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さらに十日という時間が流れ過ぎた。 「もう、止そう」 現朗がそう切り出したのは、激が今夜のためにはりきってお叫びを上げた直後だった。五時に零武隊の仕事は終わり、エリート組の残業が終わったのはさらに二時間が経過した。外はすっかり暗くなっていた。 刀が戻った後でも、夜は例の勝負のためにいつも二人きりだった。 「え……。どこか具合悪ぃの?」 振り返って、不思議そうにぱちくりと目を瞬かせている。現朗は冷たい目で見返した。 「いや。金の問題だ」 返事は淡々としたものだった。 激はその言葉に苦笑いを浮かべる。 いくつかの残業組―――主に研究者と大佐―――の部屋の光が漏れて、訓練場はさほど暗くない。陰影がきつかったゆえに、その笑顔は笑顔に見えなかった。現朗には同僚の笑みは歪んだものに思えた。 「だぁかぁらぁ、俺が出すから心配すんなって」 なぁ? と言って馴々しく肩を抱く手を掴んで払う。少しばかり強気な態度に正直ちょっとだけ困惑した。最近はこんなことはなかったから。 同僚が戸惑っているのは知っていたが、それを気にしないで、現朗はポケットを探り、一枚の紙を出す。丁寧に折り畳んだそれを、髪の前でゆっくりと開いて、突き出した。 ―――借用書、の三文字が上に載っている。 ひきき、と激の表情筋が僅かに引きつる。 「帝都質屋。 あそこの暗い噂を、お前が知らないはずもないだろう?」 心の動揺を押し隠して、彼は不敵な笑みを浮かべた。 「おいおい。勝ち逃げはよくねーぜ。 そんなこと、どうでもいいじゃん。ちゃんと返せるからさー。 別に給料がなくなるわけじゃねえし」 「いや、なくなるんだ」 さらりとまぜっかえされて、おもわず激が目を見張る。その間に現朗は、ぱたぱたと元通り丁寧に紙を畳んでもとの場所にしまい込む。 「日明大佐から今朝この書類を受け取った。 伝言だ。これを立て替えておいてやったから、来年までお前の給料は出ないとおもえ、だそうだ」 「でぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」 日明大佐。 ―――その言葉はとにかく強烈だ。心臓に悪いどころではない。 激脳内に一瞬で、長髪を垂らして笑いながら白刃を煌かせる女の姿が浮かんだ。 そのあまりの映像に、全身が戦慄く。怖い。怖い。本当に怖い。 が、彼は諦めなかった。 「……あ、あの、あのさ。凄ぇ頼みだってことはわかっているんだけど……… 来年返すから金貸してくれない……?」 「無理だ」 駄目だ、ではなく、無理と言った。現朗も正直懐は寒いどころの騒ぎではないのだ。すでに十日前の時点で貯蓄は底をついている。靴下一枚買う事すら躊躇している。 その返答に、激はかくんと肩を落とす。逆毛が情けなく項垂れた。 「じゃあツケがきく店あるからさ、そこいこうか」 「黙れ」 「えー。なんでだよー」 なのに、彼は勝負を諦めない。 ……どうしても諦めないのだ。 「お前こそ。何故だ?」 言いながら、現朗は鋭い目を向けた。殺気すら感じるその目に、激は生唾を飲む。久々に彼のそんな目を見た。 「……勝負の途中じゃねえか」 「違う。もう終わった。終わったんだ」 「終わってねぇっ。まだ―――」 「女に好かれることが、何故それ程までに大事なのだ? 何も知らぬ他人に評価されて何が分かる? 顔だけで判断されて何が嬉しい?」 間をあけずに攻撃的に言葉を投げつけられる。その一つ一つが青年の心を抉った。 胸におかれた手が、服を握り締める。その皺が、彼の激情を物語っていた。 顔が曇り、言葉が消える。激は地面に視線を這わせて、唇を真一文字に閉じた。 陰影の濃い憂愁を帯びた顔。いったい何を思い出しているのだろうか。 現朗は思いながら、帯ごと刀をはずした。 がちゃん、と夜の闇に大きな音がして激は現実に引戻される。その間にも、現朗は手袋を外して投げ捨てた。釦を外しながら、低い声で言った。 「……俺は、日明大佐に引き取られて育てられた。彼女から全て教わった。 その教訓の一つだ。 ―――相手がわからない時は、拳で質問しろ、と」 ばさり、と上着を下に脱ぎ捨てた。 両手を軽く握り、右足を一歩手前に出して、拳を構える。全身の力を抜き、一見かなりリラックスしているようにも覚える。激はその型の意味を知っていた。攻撃的な型だ。 「拳で答えてくる相手ならば、必ずわかることが出来る、か。 ……日明大佐は昔道場に来て、面倒を見てくれた。俺にとっては兄弟子にあたる人だ。ま、知ってるかもしれねーけど」 激も棒を床に捨て、上着を脱いだ。 同じ型を作る。 現朗は返答はしなかった。 ―――その代わりに、彼の拳が唸りを上げた。 ***** 二人の男は、ただ只管に殴りあった。 虫の音が辺りを包みこむ。通り過ぎる冷ややかな風が彼等の頬を撫ぜる。 二人同時に地を蹴り、弾みを付ける。現朗の拳を避けつつ激が腹にいれる。しかし現朗もそれは予想済みで、一瞬遅れて左手の裏拳で彼の右頬を打ち抜いていた。 男の口から呻き声が漏れる。揃って、次の手に移れないほどの痛みが全身を駆け巡った。おもわず息が止まった。 互いの目が互いの瞳を捕らえる。 一拍。 大きく後ろにジャンプする激に、追い討ちをかけるために現朗は踏み出す。 激に現朗の拳が迫った。直ぐに両腕ガードして重い一撃を躱すが、疲れのため足元が縺れる。 ―――まずいっ。 思ったときには、遅い。 そのまま激は後ろに倒れこんだ。この大きな隙を見逃してやれるほどお人好しではない現朗は、足を大きく振りかぶる。迫ってくる軍靴の底を見ながら、命の危機すら覚えた。 「参ったぁあっつ!」 こうして。 しこたま頭を打ち付けた青年は、到頭大声で負けを宣言した。 しかし、踏み出した一歩を止めるのは非常に難しかったので――― 「むぐっ」 「すまんっ!」 しっかり現朗の足は激の頬に決まったのである。 |
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