あなたと それではまるで 世界を一瞬で変えた、その
       沈みかけた 手が触れるたび 屈み込んで 空の雲を手で掴むには
       ああとても 開いた扉の 夢の中の住人は君に
 ・・・  手が触れるたび  ・・・ 


 深夜十二時をすぎて、陸軍特秘機関研究所にも灯りがある部屋が限られてきていた。
 いつ家に帰っているのかわからない帰宅拒否気味の丸木戸教授の研究室。警備室。そして、この官舎の主たる日明蘭の執務室だ。
 その執務室に篭って、蘭と現朗の二人は部屋中を書類に埋もれながら決算報告と予算報告書の作成をしていた。隊員の決算報告は既に片付いていたが、彼女が壊したり修理した分の決算が出来ていない。
 蘭は今書いている書類の最後尾に署名をすると、さっと現朗に手渡す。
 それを一瞥するだけで、差し戻した。
「……交通費に三万五千七百六十四円八十二銭五厘、って舐めてますか。何回日本一周やったんです。
 遠征の回数や行き先は分かっているのですよ。零武隊全員の移動費を考えても、せいぜい一万円どまりです。ほら、きちんと別の領収書探しをしなさい。第一師団司令部を破壊した分の修理費の領収書は、きちんと残っているでしょう」
「もう、これでいいではないか。
 どうせ、うちが、きちんと決算できないというのは皆わかってるのだし。だいたい大霊砲の銃弾分三千円も計上できないんだから何をやっても無理なのだ。どれだけ領収書作らなければならないと思う? 三万だぞっ。そんな空領収書つくることが出来たら私だってカミヨミくらい出来るわっ。
 これで十分納得する。間違いなくする。納得させてやる。だからもう……」
半泣きの上官は、差し戻された決算報告書をばさばさっと天井に投げ捨てる。
 零武隊の予算は言えない内容が多い。その使途不明金を見せないように、空領収書やプール金を用意しておいて決算を作らなければならない。
「……大佐の問題は空領収書だけではないようですが」
と、言いたいのをなんとかこらえた。そう、蘭が今投げた決算報告は、そういう言えない内容以外のところでも計算が全くあっていない。
「あと少しですから。今夜頑張れば何とかなります。珈琲でも滝れてきましょう」
「……嘘つけ」
くるりと椅子を返して、蘭は現朗に背を向ける。相当ストレスが溜まっている。連日、この決算のために残業だし、さらに今から予算も作らなければならない。提出期限は明後日だ。
「お前が作ってくればいいのに。私より得意なのに」
ぶちぶちと職場放棄を決め込む上官がぼやいているのが聞こえて、大きくため息をついた。
 十二時までよくやったから懐柔の手段で出てみたのだが、それは間違っていたようだ。


 そもそもこの決算が大きく遅れた原因はこの上官だ。
 零武隊では、隊員分の会計は現朗、隊長分(自分用)の会計は蘭が担当するのが慣例になっている。
 積み立て型の現朗はとっくに決算報告書も予算も終わっていた。偽領収書やプール金を一年間綿密に用意しておいたし、きちんと決算がしやすいよう隊員にも言ってある。
 が、たった一人分にもかかわらず、一年間全く用意をしてこなかった蘭は恐ろしく大変な状況になっていた。明後日が提出日だというのに、完成する見通しすら立っていない。
 それはそれで許しがたい話なのだが、何より今回はそれ以上のことをかました。
 なんと、いざ決算・予算作りの段階になって、彼女が逃げ出したのである(=監査という名目で地方へ遠征中の部隊に遊びにいった)。
 その首根っこひっつかんで遠征からひき戻してきたこの我侭上官を、彼が怒りを抑えて笑顔で迎えてやったのは、とにかくさっさと仕事をさせるためだ。その後飴と鞭を使い分けてなんとか机につかせることができたのだが。
 ……だが。
 そろそろ、限界のようだ。


 床に落ちた作りかけの書類を拾って、端を整える。
「さあ。最後ですから」
椅子を戻して、蘭はしぶしぶそれを受け取った。
 書類の下で、手が、触れ合う。
 ぎょっと現朗は目を開いた。彼女の手に、手袋がない。後ろを振り向いた瞬間に、手袋を脱いだのだ。
 触れ合う手を、ゆっくり撫ぜる。

「なあ……取引といかんか?」

にたり、と唇を引きつらせた。
 蘭の仕事のせいで現朗も家には帰っていない。天馬は乳母に面倒を見てもらっているからいいとしても、彼だって早く帰りたいのだ。家で、妻に会いたい。
 お前が仕事を肩代わりしたら―――。
 見る見るうちに青年の頬が紅潮し、それをばれたくないのか視線を逸らす。だが、蘭は追い詰めるように執拗に手を撫で、そして軽く引っ張った。
 こっちを向け。
 再び妻の方へ向き、そして、ゆっくりと顔を近づけた。
 軽く、唇を重ねる。
「……蘭さん……」
熱の篭った声。
 作戦の成功を感じて、蘭は内心ガッツポーズをとる。
 正確に交わしていない約束など、反故する気満々だ。それを今、この場で夫に知られなければいい。
 反面、現朗は必死に自分に冷静になるように宥めていた。冷静……いや、むしろ、冷徹になれ、と。この調子で仕事を押し付けられて実際現朗が望みどおりのことをしてもらったことは、ない。本当にない。それなのに同じ手に引っかかるのは、この時の色気には壮絶すぎて逆らいがたいものがあるからだ。
 だが、現朗は今回は彼の限度を超える事態だった。
 いいか。よく考えろ。何で今ここに俺がいる?
 大佐のせいだろう? 一年間もサボっておいて、しかも金額を調べてやったら逃げ出したのはどこのどいつだ? 
 俺はむしろもっと言っていいんじゃないのか。
 てゆうか普通だったら言うだろ。絶対。

「……このまま、
 この部屋で、
 軍服で寝るなら仕事肩代わりしてもいいですよ?」

がんっ。
 あまりの言葉に、威勢良く彼女が頭を机に打ちつける。その行動で充満していた色気が一気に霧散する。
 形勢は一気に逆転した。
「なっ。なんでそんな……っ!」
現朗はその隙に手を戻し、腕を組んだ。ふんっと鼻を鳴らす。
「よく考えてみればここまで手伝ってやる義理はないんですよね。隊員分の決算は終わりましたし。予算は俺の仕事じゃありませんし。黒木中将や三浦中将に文句を言われにくい決算報告と予算報告にするように、雄山元帥から言われていたから手伝っていたに過ぎないのですし。
 ……別にどれだけ元帥府から文句言われても、今回は大佐がお一人でなさればいい」
「なっ!
 貴様それでも帝国軍人かっ!」
「決算作る前にわざわざお一人で勝手に無断遠征なさった帝国軍人はどこのどなたですか? 日明大佐」
笑顔で詰め寄られて、蘭はたじろいで顔を引く。そこを突付かれると弱い。

「といいますか。
 俺、明々後日から一週間毎晩一緒に過ごすというきちんとした約束をして下さらないと、今から仕事手伝うの止めます」

さっと妻の白い手をとった。
 そして、脅すように上から包み込み、指で撫でる。むむむむ……と口をへの字にして呻く声。取引ですよ、と囁くと忌々しそうに舌打ちをした。
 キレるか、それとも折れるか。
 おそらく後者だ、と現朗は確信して珈琲を滝れてくるために部屋を出た。



 手が触れるたびに変わる関係。
 それが、最高の楽しみ。