あなたと それではまるで 世界を一瞬で変えた、その
       沈みかけた 手が触れるたび 屈み込んで 空の雲を手で掴むには
       ああとても 開いた扉の 夢の中の住人は君に
 ・・・  世界を一瞬で変えた、その  ・・・ 


 休憩室に戻ると、珍しく激と毒丸とが昼飯をとっていた。
「お? 現朗」
「……お前がここに居るのは珍しいな。弁当か?」
「ああ。今朝、毒丸と作ったんだよ」
普段専ら外食で済ませる二人が弁当を並んでつついている。ご飯の上に鮭がのっただけの、あまりにも簡素なメニューだ。二人が弁当を作る理由は容易に想像がついた。
「また金がなくなったのか。
 いい加減貯蓄に回せ」
「ふんっ! 現朗ちゃんなんかに分かるかよっ。減棒の苦しみがっ。俺もー六ヶ月減棒だもん」
毒丸はがつがつとご飯を口に入れて咀嚼する。
 ははは、と現朗は笑った。
「………………。
 そうでなくてはお前はまた他の師団と揉め事を起こすのだろう?」
顔は笑顔だが怒っていることは明白だ。
 激は別に今減棒処分というわけではないから、毒丸に付き合って弁当にしてあげたのだろう。優しい男だ。
 現朗は休憩室の奥にある急須置場からカップにお茶を注ぎ、それを持ってきて二人の横に座った。ゆっくりその味を楽しむ。お茶の葉も良いし、昼時は多くの隊員が利用するので鉄男が丁寧にお茶を淹れておいてくれるのだ。
 昼休み、広い休憩室には多くの隊員たちが居た。勿論それは給料が足りなくて弁当になった者だけではなく、真のようにそもそも弁当派の人間もいる。現朗も実は弁当派なのだが、蘭が外食を好むので作らないだけだ。もっとも妻は外食が好きというよりは、昼に酒を飲むのが好きならしい。
 ……ったく。
 丸木戸に頼んで調べてもらったところ、やはり彼女は酒に依存する傾向があるようだ。先ほどもらった診察結果を思い出しながら薄い陶器に再び口をつける。本人に注意すれば、どうせ勝手に教授を使ったことを怒って論点をすり替えるだろう。
「現朗ちゃん、食事は?」
「もう食べた」
心配事に半分気を取られながら、即答した。それは嘘だったが彼らに細々と説明する必要はない。
「あのさ。ちょっと訊きたいんだけど」
「なんだ」
気のない返事が返ってきた。毒丸は弁当を食べ終わり、蓋をしながら何気ない口調で言った。

「大佐って『愛している』とか『好き』とか言うの?」

 ―――毒丸は軽い質問をしたつもりだった。軽い、ありがちな、まるで今日の天気かなにかを聞くような質問のつもりだった。
 が、周囲の反応は彼の想定を見事に超越していた。
 現朗はカップを口につけたままで硬直し、激は目を見開き、他の隊員たちは駿足で回りに集まってきて、興味津々と言う目で聞き耳を立ている。
 一人毒丸だけが、その周囲の興奮に取り残されて、おろおろしながら頭をめぐらせた。何故いきなり集まる?
「普通に考えたら絶対言わないよな」
「いや案外言うかもしれん」
「あれはあれで独占欲強いしな」
「どういうのだろう。一応元人妻なわけだし」
現在も進行形で人妻なのだが、固まった現朗には聞こえない。彼の返答を期待して周囲は小声で熱の篭った議論をしていた。
 目に見えて意識が飛んでいる彼を、親友の激が揺すってなんとか起こした。金髪ははっと気づくと、荒い息を肩でついた。いつの間にやら呼吸まで止めていたらしい。非常に心臓に悪い。
 毒丸の方へ向き直ると、血の気のない顔で言った。
「…………一応誤解のないように言っておくが、そのような発言はないからな」
「そっかぁ」
と、残念そうな青年の声とともに、他の全員がため息をつく。
 何を期待していたのだろう。
「じゃあ婚約の言葉はどうしたの?」
どうしたのも何もない。
「俺が言ったに決まっているだろう」
なんで女性から言うのだ、と現朗が不満げに言ったが、毒丸は「参考になんねーや」とぼやく。
 ……俺も大佐からしたんだと思ってた。
 と、激はその言葉をなんとか飲み込む。
「毎日貴様の味噌汁が飲みたい、とか言ったと思ってたぜ」
「一生離れないで、なんかいいなー。可愛くて」
「いやー。大佐なら、私の背中を任せられるのはお前だけだ、とか言うんじゃねえの。やっぱし」
「漢らしー」
周囲が口々に言っているのが聞こえるのに一言ずつつっこみを入れたい気持ちを堪えて、現朗は急いで手元のカップを飲み干した。ここに居ると揶揄われるのは必至だ。彼等が、さて新婚に何か言ってやろうと盛り上がったときには、その対象は綺麗さっぱりその場から消えていた。



 蘭は執務室で資料に目を通していた。
 よし、仕事をしている。
 と、現朗は安堵する。扉を開けるときはいつもはらはらしているのだ。
「大佐。帝都第一師団から調査書が届きました」
「わかった。こちらの資料は全て目を通して判を押している。後で元帥府へ届けてくれ。
 ……と、そうだ」
にたり、と唇を引き攣らせて蘭はちょいちょいと手のひらを上にして、指で彼に近くに来るよう指示した。
 首をかしげながら机の前まで来ると、もっと来い、と小さな声で命令される。
「失礼します」
言われるままに顔を近づけた。
 蘭も顔をそっと近づける。
 息のかかるような距離で、赤い、形の良いその唇が動いた。
「……私はお前に確かにそういう言葉はいってなかったな」
そういう―――というのが、休憩室の会話であることは直ぐに理解できた。
 いつの間に聞いていたのだろう。
 驚く現朗をよそに、彼女は低音で囁く。
「お前が私に言った言葉を覚えているか?」
そりゃまあ、と答える。一週間以上練習した言葉が言えず、出たのは―――
「結納しますよ」
と、事務的にいきなり前触れもなく言ったら蘭が当然ながらキレた。そのまま喧嘩状態だったが蘭の両親がきてしまったので有耶無耶のうちに段取りが決まった気がする。あれは後悔の塊だ。
「……緊張していたのです。あんな言葉が出るとは思ってませんでした」
秀麗な顔が悔しそうに歪む。くくく、と蘭は喉で笑った。
「あんな命令口調が、お前が私に言えるとは思っていなかったぞ」
「生涯言いたくありません」
「そんなに後悔するな。いい思い出だ。それで、まあ、その……返事がきちんとできなかったからな。返事の代わりに、私からも言わせてもらおうか。
 聞け」
わざと耳に息をかけ注意を促す。
 びくっと現朗の体が震えた。

「私は、お前と一苦労してみたい」

蘭も照れくさいのか、その至近距離で一瞬視線を逸らした。
「ははは……。
 愛しているとか、好きだとか、いつまでも一緒に居たいとか言ったら嘘臭いだろう? だから……まあこんな言葉にしてみたんだが……やはりちょっと……」
と、目を戻すと。
 ん? と蘭が顔を顰めて、そしてそれが嫌悪で固まる。
 がたがたっと机から身を離した。
 秀麗な男の、その、形の良い鼻から、どぼどぼと二本の血が垂れている。
 しかも血の気の多い零武隊の隊員だけあって血の量が半端ではない。勢いも凄い。まるで土管を壊したような水勢に、蘭ですら「本当にこいつ人間かっ!?」という顔で遠くから眺めている。
 机も書類も全てが血に染まっていた。机の上に表面張力で盛り上がった一センチほどの血の塊。
「も、申し訳ございませ……」
話す度にぼたぼたと更に追加される。
 流石に、流石に彼の顔も少し血の気がなくなっていた。
「話すな。動くな。頼むから。
 ……ええと、教授を呼んでくる。そ、そのままで居ろ」
 ……良かった。私から言っていたら、両親が反対していた……気がする。
 とかなんとか蘭が心の片隅で思いながら部屋から出て行く。
 現朗は生まれて始めて、貧血という名で病院に運ばれたのだった。