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「安産で良かった。いつもの気迫があってなによりだ」 「男の子か? 女の子か?」 「それで、名前はどうなったのだ? 名付け親は?」 穏やかな空間の中で、一人の男の殺気が膨れ上がる。低気圧の中心にいるのは言うまでも無く日明、その人である。 今日は特別な日で、その特別な日を二人だけの思い出にしておきたかったというのに。このままでは元帥たちの優しさばかりが目立ち、記憶に残ってしまう。人というのは困ったもので、普段から惜しみなく与えられる優しさよりも、たまにしか与えられないものの方が貴重に見えてしまうのだ。 ほんの僅かの時間は、我慢をしていた。元帥に腹立てるのは今更のことだし、どうせ別の日に挨拶いったときにも同じようなことをするだろう。 だが、黒木がお守りを渡した瞬間から、全てが彼の抑制できる範囲を超えた。興奮からか、酒のせいからか、蘭が急に可愛い仕草を見せるようになったのだ。 日明は静かに立ち上がって輪から外れる。 「もう白菜はいいですよー」 「駄目じゃ。野菜もたっぷり食べんと、風邪をひいてしまうかもしれん。 楼」 「風邪はひきません。ひきませんから。野菜も普段から沢山食べますからぁー。 せっかくだからお肉食べましょうね。ね?」 「おお。人参も忘れておった」 とん。 ……と、とても静かに右肩に手が置かれた。 左にいる福島中将は、一生懸命自分のために鍋をよそってくれている。ほとんど野菜なのは酷いなぁとしまりない顔で思ったが、その意識すらも吹っ飛んだ。 研ぎ澄まされた殺気。勘の鋭すぎる三浦には、喉元に鎌をつきつけられたようにすら錯覚を覚える。 「ねえ、三浦中将。 あの状況何とかして下さいよ」 と、苛めっ子が命令する。 ……あんな盛り上がっている状況をどうしろと。 喉からでかかった言葉をなんとか押しとどめる。 三浦が固くなった首を無理やり回して見ると、黒木や元帥の周りには人だかりが出来ていて、次々に蘭にお祝いの言葉を述べている。男の子が生まれたこと、天馬という名前、病院の食事が少なかったこと、次々に話題に上がっている。席についているのは、もう三浦と福島、そして日明の三人だけだった。 「なんだ。出産されていたんですね。おめでとうございます。これから父親ですか。大変ですね」 歯切れ良くぱっぱと言ってみるが、日明は三浦相手には隠さず殺気をぶつけてきた。 「なんとかしろ、と言っているんですが」 話を逸らしてみよう作戦は失敗のようだ。 「いやぁ……その、まあ、すぐ飽きると思いますよ。皆さんお酒入ってますから」 「じゃあ『すぐ』に飽きなかったらなんとかしてくれますよね。 三浦中将」 「そういうことは…… あはははは。日明中将のほうがお得意じゃないですかねぇ?」 「陸軍非主流派を宣言する三浦中将の方が得意ですよ。おそらく。 それに」 「―――夜道で刺されたくないでしょう? そこの、ご老人が」 三浦ははっと右を見た。 福島中将は暢気に白菜をつめている。この老人もかなり酔っているらしく、三浦の皿に入れるだけでは飽き足らず他の皿にまで鍋の残りの具を詰め始めている。 やばい。敵はこっちに狙いを定めたかっ! 人の心を持たない悪人めっ! 三浦の心の中には八百の完全犯罪の方法が浮かび上がったが、それを一々検討している暇はない。すっくと立ち上がって、ぱんぱんと手を合わせた。 注目が集まる。 「あー。 あの、皆様、そろそろ鍋の用意も出来ましたし。 いただきませんかねぇ」 鍋が出来たとあっては仕方がない。言葉につられるまま、軍人たちは席に戻っていく。 蘭の横には相変わらず元帥がいて、二人でなにやら小声で話している。時折漏れる笑い声。日明は怒りを胸の奥底に押し込めて理性という名のパテで塗りたくった後、二人に近づいた。 「蘭さん。そろそろ戻ろうか?」 「日明。天馬という名を、褒められた」 にぱぁと屈託なく向けられる笑顔。 これが自分だけに向けられたものだったらどんなにいいだろう、と臍をかむ。 「これからは一人の親として責任ある行動をせねばならん。いつまでも子供のような態度をとってはいかんぞ。わかったな。 ……と、日明大佐。折角だから、儂からも手土産だ。 もう遅いかも知れぬが、また必要になるかもしれないからな」 ウキウキする蘭の手に、雄山元帥は軍服から財布を取り出して、その中から一房に束ねられているお守りを手渡した。五個か六個。かなり多い量だ。すべて別々の神社のものだったが、すべて同じ祈願のものだった。 「……ほう。縁結びの御守りではないですか?」 引き攣った声で答えたのは、日明だった。 顔は笑顔だが目は笑っていない。理性のパテなど薄すぎて一瞬で剥がれ落ちる。 にやり、と雄山は蘭に見えない角度で微笑んだ。 蘭は何故こんなにも沢山のお守りをくれるのかわからず、受け取った守り袋を眺めながら首をかしげている。確かに零武隊という職務柄、神仏に関する力がまったく無意味でないということは知っている。しかし、あんまり沢山の守り袋を持つのは逆によくないんじゃなかったかな、と酔っ払った頭で考えた。 「なに。縁起物だ。肌身離さず身に着けておいてくれよく効くらしいからな」 「あっはっはっはっはっは。 何言ってるんですか。とっくに良縁をいただいたのですからご利益に感謝して神社仏閣のどこかに奉納という名の廃棄処分しておきますよ」 「心配には及ばぬ。すべて今年買ったものだから、奉納は来年でよい。それと勿論買った神社で返納するのだよ。そして新しいお守りを買うのを怠るな」 「ええ。家内安全を買っておきますから」 「良縁祈願の間違いだろう」 金糸、銀糸、朱色、若草色。 見事な細工の施された、美しい裁縫の小袋。 綺麗だなぁ……。 水面下で宣戦布告もどきがなされている緊迫した状況とは、勿論当事者たる蘭はさっぱり気づかず、もらった御守りを嬉しそうに眺めて手で遊ぶ。 翌日勝手に外で食事したことが病院にばれてしこたま叱られたり、零武隊の隊員が押しかけて病院の一部を破壊し(修理のために)入院が伸びたりするのだが、今の彼女には知る由もなかった。 めでたし、めでたし。 |
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