鬼子母神編 教授編 狸編 隊員編・1 隊員編・2

      同性愛編 隊員編弐 解決・1 解決・2
 ・・・  懊悩と解決  ・・・ 


 丸木戸教授が夜遅くに仕事を持ち込んだので、夜遅くになって帰れない羽目に陥った。
 研究生活が続いて昼夜が完全逆転していた男はいいが、さすがに最後まで付き合わされた蘭は疲れていた。さらに最近、ちょっとした……いや、かなりの大問題が発見されて以来憔悴気味である。
 仕事も一段落つき、明日までの展望がなんとか見えると、二人はどちらからともなく休憩を提案した。
「……教授。質問と頼みごとをしてもいいか?」
「へ?
 なんですか。不気味にしおらしい」
珈琲を淹れながら振り返った男の軽口は、とりあえず真横に合った椅子を破壊してやることで止める。粉砕した椅子の屑は明日隊員の誰かに掃除させればいい。
「君は、いつから子供の出来る過程を知った?」
普段返答の早い彼にしては、珍しく何も言わずに背をむける。
 見れば、厭らしい笑みを口元に湛えながら湯を注いでいる。一人思い出すようにぶつぶつ独白しているところをみるに、何か思い出すことでもあるのだろうか。
 香りが部屋に充満した。数分後、珈琲カップを二つ手に持って戻ってきた頃にやっと返事が返ってきた。
「五歳ですね。
 子供がどう生まれるかは四歳には知ってましたよ。卵子と精子のレベルから。
 ただそれ以上のことは、うちの病院の患者が、看護婦とヨロシクやっているところを見た時に。どーやって受精するのか。そういえば懐かしい記憶です」
「ああ。君は医者の子だったな」
珈琲に口をつけながら、思い出す。あまりに付き合いが長くてすっかり忘れていた事実だ。まろやかなモカの味は嫌いではないが、今はキリマンジャロ系が飲みたい。
「……ちっ。それじゃあ参考にも解決にもならん」
「なんでいきなり人の生い立ちに文句つけるんですか。
 そういう大佐は?」
「正確な年齢は覚えていないが、十歳の頃までには薄々わかっていた気がする。十二歳には猥本も何冊も読んでいたからな」
「へー。そりゃ早熟で」
「嫌味なら流してもいいが、自慢なら切り捨てるぞ」
くっくっくっ、と彼が喉で哂う。
 深夜二時を越えた軍の研究室は、わずかな機械音が聞こえる以外静かなものだ。丸木戸の研究室は一見駄々広く何もないが、隣の部屋にさまざまな装置を詰め込んでいる。この何もない部屋は、蘭のために空けさせられたのだ。高い天井の下には赤い絨毯、そして彼女専用の机と椅子。その机の前に今回ようやく発明された装置が置かれている。普段は邪魔な部屋だが、このような時は便利だ。
 丸木戸は眼鏡をかけなおした。
「で。
 こんな夜更けにその話題をふった理由は、天馬君、ですか?」
蘭が沈黙したのを見て取ると、ごくりと珈琲を飲み干す。
 日明 天馬。
 もう、十三か四になったはずだ。
 あどけない少年もそろそろ思春という名の発情期に一歩足を踏み入れてもいい頃だろう。それに彼には許婚も決まっている。知識ばかりで実践を伴わない自分よりも、男女関係に関してはずっと早熟なはずだ。
「まぁさぁか。菊理姫となんかあったんですかぁ?」
にやにやと尋ねてみると、椅子に座る軍人の眉間に深い皺が二本刻まれた。

 おいおい。まじかよ。

 少し心の中で丸木戸は驚く。あの少年に限ってそんなすすんだことまでは出来そうに無いのだが。
「……それを調べて欲しい。
 君は自白剤も使えるだろう?」
びくっと彼の背筋が凍って、思わずカップを落としそうになった。とりあえず机にカップを置く。
 自白剤。
 それほど人の心を無視した、残酷な手段は無い。そんなものを果たして息子に使う必要があるのだろうか。尋ねれば素直に言うかもしれないのに。嘘を言う子ではない。よほどの事情の無い限り。
「……その無理やりな手段はどうかと思いますけどね。精神に傷が残るかもしれない。重大な、それこそ一生ものの。
 天馬君がそういうことをしているのか、興味があるのか、そういうことはきちんと手順を踏んで訊くのが親の責任でしょう? あなたが訊きにくいなら、僕が訊きます。
 それにねぇ。
 菊理姫と天馬君とは一応婚約者ですし、婚前交渉ってのも世間では結構認められているんですよ? そんなに完全否定しちゃ、男として一生傷が残ります。あなたが思っているほど男の性欲は強くないんですっ。デリケートなんですよ」
必死に天馬をかばう言葉を聞いて、沈痛な面持ちで蘭は首をかぶりふった。
 そういう悩みだったら、どれだけいいだろう。
 刀と拳で黙らせることができるのに。それなら、いくらか対処方法があるというのに。
「……違うんだ」
「何が違うんですかっ。あんたねぇ、少しは天馬君の気持ちを考えたことってのはあるんですか……」
延々と繋がりそうな丸木戸の愚痴を、珍しく蘭は最後まで聞いた。
 それはあまりに珍しくて、十分過ぎた頃、流石の男も不思議そうな顔をして見つめてきた。
 珈琲の香りだけが時を刻み、沈黙が支配する夜の静寂。鳥の声も何も聞こえない虚空の月が、柔らかな光を注ぐ。
 ようやく静かになって―――というより、それを話すべきかどうか決心するのに時間がかかっていただけなのだが―――目を伏せたまま彼女が口を開いた。

「天馬が、本当に……婚前交渉のやり方をしっているかどうか……そこを調べてもらいたいのだ」

「はぁ?」
「……実行したかどうか、というのも大問題だが。
 大問題だが。それも。
 だが、もっと……もっとそれ以前に、間違った知識があるのも困る」
ふっ、と寂しげな笑みを浮かべて中空を眺める。月を見る遠い視線。何かを思い出すその表情は、普段の彼女からは想像もつかない顔だ。
「はあ」
何か拍子抜けして、彼は思わず首を縦に振っていた。



 一週間後会った丸木戸の顔は優れなかった。その顔を見るだけで、軍人は肩を落とし俯く。書類を現朗にまわしたり、激をつかったりしてなかなか会いたがらないので、予想はしていたが。
 会いたがらない男に会うため、彼女は時間を無理して就業時間中に第三研究室まで来た。
 数分の沈黙後、丸木戸は踵を返して自分の机にもどり、一つの大型封筒を持って手渡した。

「……あの。
 穢れなき少年少女、ってことで」

数枚のカルテ。
 冒頭部分の大きな文字の記載をみると、弱いながらも薬をつかったようだ。
 ということは、つまり……科学的に裏づけがとれてしまった。
「じゃあ僕はそういうことですから……」
といいながらダッシュで去ろうとする男の肩を、逃すまいと引っつかむ。
「なんとかならんのかっ!」
「無・理・で・すっ」
ぶるぶるぶるっと首と手を振り、鬼の形相に向かってめずらしく反抗的な意見を述べた。そこは科学者として譲れない。白いものは白いし、黒いものは黒い。可能性があるのと全くないとは、雲泥なほどに異なるのだ。
 ぐっと握られている手に力が籠もるが、それでも挫けない。
「本気で信じてるんですよっ。疑問も躊躇いもなくっ!
 しかも天馬君と瑠璃男にいたっては、子供がお母さんから生まれるんじゃなくてコウノトリが運んでくるとか思い込んでますからっ。妊婦さんって単語知らないしっ。
 あんた、どーゆー教育してたんですか。
 この駄目親っ! 教育放棄ママっ!」
思わず出た一言に天井近くまで蹴り上げられ、そして床に失墜する。
 さすがに悪いと思ったのか、落ちてくるところを軽く手で直されて見事な着地ができた。が、足から響く疼痛がなくなるわけではない。
 ぜえぜえと息をはく男に、一縷の望みを託して蘭は尋ねる。
「瑠璃男と愚息は……ということは、姫と帝月は……」
「いや。そっちは……あの、ちょっと」
「自白剤を無断使用したのだろうっ! 報告しろっ」
「……あんたが使わせたくせに。
 てゆーか。いや、あの詳細は嫌なんで、録音したやつがそこにあるから自分できいてください」
「私は報告しろ、といっているのだ丸木戸くん」
すらりと刀を抜いて、頬にぴたりとくっつける。
 白刃の冷たい感触は慣れていても怖い。
「お、お、大雑把にいうと、ですね。
 大雑把ですよ。あんた絶対自分でききなさいよ?
 冥府のものに近い、げじぇろってしたものが、妊婦の体の中に入り込んで、そして腹が膨れる……とかいうすげぇ禍禍しい思い込み……ですよ。
 それが真夏の怪談よりもリアルで気色悪い話で……」
突然。
 がふっ、と血を吐く。
 言葉と行動に脈絡は全くないが、その血で濡れた手を見ながら、教授はあるひとつの教訓をいきなり得た。頓悟した。唐突に。
「丸木戸くんっ!?」
 ……自白剤って、使った方も心に深い傷を負うこともあるんだなぁ。
 ビバ★ 人生。さよなら☆ 青春。
「おいっ、このくらいの蹴りなんでもないだろっ。天井にもあたってないし、床にも落ちてないし、鼻血も吹いていない。というか、気絶したふりとかすると本気で斬るぞ。今の瞬間は冗談ではすまんぞ。
 起きろ、てゆーかなんでもいいから起きろぉぉ―――っ」
混濁した意識の最後に見たものは、必死に焦るという―――非常に稀な―――上官の顔。
 その後三日間、丸木戸は有給を使って青春をとりもどす旅に出たという。