっきゃと嬉しそうに足を揺らした。 「ふふ。そうだな。明日は団子を食べよう。 知っているか? 薄を飾ったりもするんだぞ」 「すすき。すすきっ。 川に沢山生えてましたよね」 「よし。では明日とりに行こう」 秋の風はどこかの家から香ばしい香りを運んでくる。秋刀魚だろうか、と勝手に蘭は思った。一週間前までは確かにそこに夏があったのに、風が全てを塗り替える季節の変わり目。らしくなく感傷的になっていると、腕の天馬が最後まで歌えない子守唄を唄い始めた。 さあ、帰ろう。 家には待っている人が居る。 中秋の名月だから、団子を食べる。 そんなあたりまえの習慣が、あたりまえのように日明家に訪れたのは、もう何年ぶりだろうか。正月でさえまともに迎えなくて周囲から文句を言われていた。現朗が来て、まるで止まっていた時間が、関を切ったように流れ始めた気がする。 それは気のせいだ、と蘭は思いながらも口は嬉しそうに笑っていた。 本当にそうだったらとても幸せだろうに。今までの時間がなかったことにできたらそれほど幸いなことはない。 だが、職務柄、時間を無かったことにするのがいかに難しいことを知っている。その難しさを知らなければ『なかったように振舞える』のだが、それが出来るほど弱くは無かった。 彼女は、数ヶ月ぶりに台所に立っていた。 三時過ぎ、彼女は現朗と天馬を川へ薄を取りに行かせた。あと二時間は帰ってこない。この二時間で月見団子を作って、驚かせてやろうと考えていた。 昨日、天馬がメイゲツだメイゲツだと騒いだ後、居ても立ってもいられなくて乾物屋で急遽上新粉を買いに行った。閉店した店を叩き起こして金を差し出しながら言った。 団子の粉を三人分くれ。 亭主は迷惑そうな顔をせずに聞き返した。明日は月見だからこういう客もいないわけではない。 上新粉のことですよね? 何匁です? 知らん。三人分だ。 かたくなに言い張る蘭に相手は暫く考えた後、五十匁の一袋渡した。そして、同じ調子で黄粉と餡子を買って、それらをこっそり部屋の隅に隠しておいた。 食事は乳母と現朗が作ってくれるので、台所に下りるのはもっぱら酒を探すときだけだ。蘭は料理は天性の不才能で、米を炊くことは愚おろか味噌汁を作って零武隊全員を腹痛に陥れたことがある前科持ちである。現朗が来る前は乳母に全部頼りきっていた。 そんな彼女が台所に立つという時点でかなりの大勝負なわけで、しかも一度も作ったことのないお菓子を作ろうというのはもはや神風特攻の域である。 だが、団子なら水をいれて捏ねればいいのだから、失敗するわけがないだろう……と彼女は気楽に考えていた。 湯を沸かし、粉を器に入れる。 「……ええと……水加減……は……?」 とりあえず湯飲みに水を入れ、ちょろちょろと粉に足してみる。最後は面倒になって全部入れてしまった。 それから腕まくりをし、右手で捏ねる。 始めは上手くまとまらなかった粉も、次第に形ができてくる。少しべたついた感じがあったが多分大丈夫だ。 次は、軽く引きちぎりころころと手のひらで丸める。簡単に形作られるのが面白くて夢中になって丸めた。 不揃いの団子がまな板の上に並ぶ。器の粉が全てなくなると、汚れた手を水で洗って、湯の様子をみた。 あまりに湯の量が多すぎたので沸くにはまだ時間がかかる。湯を睨みつけてもしょうがないので、手当たり次第に薪をくべて風を竹筒で吹き込む。ごおごぉと思う存分火力が上がって火が乱れだした。持ち上がった灰が鍋の中に入ったので慌てて蓋をした。 こぽこぽと小さな泡が出たので、待ちきれずにすぐに団子を入れ始める。まな板にくっついて、上手く丸のまま湯に入る団子は少なかった。 五分。 始めの味見に、大きな団子を一つお玉で掬い上げてつまんでみる。周囲を指でつついてみるが、そんなに熱くは無い。 「えい」 そのまま口に放りこんだ。 がぶり、と噛んでから。 「ぐふっ!?」 口に激痛が走って涙がこぼれる。 周囲はぬるいし、真ん中は生だが、それでもとんでもなく熱い。 思わず吐き出して、袖で口を拭った。 「……一旦水で冷やしてからだな。味見は」 と、当たり前のことを悟った。 二度目の味見の後、茹で上がった団子を笊に揚げた。冷ましているうちに鍋や器を洗って、元通りに片付ける。 驚かせてやりたい。 現朗を。 天馬を。 きっと、喜んでくれるはずだ。あれだけ団子を食べたいと行っていたから。 そう考えると、心が躍る。 きちんと拭いて全ての片づけを終えた後、団子を山乗りにのせている皿を居間まで持ってきた。黄粉を盛大にふりかけた。冷めているとは思ったが、二の舞は踏まないよう箸と小皿を用意した。団子の一つをとって、皿の上で二つに分ける。真ん中をちょっと触って温度を確かめた。それから、箸で片割れを取り上げて口の中に入れる。ゆっくりと噛んでよく味わった。 ……なにか、思った味がしない。 まずそもそも甘く無い。 首をかしげてしげしげと黄粉の入っていた袋を持ち上げた。指を入れてぺろりと舐めている。大豆特有の香ばしい味が口の中に広がった。 「この黄粉……不良品か?」 砂糖を黄粉に入れるという概念がすっぽり抜けている蘭は、仕方なく餡子を取り出して団子につけてみる。 甘さはなんとかなったが、今度は団子の味が気になった。 もちっとしてない。 ……しかも、真ん中は生だ。 お世辞にも美味いとは言えない出来だった。 もう一度煮直したほうがいいだろうか、と首をかしげていると、玄関のほうから音が聞こえた。 『只今戻りました』 もう帰っただとっ。あと一時間くらいは……っ 心臓が鷲掴みされるくらい驚いて、まず皿と箸を自分の部屋に置く。それから走って玄関に向かった。 「お、おかえり」 そこには両手いっぱい薄を持った天馬と、現朗が立っていた。 現朗はきょろきょろと首を回していたが、蘭を見ると、ただいま、と繰り返した。天馬から薄を受け取った。穂は見事に開いてしまっていて少し振るだけでもぱらぱらと雪綿のような種がこぼれた。 「ずいぶん採ったな」 予想以上の量に驚きを隠せない。二三本と思っていたのに、見積もっただけでも二十本以上はある。天馬は川につくとこらえきれずに見つけた大きな薄を全て取ろうとしたのだ。新しく大きいのを見るたびに、「あれも、あれも」とねだる。川から帰ってくる間に十本以上増えてしまった。 天馬は下駄を脱いで靴脱ぎ石の横に並べると、現朗の持っていた包みを取って母親に差し出した。 「母上っ。 花屋でお団子買ってきましよっ。しかも十個もっ! 餡子も、黄粉も、母上の好きなみたらし団子もあります」 花屋。天馬の好きなお菓子屋だ。 彼の顔は、得意満面といった表情で蘭を見ている。 少年は、母が喜ぶと思っていた。月見には団子だ、それを忘れずに買ってきたのだから。 蘭は、呆気に取られていた。 それがいい。それが、一番いいのだ。灰を被った、あんな、ものよりも。 ごくり、と唾を飲んで感情を整理する。 菓子の包み紙を見ながら、後悔の念が湧いた。何故、いきなり、普段ろくに料理をつくったことがない自分がそんなことをしようなんて思い立ったのだろう。愚かな。 自分が恥ずかしくて、浅ましくて、考えたくもない。 「母上?」 不思議な反応にわけがわからず天馬は着物の裾を握って引っ張った。 その一言に、現実に引き戻される。 「そうか。それは美味そうだ。 食事の後で食べような?」 そう言うのが、彼女には精いっぱいだった。 天馬は、久しぶりに行事ごとをしたのがそんなにも嬉しかったのか、月見をしているうちに、普段よりも一時間も早く眠ってしまった。 寝た子を蘭が部屋に連れて行って布団をかける。普段はこんなに甘やかしたりしないが、今日は特別だ。居間に戻ってくると食器の片づけを終えた現朗がお茶を淹れ直していた。 「良い月ですね。雲も無くてよかった」 「そうだな」 蘭が座ると、そこにお茶を置く。居間は庭に面しているので、障子を開けるだけで月明かりが忍び込む。廊下には三方と薄が置かれていた。薄は流石に全部は使えなかったので、半分以上は梟にしてその横に飾っておいた。 風に薄がたなびく。 まるで吸い込まれるような光に、言葉も出ない。 かたり、と音が聞こえた。現朗はお茶を飲んで、ちゃぶ台に戻した。 「さて。 そろそろ隠しているものを出してくれますか?」 優しい声だった。 何事かと思って蘭が振り向くと、にこりと笑った。 「なんのことだ?」 彼は答えない。 答えずにただ見ている。 蘭は眉をしかめた。 正直、現朗の逆鱗に触れるような仕事はたくさん隠しているが、ばれていないはずだ。ばれていたら今日のような休暇をもらえるはずが無い。 では、別のこと? 私生活で夫に隠し事をすることはない。潔白というよりそんな面倒なことをしたくはないだけだ。 では、なんだ? 隠していること? …………。 刹那。 蘭は耳まで真っ赤になった。 「お茶も淹れましたし。 お月見を仕切り直しといきましょう」 「で、でも……その、もう腹はいっぱいだろう?」 「そうですか? 夕飯の量を減らして、あえておかゆにしたんですけれどね」 「……いや、だがその。料理は……不得手だから……いいのだ。別に。味噌汁で色々やったし……」 俯いて、指と指を擦り合わせてしまう。 味噌汁の攻撃にあったことのある現朗は思った。あれは教授の不思議な薬を豆腐と間違えていれたからだろうが、と。何故豆腐と間違えるのかは不思議だがそれは蘭のせいだとは思っていない。 現朗は立ち上がって、廊下に行った。一分も経たぬうちに、手に団子ののった皿を持って戻ってきた。 団子を見て、さっと彼女の顔が曇る。 やはり、不揃いでおいしそうではない。花屋の団子の方が数倍美味しい。 ちゃぶ台に置かれると、すぐにそれを自分の方に引き寄せた。 「これは、私のだ。だから、食べるな」 「全部ですか?」 「そうだ。全部だ」 「俺のためには、一つも作ってくれてないんですか?」 こくり、と無言で頷く。どうしても皿を返そうとしない。 現朗は手を伸ばして、一つ摘み上げる。あ、と小さく呟くのが聞こえた。 「じゃあ盗むしかありませんね」 ぱくりと、頬張る。 「……美味しいじゃないですか」 「う、嘘を言うなっ! 慰められる必要は無い」 もにもにと咀嚼し、嚥下する。 「嘘を吐いているのはどちらですか? ……もう一度尋ねます。 俺のために、作ってくれたんでしょう?」 男の目に有無を言わせぬ光が宿った。 嘘のつもりはない。 と、口に出したつもりだったが、声にはならなかった。というより、声が出なかった。 「知るか」 言い捨てて、蘭は皿を押し返す。 「食いたければ食ってもいい。食いたくなければそれもいい。 だが同情はいらん」 蘭の口に餡子をつけた団子を一つ押し合てて、黙らせた。口に当てられた団子を、もぐもぐと咀嚼するその可愛いこと。 「美味しくないですか?」 「……ああ。 さっきの方が、ずっと美味い。もちもちしてないし、中が生だし、周りが硬い」 思いつくままに欠点を述べる。 およそ彼女の失敗が分かった。お湯の温度が低かったのだろう。それに、丸型も茹でるのには不向きだ。真ん中まで火は通りにくい。 ならば、いくらでも手立てはある。半分に切ってもう一度茹でなおせばいい。 「上新粉を煮たのですね。 明日、お汁粉を作ってその中にいれましょう。上新粉の団子ととても相性がいいんです。きっと蘭さん好みに頂けますよ」 「汁粉……?」 「餡子もあるので簡単に作れますよ」 そっと、現朗は彼女の頬に手を置いた。 天馬が団子を見せたときのあの顔。 あの寂しそうな顔が目に焼きついて離れない。 「俺はこの団子のほうが好きですよ。そして、これはとても美味しい。 ちゃんと言って下さい。 ……貴女は、本当に御自分のことがよくわかってない。それがどれだけ俺を煽るか気づいてくださいよ」 煽る、という言葉に蘭の眦がつりあがる。くすくすと彼は笑った。 「大丈夫ですよ。 俺は、俺のためだけの団子を頂くのが今夜は一番大切なことですからね」 「ち、違う。私の分だっ」 照れ隠しに何度も何度も言い訳を繰り返す。それを聞き流しながら現朗はぱくぱくと団子を食べた。 暖簾に腕押しの様子を見て諦めた彼女は、自分も食べてみる。 彼があまりにおいしそうに食べるので。 少し、美味しいかもしれない―――と思った。 |
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