・・・  危機好機 4  ・・・ 


 ずらりと並んだメンバーは、壮観だった。全員将軍クラス、陸軍の重鎮だ。
 まさか此処で顔をあわせるとはな。
 偶然とは皮肉な方にしか働かない、という箴言が思わず頭に浮かぶ。だが、それは、良い偶然は実力と思い込む人の性があるからだ、と訂正を加える。
 ばつが悪そうな顔を下げてくると、同僚たちは責めることなく快く迎えてくれた。どうやら、欠席を責めるつもりではなくたんに呼んだだけらしい。この分では蘭のことは気づいていないようだ。
 そうか。
 と、日明は納得する。蘭は軍内部でも目立つ存在だが、人々の脳裏に記憶されているのは軍服を纏った零武隊隊長の「日明大佐」なのだ。女性物の着物を着たり、長い髪を垂らしたりすればそれだけで、彼らの脳内にある日明大佐像と一致しない。だから気づいていないのだろう。
「これはこれは。まさかこのようなところで顔をあわせるとは」
「日明中将が欠席なさるから、今日の会議は進まなかったですぞ」
「申し訳ございません。
 子供は、初めてですので、どうも妻が心配で…………。
 病院に行った帰りに寄ったのですが、皆様は二次会でしょうか?」
いいながら、全員の顔を『視る』。
 元帥の表情も盗み取る。
 やはり蘭の存在を知覚している人間はいない。
「ああ。ここの店が旨いとの評判を聞いていて。それでは試してみようとの運びになった。さてどんな味なのやら」
日明は警戒を解いて、中将たちに迎合されるようないつもの表情を作り浮かべる。
 その瞬間を狙ったように。
 その声は、完全に日明の死角から発せられた。
「いや本当に旨いんですよね。
 日明大佐もずいぶんお気に入りじゃなかったですかい。日明中将?」
聞き覚えのある馴れ馴れしい声。反射的に日明は振り返る。
 どこか計り知れないにやついた笑みと目が合った。
 独特なストレートの長髪。素敵髭がよく似合っている陸軍軍人ビジュアルナンバーワン―――
 ……第三師団師団長の三浦中将。
 関東の陸軍会議の二次会には一番ありえなさそうな人物に、日明は純粋に驚き、そして警戒する。彼ならば日明の後ろ暗いことを発見しうる可能性がある。その可能性は僅かだが、無いと在るとの違いは大きい。
 何故、彼が―――。
 三浦は故意に軍の派閥争いにもほとんど巻き込まれない場所を常にキープしている。そのため、滅多に本拠地の名古屋から動かないし、またこういう酒の席にも現れない。
 だが、疑問は直ぐに溶解した。
 三浦の隣には第四師団の福島中将が顔を鼻まで赤くしてちょこんと座っていたのだ。昔からお世話になったという『触れ込み』で、彼は福島によく懐いている。
「楼ー。さて、何を呑もうかのう」
どうやら酔いすぎた老人を案じて、このような席までついてきたらしい。
「っちょ、もう、いい加減飲みすぎですよっ。福島中将はお茶にして下さい。
 後少しは腹に入れないと。だから鳥鍋屋に来たんですよ」
「もうお腹はいっぱいじゃ」
ぷいっとそっぽを向く。
 酔った時しか現れない子供っぽい仕草がいとおしくて、三浦はくすりと笑い言ってやった。
「どうせ茶漬けが欲しいっていうくせに〜」
三浦も、蘭に気づいた様子はない。運命はどうやらこちらの味方らしい、と日明は確信し、誰にも見えない角度で口角を引きつらせた。
 生暖かいやりとりを交わす中将の横に日明は腰を下ろす。

「相変わらずトテモトテモトテモ仲がよいですね。お二人は」

腹真っ黒な笑みを浮かべて三浦を見据えた。
 ひきき、とわずかに男の口端が引きつるのを見逃さない。
「三浦中将が帝都に来られるなんて珍しい。なんの裏工作ですか?」
「う、裏工作とは酷いなぁ。師団長ともあればたまには帝都に顔を見せに来ますよぉ。出不精の僕だって」
「あははは。出不精……ってどこがです?」
声は乾いた笑い声をあげるくせに、目はちっとも笑っていない。
 底知れない瞳の光。三浦の酔いはこの男と対峙した瞬間に一気に覚めてしまう。本能が危険を告げ、体は自然に戦闘モードになろうとしている。

 今日は久々に福島と飲むから、数日前から楽しみにしていたというのに。
 嗚呼っ! こいつがいるから帝都には来たくなかったのに!

 ―――と、心中彼が嘆いたかどうかは定かではないが、日明の目の前で三浦は今にも泣き出しそうな情けない表情を浮かべていた。話しながら、冷や汗はだらだら流れ落ちている。
「ああそうそう。そういえばまた空前絶後の若き出世頭、三浦中将の武勇伝が一つ増えたと伺いましたよ。凄いですね」
日明はわざと、本人ではなく老人にその話を振った。
 翁は自分の事のように嬉しそうな表情を浮かべ、目を細める。
「そうかそうか」
「本当に三浦中将は優秀ですね。この世に二つとない素晴らしい軍人であらっしゃる。人並外れたというか、人じゃないみたいだ。はははは」
「楼、良かったなぁ。こんなにも褒められて」
「あ、あははははは。有難うございます」
「イヤァまるで孫と祖父の様に仲が良い。お世話になったことがあるとかそういう程度だとは信じられませんよー」
水面下の冷たいやりとりには気づかず、福島は一人楽しげに浮かれていてた。
 日明とて、人だ。揶揄かいがいのある男を嬲るのは好きだ。猫が鼠をいたぶるように、じわじわと真綿で首を締める。そのもがき苦しむ様を味わうのも悪くはない。
 ―――時間があれば、の話だが。
 あまり深追いしては蘭の存在を気取られる可能性があるな、とこっそり舌打ちする。
「それにしても、呑みすぎはよくありませんよ。
 福島中将は軍には必要な方なんですから」
快楽を求めようとする本能を理性に抑制させて、日明は三浦を追及する手を止めてさらりと話を老人に振った。
 二人の若人に窘められた福島は照れ隠しに頭をかく。若い二人の心理戦がかなり際どいところまで至っていることに気づかない彼だけは、本当に平和そのものだった。


    *******

 客の人数も減っていたのもあって、料理は次々に到着した。徳利はすぐに空いてしまうが、それを上回る速さで酒がくる。
 鳥鍋が来ると、流石に人々はそちらに注目する。その隙を狙って日明は軽く礼をして、立ち上がった。
「あ。お帰りですか」
「ええ。もう十分いただきましたし、今日は連れがいまして」
早く帰れ! という男の叫びが瞳から読めるのが、小気味よくて仕方ない。元帥の方にも一度頭を下げた。食えない老人も、帰っていいと視線を寄越す。
 さて帰ろうと、階段のほうへ向かう。
「待ってくれ」
が、意外にも、制止の声が飛んできた。
 鍋の具をよそっていた黒木中将が、尖った目をぎろりと向けているのだ。日明が足をとめると、具を取り終えてから相手はひょこひょことやってきた。
 目の前に来て、ようやく彼もずいぶん飲んでいることがわかった。顔色は変わらない性質なのだろうが、目は完全に据わってしまっている。
「何か?」
立っているだけでもかなり危なげな動きを見せるので、日明は自分も座り、相手にも座るよう促した。
「ええと、渡したいものがあったんだが……。
 日明大佐は、その、どうなんだ?」
目の前で軍服のポケットを探り始める。なかなか見つからないらしく、場つなぎに手を体の服に差し込みながら質問する。
「まあ元気にやってますよ。
 医者によればあと少しだそうです。
 黒木さんには零武隊がご迷惑をおかけしているようなので早く出たいと」
「そんなことは気にしないでもらおう。ある程度は、私も彼らの非常識っぷりに慣れたつもりだ。
 確かに、予想通り予想外の行動を取る奴らばかりだったので、疲れないといったら嘘になるな。よくもまあ、あんな者どもを日明大佐は普段から操ってられる。あまりに常識外のことばかり言うので、怒るのも注意するのも気が失せる」
「零武隊の任務は、我々表の部隊にはよくわかりませんからね。
 心中お察しします」
良くも悪くもとれる言葉で、さらりと逃げる。
「まったくだ。
 表とか裏とかよくわからんが、だからといって軍人の本分とかけ離れた行動をとるのだけはなんとかしてもらいたいものだな。
 本番さながらの訓練といって刀や銃器を持ち出すのまではよいが、休憩室のお茶に劇薬を混入したり正門に地雷を仕込んだり、わけがわからんっ!」
「そんなことまでするのですか!」
……知ってるけれど。
 とこっそり内心付け加えて、日明は同情の表情に切り替えた。
 蘭は毛嫌いしているが、黒木中将のように自分の意見をはっきり言うタイプの人間は日明はそう嫌いではない。
「そう思うだろう? 劇薬の件は本当に驚いたぞ。しかも注意しても反省の色がないのが余計に腹立たしい。ったく、普段からきちんと躾けがなっとらんから………」
そこまで言いかけたが、黒木ははっとして口をつぐんだ。それから、すまなさそうに目を逸らす。
 あまりにも上手く日明が聞くので、思わずいつも部下にぶつける愚痴の調子で口を滑らせてしまったのだ。夫の前で妻を批判するのは、どう考えても日本男児のすることではない。
「………すまぬ、酔っている上での失言だ」
「いいですよ。
 零武隊との関係は、私はどちらかというと黒木中将と同じ立場ですからね」
優しい笑顔と共に、囁く。
 共犯になってあげますよ。大丈夫ですよ。さあ、言って下さい。
 黒木はこれでも第一師団の師団長で、何かと蘭と顔を合わせることは多い。今回の出産の件でも頼っている以上、できるだけガス抜きをしておいた方がいいな、と日明は思う。
 はぁと、意を決したように酒臭いため息をついた。
「奥方には言うないで頂ければ助かる」
「こちらも、お願いします。私が言ったと知られると、家庭問題になりますから」
大変だな、と黒木は珍しく笑った。
「ったくあの零武隊というならず者集団をなぜあそこまで元帥が甘くなさるのか全く理解ができん」
「ええ。特殊任務という触れ込みでも、納得できません。
 特別扱いにもほどがありますよ。不祥事も多いのに、自分らで揉み消すから性質が悪い」
「貴殿もそう思われるかっ。
 なーにーが、表の部隊には出来ない、だっ。おまえらこそ厄介ごと自家生産してんじゃないのかって思うだろっ!?
 あの上官を上官とも思わない態度は何だっ。いったいどういう教育を受けたのだっ!? 昇進させた奴は誰だっ。誰が大佐までのし上げたんだっ!?
 しかも予算を好きなだけ食い潰しているくせに、それを恥もしなければ後ろめたくも思わない」
予算。
 黒木中将のスイッチたるそのキーワードが出て、内心うめきそうになる。
 だいたいこの言葉が出ると、十分以内では話がまとまらない。
「決算報告も予算も作れといってから一ヶ月以上経たないと手もつけんっ。普通言われる前に作るだろうっ、手をつけるだろうっ? 文句を言ったら拗ねて口をきかないなんて、どこの子供だっっっ。
 何事にも順序というものがある。まずは予算だっ! そして最後に決算だっ! その自然の法理を曲げに曲げに曲げに曲解して、最後にあの駄目っ子軍人はなんといったと思うっ?

 貴殿が作ればいいではないか。

 あぁぁのぉぉがきゃぁ、予算と決算の意味わかってんのかぁぁっ―――」
かなりの酒が入っていたのだろう、冷や汗を垂らしながら顔を引き攣らせる男の前で、黒木はますます加熱していく。腹に据えかねたことをくちにしているうちに、余計に腹が立ってきたのだ。他の中将たちもしゃべるのをやめて、こちらに見入ってしまっている。
 温厚な人柄ではないが、黒木中将は普段大人しく飲むタイプだっただけにその豹変振りは見物だ。
「いやぁ……それは凄いですね」
「作っていいわけがないろうっ。作っていいわけがっ!
 何故だっ。何故かあれとは話が全く噛み合わんっ」
頭を抱えていやいやと首を振り、到頭、蹲ってしまった。
 他の同僚たちに愛想笑いを浮かべて振り返った。何人かはそれに応じて笑みを見せる。ご苦労様、ということだ。日明大佐の話題が出て、老翁の大御所も流石に気が気ではないらしくじっとこちらに視線を注いでいる。
 さて、これからが腕の見せ所だな、と日明は心してかかる。
 黒木を沈めるところまで沈めて、それから得意の優しい言葉を使って浮きあげる。その一連の行動が、蘭への怒りを極力減らすのに一役買うのだ。
 ぽんぽんと、蹲る男の背中を叩いた。

「黒木中将が経費削減に苦労なさっているのは、皆知っておりますよ。
 いつもありがとうございます。
 私にできることがありましたら、いつでもおっしゃって下さいね。まあ近衛中将という役柄ではあまりお役には立てませんが……」

「日明中将……」
笑顔の男に後光が見えたような、そんな気がした。