あなたと それではまるで 世界を一瞬で変えた、その
       沈みかけた 手が触れるたび 屈み込んで 空の雲を手で掴むには
       ああとても 開いた扉の 夢の中の住人は君に
 ・・・  屈み込んで  ・・・ 


 稲穂のように眩しい髪を持つ男、現朗が、突然艶美に微笑んだ。
「大佐」
 休日の十時。罠やら仕掛けやら鉄板やら釣天井やらが普通に設置されている日明家の中では最もまともな部屋、居間。簡素な床の間と大きめの座卓が一つ。机の上には遅い朝飯の後がそのまま並べられていた。
 天女すらも戸惑わせると評判の美貌。
 なるほど、これなら茶店の娘たちの間で評判になるのも頷けるな、とその整った鼻立ちや切れ長な目を見ながら蘭は状況に一切関係なく思った。至近距離で粗探しをしてみても何一つ欠点が見つからない。
 役者になっていればそれなりに儲かっただろうな、と口に出そうかと思って止めた。彼の大根役者っぷりは新年会で馴染みの芸の一つだ。真顔で棒読みで硬い動きのあの姿を思い出して、こみ上げた笑いを完全に隠すことが出来ず顔から零れ落ちる。彼とは対照的に、真という三白眼の―――決して美形という方ではないだろうが―――男はなかなかに優秀で、女形をやらせたら毎年新人が落ちると評判なのだ。
 彼女が何か別の物思い囚われているのを見取って、現朗は勝利を確信しつつ優しそうな声で繋げる。


「浮気したら本気で殺すと言いましたね、俺」


一瞬己の耳を疑って蘭は硬直する。
 現朗は笑っているのだ。確かに、実間違えようもなく、あの美しいと騒がれる表情のままなのだ。あまりに不釣合いな発言。
 何と言ったのだ、と問い返そうと迷う彼女の元へ、金髪は静かな動きで座ったままにじり寄ってきた。
 だが、男が近づけば、判る。
 ―――言葉と表情、どちらが偽りなのか。
 金糸に隠れた切れ長な目、その真っ黒な瞳に、狂気と殺気が渦巻いている。
 蘭の手は本能的に腰元の柄を掴みとろうと動く。が、目当てのものが見つからない。残念なことに、彼女の刀は今床の間に夫婦の刀が揃って仲良く飾られていた。
 今朝、天馬は、帝月と約束をしたとかで、近円寺邸に一晩お泊まりに行ってしまった。朝食を握り飯一個で済ませて、まだ白い月が残る朝早くの時間に、早馬で蘭が見送った。
 今日はなんとなく現朗の機嫌が良くて、明るくなってもまったりとした会話を交わしていた。だから、何気なく刀を外してしまったし、何気なく食事は並んで食べた。彼が刀の間合いに入ることを心のどこかが完全に許してしまっていた。
 ―――全ては、計算の上での行動だったのだろう。
 ようやく身の危険を覚えて、蘭の顔に燃えるような闘気の影が戻る。その怒りの気に挑発されて、現朗の目が僅かに細められた。
「……覚悟できているんでしょうね」
肌理の細かい、だが、案外に肉厚な手。
 近づくそれを彼女は体ごと動かして避ける。
「した覚えはない」
口ではそう言っているもの、体はしっかり縁側のほうへと動いていた。
 覚えがないのならば逃げる必要はないはずなのに。
 胸中冷めた笑いを浮かべながら、逃出せないように、現朗は彼女の髪の一房を右手で握り締める。
「覚えがないんですか? ほぉ。すばらしい物覚えです。
 ……ではじっくり思い出して頂かなければなりませんね」
ぐぐいと秀麗な顔を近づけてくる。
 蘭の白い喉が僅かに動いた。生唾を飲むなんて、らしくないと思いつつも、全身にいらぬ力が入っているのを自覚する。
 刀と力では万が一にも負ける気はしないのだが―――
 しないのではあるが―――
 ―――…………正直、少し、怖い、のだ。
 事務に関して注意され、予算に関して苛められ、仕事をサボると叱られる、という日々の所為もあるだろう。 世間で騒がれる整った顔立ちが、怒ると余計に怖くなる、と思う。
「いや……その。
 今更言うのもなんだが、浮気の定義が少々きつ過ぎやしまいか?」
「まさか日明大佐ともあろうお方が、そのような言い訳を?」
あっさり一言に伏せられて蘭は言葉に詰まる。
 退路がないと悟ってみるみるうちに悔しげに顔を歪める。下唇を無意識に噛み、眉間に数本の皺が浮んだ。ようやく現朗は胸がすく思いがした。
 浮気の定義。
 ―――蘭は、『離婚を切り出すまで』、と思っていた。それは浮気ではなく本気だと八俣に笑いながらつっこまれたが、前の夫の行動はそれでもぎりぎり浮気になりかけていたのだから仕方がない。
 だが現朗はそれと百八十度違った。
 浮気の定義で彼が結婚初夜に言った言葉は―――

 『同一の異性を十秒以上直視すること』

 だった。
 差があるにも激しすぎるだろう、と内心突っ込みをいれつつ、ついでにそれをぽろりと口に出しつつ―――まあ結局、いつもの通り現朗と大喧嘩になった。
 そして双方の定義とつきあわせて合議に合議を重ねた結果、日明家の定義は『仕事の時間を除いて、異性で二人きりで一つの部屋に入ること』とした。
 現朗はいたく不満だったが蘭が丸め込んで説得させた。
 そして先日、丸木戸と馴染みの料理店(個室)で食事したのである。

「……食事をしただけだ」

 現朗が口を閉じてからたっぷり一分以上の時間があって、出た答えは、それだった。言って、ぷいっと顔を背けた。目線を畳に這わて、不満そうに頬を膨らませている。尖った唇はまだ言い足りないと主の感情を代弁していた。
 こんな言葉で現朗が納得するはずがないのはわかっていたのだが、言わずにはいられないのは、彼女の中に無自覚な甘えがある所為だ。

 だって、道に外れたことをしたわけではないし。
 ほんのちょっと、半時間、食事をしただけなのだ。
 しかも相手は変態の名を恣にする幼馴染ではないか。
 だいたい浮気の一つや二つで命をかけられるか! 馬鹿馬鹿しい。

 やってしまったものは仕方ないだろう。
 居直り強盗に近い気持ちが腹の奥底からむくむと沸き起こって、それがその不満げな表情から零れ落ちる。
 現朗はさらに全身を寄せてきた。それに押されて、蘭はとうとうバランスを失う。仰向けに倒れそうになったが、なんとか肘で身体を支える。
「ですが、浮気をしたことには変わりはありません。
 素直に死んでいただきましょう」
彼女が逃げ出せない様に覆いかぶさるようにしながら、現朗は事務的な口調で言い切った。有無を言わさない、言い訳を聞かない、問答無用だという時にしか使わないその声。それが、蘭のどこかにカチンとくる。
「お前、そんな程度で、死ねというのかっ!」
「勿論」
即座に頷いた。
 それが予想外にあまりにも早くて、特徴的な垂れ目が驚愕で大きく見開かれる。その鼻の頭を、金色の髪がくすぐった。
「大佐のお気持ちは、存じ上げます。
 私とて、貴女を亡くしたくありません」

 あ、なんだ、これで赦してくれるのか。

 安堵の息を心中でつくのに呼応して、頬が緩む。
 が、きらりと現朗の眼に残酷な光が反射した。

「ですので、手足の腱を切られて零武隊を辞めるか、手足をもいで軍隊を辞めるか―――どうか、いずれかをお選び下さい」
「えらく重い二択だなっ!?」

 思わず声をあげてしまう。
 その瞬間、男の手が動いた。
 彼の手が蘭の肩を掴み、全身の体重をかけて強く押しかけてくる。二人分の重圧がかかり、肘の下の畳の下からみしみしと不穏な音があがる。
「……俺は本当に怒っているのですよ。
 そんな程度?
 ええ、全くそうですとも。
 そんな程度のことすら、貴女は出来ないで俺を裏切ったのですから。
 この一週間、どんなに、苦しい思いをしたのか。
 ……何も言わないから、生きた心地すらしなかった」
「殺されると言われて素直に自首できるかっ!」
忘れていたくせに、と乾いた唇が動くのが見えて、蘭の心臓がどきりと飛びはねる。すっかり見透かされていた。
「大佐、どのようにされたいのですか?
 貴女は約束を破った。それは事実です。
 ゆえに、代償を求めます」
 殺されるか。
 零武隊を辞めるか。
 手足を失って軍務を退くか。
 どれ一つして現実的な案ではない。自分が悪いとはわかっているものの今ひとつ素直になれない彼女は、仕方なく自分の希望を述べた。
「……零武隊は辞められぬ。死ぬまで無理だ。そして零武隊に居る以上手足は不可欠だ」
どれも採用したくない、ということを。
「しかし代償がないのは困ります。何度も繰り返されてしまうので」
暢気な困ったような口調で言うと同時に、双肩に全身がふらつきそうになるほどの重圧をかけた。彼の壮絶な怒りを感じ取って、蘭はようやく不味いと思ったのだろう、ばたばたと首を横に振る。
「わかった。
 悪かった、反省する。
 反省しているっ! もう、せん。約束は違えぬ。
 ……ああもう、判った! 謝ってやろう。それでいいだろうっ。お前との約束を忘れていたことは、悪かったっ。だからいい加減怒りを納めろ」
現朗が与える痛みに、とうとう彼女の肘が音をあげた。
 畳に倒れ込んだ彼女の上に覆いかぶさって、その手首を床に押さえつける。
 抵抗する気は無いのだろう、拘束された腕は少しも動かない。ただ、まっすぐな瞳で青年を穿つだけだ。だがその目はどこか反抗的。
 はぁぁ、と現朗は大仰に溜息をついた。
 何故素直に謝るという考えがどうして思い浮かばないのか。
 ―――まあ、それはそれで良いのだが。
「そうですか。反省してくれるのですね。わかりました。
 ―――では、勿論、確かめても宜しいですよね?」
「何をだ」
彼女は不貞腐れながら問い返す。
 が、次の答えは予想外だった。

「貴女が他の男に何も許してないか、その体に訊くのですよ」

 蘭の股座にぐいと下半身を押し付ける。
 文字通り目と鼻の先にある武人の顔が恐怖で強張った。彼女がこの手に関して弱いのは検証済みだ。途端に手が逃げようと動き出すが、もはやしっかりと現朗の掌が押さえ込んでいる。
 腹にたまった怒りと邪な野望とが入り混じって、男の全身にぞくぞくしたものが駆け巡る。
 表情はいつもの無表情のように思えたが―――彼女はそうだとばかり思っていたのだが―――ある情動がはっきりと読めた。性欲。彼は、そう、このやり返しがしたくて今日の今日まで堪えてきたのだ。
 男の心をようやく察して、顔を引き攣らせつつ強張った声で問いかけてみる。
「な、何をするって、あ、あの」
「判りやすく言えば、貴女を裸に剥いて全身を検分した後で生殖器に異常がないかどうかを反応を以って確かめさせて頂きます。
 ついでに、これ以上人に見られることのない体にしておきたいとも思っているんですよね。
 だって、しないんでしょう? 絶対に? 反省しているのでしょう?
 …………なら、構わないじゃないですか」
「……ええっと。
 その、夫婦間の信頼って大切だと思わないか? 確かめるとか、しないようにするとか、ほら、そういことをしなくても、信頼があれば大丈夫だぞ!」
「信頼を築くためにはそれなりの下地というものが。
 それに悪かったという言葉は謝罪ではありません。是非とも布団の上で本当の謝罪の仕方をご教授させて頂きます。
 では、そうですね。まず風呂場へ行きましょう、そこからですよ。
 年々歳々風呂同じうして気持ち同じからずという格言もありますし」
「なんだその格言っ!?
 むしろ反対の意味じゃないのかっ」
蘭の非難など清清しく無視して、現朗はそのまま彼女の腰と背に腕を回すと抱き起こした。どんな顔をして良いのかわらかない彼女は、口を真一文字に結んで上目遣いでこちらを見ている。その頬が真っ赤なのが現朗の劣情を刺激してやまない。
 うぅぅ、と低い声で唸る口元を、軽く舐める。
「……あんな約束、守れるものか、と思っているのでしょう?」
図星をさされて、一瞬彼女の息が詰まる。
 が、現朗は薄く笑うだけだ。
 そして少しだけ腕に力を籠めて、蘭を胸に抱き寄せた。
「きっと、わからないでしょうね。
 貴女の下で、共にこの国に忠義を尽くしたいと本気で思っているのです。しかし悔しいことに、この想いは激や真も多くの隊員が同じなので」
そこまで一気に吐露して、現朗は軽く一息つく。
「……なので」
 それから先は、まるで空気に溶けてしまいそうなほど小さな声で、黒髪に隠れた小さな耳に直接囁き入れた。


 こんな意味のない約束をすることくらいしか、貴女を縛る方法が思いつかないんです。


 ただ抱きしめて、その感触と香りを味わうことで、彼は十分に満たされていた。だが、もし今彼が腕を開いて、胸に隠した彼女の顔を見ていたならば、更なる幸福を味わうことが出来ただろう。まるで焚き火に炙られた鉄器のように、真っ赤に火照っていた。
 数分の空白。
「……ひきょう……だ」
と、蘭がようやく言えたのはそんな言葉。
 言うと同時に彼女は強く男を押して、その緩やかな束縛から逃れるとさっと立ち上がってしまう。明後日の方向を向いて、絶対に顔を見せないようにするのに必死だ。
「申し訳御座いません」
「謝るなっ」
「了解しました」
まるで早鐘のように打ち付ける心臓。
 ったく、と内心舌打ちをする。

 こんなことならば、立て無くなるまで殴ってくれた方が何倍もマシだった。いっそ腕をもいでくれた方が。殺してくれた方が良かったのかもしれない。
 彼女は、今、生まれて初めて、ある種の情動が体の底から湧き起こってくることを知った。
 それは罪深き感情。だが、どうしようもない激情。
 言葉にしてしまえば陳腐なそれが、本当に存在するなんて思っていなかった。
 正直、蘭にとっては、己にこの感情があることが怖くてしょうがない。
 怖いけれども、もうどうしようもない。

 胸の高鳴り。
 顔の火照り。
 そして、彼の顔を見たいのに見たくないと相反するまとまらない思考。

 ―――どれをとっても、もはや己の意思ではどうにもならないのだ。
「……蘭さん」
現朗が名を呼ぶ。
 と、反射的に振り返ってしまう。
 振り返った後に、しまったと後悔の念が湧いてきた。
 が、遅い。もう見てしまった。
 天女すらも戸惑わせると評判の美貌。今まで、それはある種の客観的な評価として受け取っていた。だが今は、本気で自分自身が惑わされている。
 美しいからではない。
 ……その顔が、現朗だからだ。
「愛しています」



 ……ああもう、こいつ、私を何度殺せば気が済むのだっ!