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元気なのはいいことだ。 ―――と、自分を納得させるためだけに胸中で呟いたのは、もはやここに到着してから何度目かになる。病院を出てから数えていれば二十はゆうに超えていただろう。その時点で納得出来ないだろうことは明白なのだが、だからといって次のアクションをとることも、日明には出来ないでいた。 「よーし、飲むぞぉ。 そうだ。生酒はあるのか? 前飲んだんだが…… ……そうか。ではその二種類を二本ずつ頼む。待てよ、日本酒は……ええと、舞鶴はあったよな」 横に妻がいるのは嬉しい。 一緒に食事を出来るのは、なお嬉しい。 二人とも忙しい身なので比較的一緒に食事を出来ることは少ないし、入院してからは面会時間の関係で殆ど一緒にいられなかった。 見れば、会計気にせず料理を頼んでいる。酒は今注文した量だけでも軽く一升は超えている。 「ええと……ら、蘭さん?」 「ん? 日明、お前は何が食いたい? 鳥鍋はもう二つ頼んだぞ。ああ、饂飩は四玉なっ!」 「了解しました。 今日は河岸から良いのが入りましたので、始めに刺身はいかがでしょう」 「それはいい。魚は何だ?」 馴染みの店員が列挙する魚の名前に、いちいち嬉しそうに反応している。 美味しい料理が絡むと途端に子供っぽくなる彼女でも、こんなにも浮かれているのは珍しい。かつてないほど楽しそうにしている蘭の気分に水を差すことは、日明には出来ない。 元気なのはいいことだ。……いいことなんだ。 ―――結果。 病院に戻ろうとか、産後だから安静しておこうとか、酒はまずいんじゃないのとか、一時間前に生んだんだから料理なら病院に運ばせるから今日はゆっくりしておこうとか―――常識的な意見を言うべきなのはわかっていても口に出来ず煩悶としているわけである。 彼女が丈夫だということはわかっているが、それでも今日出産したばかりの人間が外食をして果たしてよいのだろうか。二次感染とか、そういう心配はないのだろうか。 普通、寝てるか休むかしているよね……。 と。今更妻に普通を求めること自体無駄とわかっているが、それでも今回のことはこの夫にでも理解の範疇を超えた行動だった。 「日明? 日明、いいか?」 呼んでも夫が答えなかったので、蘭は机の下でついついとズボンを引っ張った。 珍しく上の空だったが、直ぐに戻って肯定の返事をする。店員は「では」と挨拶をするなりそくささと立ち去った。注文の用紙が二枚以上にわたっていたことは考えないと日明は心に決めた。財布は心配はない。 心配なのは蘭の体調だ。 蘭が出産直後だろうが数時間前に陣痛で苦しんでいたんだろうがなんだろうが食べに行きたいと『オネダリ』の対象に選んだのは、最近出来たばかりの鳥鍋専門の料理屋だった。木造三階建となかなか凝った店構えをしており、値段は少し張るがその分の味がよい。零武隊の部下を引き連れて貸切にするくらいの、彼女のお気に入りだ。軍の施設からも比較的近いところにあり、二人で待ち合わせをして食事をすることもしばしばあった。 今日は運良く、三階の一番見晴らしのよい窓際の席が取れて、窓を開けると夜闇に浮かぶ帝都の姿が広がっていた。 広い大部屋には卓袱台がずらりと並んでおり、半分以上客で埋まっている。いくつかの鍋から美味しそうな湯気が立ち上っており、それがいやに食欲を刺激する。ランプが店内を明るく照らし、店員が行ったり来たりと賑やかだ。 蘭はざわめきの途絶えない店内をきょろきょろ見回していたが、ようやく、飽きたのか夫の方へ向き直った。 「本当に、お疲れ様。 そして、ありがとう」 と、いきなり。 日明がにこりと微笑みながら謝辞を述べる。 そんなことを言われるなどとは少しも思っていなかった蘭は、一瞬で上気した。日明から礼を言われたことなどほとんどない。まあ逆に、彼女から礼を言ったことなど数えても片手で足りるだろうが。 「まあ、な。別に、その、礼を言われるほどのことではないぞ。 そんな、大したことではなかったし。話に聞いてたよりはずっと……。すべて上手く運んだからな」 「ううん。本当にありがとう。 無事で、本当に良かった。とても心配していたからね」 「………………うう、うむ」 さらりとそんなことを口にされてしまうと、蘭は嬉しいよりも恥ずかしいが先にして黙るしかない。 「もうちょっと早く到着したかったんだけどね……。 連絡受け取ってからすぐ出たけれど、間に合わなかったよ」 「なに、二十分くらい遅れただけだ。 それに、病院の者たちが驚く程早かったから仕方ない。陣痛が始まってからすぐ生まれたんだ。 それにしても、お前の言ったとおり本当に男で、医師達が驚いていたぞ」 「父親の勘ってのは、当たるものなんだよ」 「何はともあれ、早く生まれてくれて良かった……。 入院生活は性に合わんし、女の軍人が珍しいのか色々な者たちが始終来て対応に疲れるし、部下が生意気なのが癪に触っても拳で殴れないし(手近な物を投げつけてとりあえず制裁措置はした)。 まあそこらへんはどうにでもなったんだが、とにかく食事の量が少なくてなぁ。腹が減って眠れないんだ。 あと一週間伸びたら、私が死ぬところだった」 ―――それか、原因は。 喉元まででかかったツッコミをぐっと飲み込んで無理に笑顔を作る。 「それは大変だったね……」 「うむ。 二度とあの苦行は御免だ。あれならお前の稽古に付き合うほうがマシだ」 なんだか酷い喩えをされたことはとりあえず心のメモ帳に書き込んで閉まっておいて、日明は「でもさ」と切り出した。 「食事なら、我慢しないで言ってくれれば良かったのに。 何度も見舞いに行ったじゃないか。 それに、零武隊の護衛だっていただろう?」 問うと、蘭は困ったような顔をして視線を逸らした。 答えを考えているのか、それとも言い訳を考えているのか。おそらく後者だろうと日明は決め付けて、考えさせる時間を与えないよう質問をつなげる。 だが、彼が問う前に、丁度酒が来た。 隅に少し塩がのっかった一合枡。 塩で少し舌を刺激してから飲むと、変わった味になる。待ってましたとばかりに、二人は直ぐに飲み始めた。 「で? どうして?」 「大したことではない。気にするな」 言いながら、再び酒を呷ろうとするので、日明はひょいっと蘭の枡を取り上げてしまう。 顔はいつもの笑顔だが、どうやっても返してくれないだろうことは、彼女にも判っていた。意地になっているのだ。 「…………お前も、護衛も、仕事中だろ」 蘭が、ぼそりと、小さな声でうめく様に呟く。 「私は、その、仕事しておらんし。 一人、休んでいるだけなのに……。 何か頼むなんて、気がひけてな」 ずきゅん。 ―――と、無理矢理表現すれば、そんな音が的確なのだろうか。 妻の可愛い台詞とその様子に、毛が生えていると友人等に囁かれている心臓が、今、確実に止まった。 ……外食して、良かったかも。 こんな顔をしてくれるなら、もう二三人生んでもらおうか―――などと夫が考えていることとは知らず、蘭は来た酒を美味しそうに味わっていた。 |
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