・・・  這えば立て、立てば歩めの親心  8  ・・・ 


 父親と母親とが楽しげに話していた。
 それを障子越しに、暗い部屋から幼い姿の自分が覗いていた。
 そして今の自分は、もう一つ障子を挟んでその後ろ姿を見ていた。つまり、現朗の目の前には二つの部屋があり、一つには自分が、さらに奥には父と母がいた。
 か細い腕に、か細い足。身を包んでいるのは藍色の着物。帯は母の着物の余りのはぎれを使った、可愛いらしい花柄だ。子供の着物にしては高級だが、よく似合っていた。息子のために、夜業して母が作ったものだ。
 幼子は振り返って自分を見た。
 不思議がっているのか、それとも怯えているのか、彼はそのままで固まっている。現朗も目がそらせない。その子供がどんな感情を抱いているのか、現朗にはわからなかった。

 顔が、見えないからだ。

 少年の頭は麻でできた袋にすっぽりと包まれ、首のところをしっかり閉じられている。大人ならば外せるだろうが、少年の小さな手ではそれを鋏で切らずに外すことは難しい。麻の小さな目が、少年の視界だった。それがすべてだった頃を現朗は思い出す。
 しばらくして、彼は前に向き直ると、両親の下へ駆けていった。二人は我が子がくると嬉しそうに抱き上げた。そして何ごとか話しかけている。三人の笑い声が唱和した。
 母も父も、愛してくれた。
 だが、どちらにも似ない子供の存在を、受け入れることが出来ないだけで。
 金髪も。
      白い肌も。
            目立ち過ぎる顔も。
 どれも、二人とも似ていない。目が黒くなければ、異人の子にすら思える。
 二人は深く愛し合っていたから、他人の子供を妻が孕んだという可能性は認めなかった(もっとも教授の話によればそれは隔世遺伝という例外であるということだが)。
 現朗と名前を与えて、呼んでくれて、抱き締めてくれた。
 その温もりに嘘はない―――と、思いたい。日明大佐がぼこぼこに両親を殴ったときは、現朗自身が彼女を止めようと必死に抵抗したのだから。
 成人した現朗は、膝を上げる。
 今までこの部屋から出ることはできなかった。
 あの温かな風景をずっと見ていたかったのだが、今は、もういらない。
 振り返る、と、そこの障子は開いていた。
 自分を見ている者が居た。―――彼もまた自分だ。
 一歩を踏み出す。
 彼は、手を差しのばしていた。微笑んでいた。


 ……目が覚めた。
「起きろよぉっ……つーかもう、本当に起きないとやばいからっ。放してくれよぉぉぉ。人がきたらどーすんだよぉう」
か細い声が耳元で聞こえる。
 現朗は鬱陶しいと思いながら腕をきつく抱き締めた。それは致命的な一撃を激に与える。怪我をしているところを上から押さえた上に、激の顔を胸に押し付けたのだ。顔が酸欠で赤くなる。じたばたじたばともがくたびに、寝台がぎしぎしと軋む。
「本当、ほんと起きろよぉお」
激の哀願もむなしく、勢いよく医務室の扉が開いた。

「おっはよーございます。教授、朝の掃除に来まし…………」

元気な声とともに入ってきたのは二人の隊員。
 その明るく朗らかな軍人声に、お眠な現朗も目が覚める。
 二人の男は寝台の上の様子を見たまま思いっきり硬直していた。
「……早いな」
太陽の明るさになれない現朗は眩しそうに瞬かせて、一言。
「あっ! は、はいっ!」
寝台にいる男たちが白服だと気がついた一人が、あわてて敬礼をする。
 いくら異常事態には慣れている零武隊の隊員であっても、まさか掃除に来た部屋で白服二人がくんずほぐれずしているなんて思いも寄らなかったのだ。
「一時間後に支度をして出る」
言うだけ言うと、再び現朗は目を閉じる。心地のよい寝息が激の耳元に聞こえた。
 必死にその戒めから逃れようとして、全身を動かす激。ある程度自由になると、すぐに振り返った。
 部下たちに言い訳をするために。
 ―――が。  そこに、男たちの姿はなかった。激の顔が一気に青褪めた。
 逃げ去るように出て行った隊員たちの口から漏れた噂の伝達速度は、音速を超えたという。

 *****

 日明大佐の苛つきは最絶頂に達してきた。
 目の前には白服の二人が立っている。しょぼんと肩を落としている逆毛頭、堂々と立っている金髪頭。
「…………呼ばれた理由は、わかっているな」
『はっ』
返事だけは威勢がよい。
 それが、なぜだか異様に腹が立つ。
「だったら私に言うことがあるだろうがぁぁぁ―――っ!」
振り上げた拳が机をたたきつける。
 二人は思わず目を瞑った。腹の底を揺るがすような壮絶な音。破壊された机から飛んだ破片のいくつかがあったって、頬に痛みが走る。
 机が……っ。
 と、目を開いた激は目の前の光景が信じられなくて、胸中で絶叫した。
 蘭の手で、特別厚い樫の板に穴が開いたのだ。板だから割れるのは……まあ自然の摂理としてもいいが、拳で穴をあけるとはどういう怪力だ。
「……申し訳ございません」
現朗が口を開いた。
 はっと激は振り返った。
 まさか、まさか、一人で罪をかぶってくれるのか―――ラッキー、ありがと、愛してるぜサンクスぅぅ。
 ぎろり、と蘭の鯨でも殺せんるんじゃないか的な鋭い眼光が男へ向かう。だが、耐久性があるのだろう、金髪は堂々と見返した。
「報告が遅くなってしまいました」
「ほう。で?」

「激を私に下さい」

がばっと、頭を下げる。軍で教えられる敬礼ではなく、もっと深く、九十度も体を曲げている。だが激はその態度より、その言葉のほうが驚いた。
「遊びのつもりではありません。真剣に付き合うことを前提とした行動です。ご報告の順序を誤った失態は、いくらでもお詫びします。ですがこの気持ちに嘘と偽りはありません。
 どうか、大佐、お認め下さい。お願いいたしますっ」
誠意溢れた言葉だが、言葉の意味はわけがわからない。
 ぱくぱくと餌を欲する鯉のように、唇を動かす激。
 驚きがあまりにすごくて、言葉がまとまらない。

「よーし、よく言ったっ!」

蘭は朗らかな笑みを浮かべながら、大声で宣言した。
 現朗はようやく頭を上げる。その目はきらきらと今までないくらいに輝いている。お前そんな表情出来んだ……と激は今までの流れとまったく無関係に心の片隅でツッコんでしまう。
「では激とのことは認めていただけると」
「うむ。好きにしろ」
言い終わるが否や、彼女の興味は仕事に移ってしまった。手元の書類を読み始めながら、片手でひょいひょいと振って合図する。仕事にもどれ、ということだ。現朗は再び一礼して激をつれて出て行った。

 ……いや、だから、好きにしろって……

 と彼が思ったかはわからない。
 だが、鼻歌でもあげそうな爽快な笑顔を浮かべる白服に首筋をつかまれて廊下を連行される激の呆けた顔は、その後語り草になる程だったという。