・・・  這えば立て、立てば歩めの親心  5  ・・・ 


 一日五軒回るので、毎日負けが五つずつ溜まった。
 なのに、律義にも、激は自分の負け分を寮の食堂に貼った張り紙にこまやかに書いていた。軍人が夜な夜な歓楽街に繰り出すのは本当は良くないのだが、零武隊の幹部二人がしている以上誰も文句は言い出せず、結局激が諦めるまで勝負は続きそうだった。
 その前に店がなくなるんじゃないだろうか。
 ―――それならそれでもいいと思いながら、現朗は清々しい気持ちで朝食を口に運んでいる。温かい麦飯をよく咀嚼し、アゴ出汁の味噌汁をすする。ジャガ芋とワカメは味噌汁の具には最高の相性だと思う。
 その目の前で、激は朝から不機嫌だった。眉間に皺を寄せ、がつがつと卵丼を食べている。食べ方は荒いが作法はきちんとしているのは、育ちが良いのを示していた。
 不機嫌な原因は現朗にも分かっていた。だがそれを考えると口元が緩んでしまいそうなので、今朝の食卓という全く関係ないことを考えて必死で自分を抑えている。
「激さん。おはようございます」
二人の机によってきたのは、部下の一人だった。
「はよー」
「今朝は卵丼ですか? 納豆もあったのに」
「いいんだよ二日酔いだから。
 そういやお前さ、新橋と新宿以外の歓楽街っつったらどこがあるか知ってる? 出来れば安めで」
「………まだやっていたんですか。もういい加減諦めて下さいよー」
「なんでだよっ!?」
激はくわっと目を剥いて怒りだす。
 だって……と男は口ごもりながら勝敗表という名のそれに目を向けた。現朗という名前の下に正の文字が二十個並んでいる。

「百敗。ですよね」

一番指摘してはならないことを思い切り突く。
 現朗が軽く味噌汁を噴出しかけたのを、二人は気づかない。
 昨日で、二人の争いは二十日目の突入した。
 ―――つまり、百連敗。あまりに不名誉な記録が樹立されたのである。
「この後二百勝ちするかもしれねえじゃんっ!」
ばんっと机をたたいて、椀の味噌汁が揺れる。

 無茶な。

 ―――食堂にいた全員の心の声が唱和する。
 一枚岩ではなく個性豊か過ぎる零武隊の隊員達にしては珍しく、全員の意見が一致していた。

 激が勝てるワケがない。

 そのため賭けを開こうにも誰も胴元にならず、生暖かい目で彼が諦めるのを見守っているのだ。
 日本人離れした金髪の容姿、透き通った白い肌、切れ長の目。眉目秀麗の四字がこれほど相応しい男はいないだろう。掛け値なしの美人、というのは彼を表現するにぴったりだ。
 老若男女の誰もが、現朗は美しいと思う。
 しかも評価をするのは一番美形に煩い年齢の女性。別に激が相手でなかったとしても現朗に顔で勝つのは無理だろう。
 激の表情や性格は愛嬌はあるが、美しいわけではない。
「まあその可能性はないわけじゃないんでしょうけどね」
嘘も方便と思いながら、彼は苦笑しつつ相槌をうった。
 部下たちとしても、あまり二人が遊びすぎて日明大佐の怒りが隊全体に来たら困る。百勝負目という区切りに辞めてもらおうと、隊を代表して進言しに来たのだ。
「でも、後二百回も勝負できますかぁ?
 そろそろこの夜遊びも大佐の耳にも入るだろうし、それに連日じゃ財布の方も……ねえ?」
図星をさされて、上官二人はおもいっきり顔を歪めた。
 何も注文しないのは心苦しいと現朗に提案されて、仕方なく一店当たり一杯だけ飲むようにした。水商売は名の通り飲料を売って稼ぐ店だ。席料も合わせれば、一杯はそれなりの値段となる。
 五軒も連日回っていれば二人の給料が底をつくのは当たり前の話だった。
 だんだんとしょぼくなっていく二人の昼食を見ながら、周囲はずっと胸を痛めていたのである。激が食堂からもらった梅干しにお湯をかけたスープで昼飯を済ませようとしたときは、見兼ねた一人がおかずを分けたこともあった。鮭ひとつえ小躍りして笑顔を向ける上官のあまりの愛らしさに、一瞬道を踏み誤りそうになったがそれは別の話。
「確かに、今月の給料が殆どなくなった。
 出来れば、俺も時期をあけて欲しいのだが」
現朗も口を挟む。
「ほら。そうでしょー」
かたん、と激が食べていた茶碗を置く。

「……嫌だよ」

その余りの冷たい声に、二人は弾かれたように振り返り、そして、同時に息を飲む。
 真っ黒な男の瞳には、二人を黙らせるだけの気迫があった。
 ごくりと部下は生唾を飲む。激と武器を持って対峙したことがない彼には、免疫がなかった。侮っていたのではなく、考えたことがなかったのだ。
 ―――この男も立派な殺人者であることを。
 激は食べかけの食器を重ねると、『いつもの顔』に戻って顔をあげた。
「だって今やめたら、一回も勝ってねえじゃん。恥ずかしいぜ。
 もうちょっとだけ。悪ぃのわかってるけど、な、頼むから。直ぐにやめるからよ。
 今日以降からは俺が会計もつからさーなー」
人懐こい表情で、ばちっとウインクをかます。
 冷たい空気が霧散していた。部下は安堵の息をつくと、すぐにまたいつもの調子で上官を揶揄し始める。劇は顔を百面相のように刻一刻と変えて、低いく明るい笑い声が食堂に響く。
 朝の、いつもの風景。

 ―――今見たのは、なんだ?

 だが、現朗は、和やかな空気に騙されることなく、自問していた。
 笑顔の下に隠された青年の闇がようやく掴めそうな気がした。