・・・  危機好機 5  ・・・ 


 が。
 その後ろに。
 世界が崩壊しても見たくはない者を発見して、黒木は完全に凍てついた。

「予算ひとつで馬鹿らしい。
 だいたい、怒鳴る暇があったら他人の仕事をやってしまえばいいのだ。
 ふん」

声を聞く前に気配で彼女の存在を知った日明の方が、驚きは大きい。
 首を回すと、不敵な笑みを浮かべる妻がそこにいた。
「ら……蘭さぁぁーん?」
何故ここに来る? と混乱した頭の中では絶叫していたが、結局、出た言葉はそれだけだった。
 時折、彼女は日明の思考外の動きをする。
 まさにそれが、今だ。
 普段ならば愛しくあるその動作も、ちょっとばかり今は困る。
 というか、ちょっとどころの騒ぎではない。
『日明大佐ぁぁっ!?』
蘭はすっくと立ったまま、さらりと長い髪をかきあげた。
 階段のところから、一跳躍で来たのだ。見る者が見なければ、突然現れたようにすら見える。
「人が居ない隙に、あることないことばかり言いおってっ。
 告げ口とはみみっちいっ。
 帝国軍人として恥を知れっ」
特徴的な垂れ目で座り込む男を見下ろす。
 こうされては、黒木も黙ってはいられない。
 酒のせいで体はふらついていたが、日明の肩に手をおき立ち上がった。
「どこが無い事だっ! 指摘してみろっ」
「決算も予算も貴殿に言われる前から準備しているわっ。ただちょっと間に合わないだけだと報告している。
 それに、拗ねて口をきかなかったのではないっ。何を言っても無駄だと悟って話さなかっただけではないか」
「そのちょっとが毎年続いてどうするっ!」
「毎年じゃないだろっ。去年と今年は少し偶然が重なっただけだっ。
 それに一昨年は遠征があって遅れたのだから、不可抗力だ! 数に入れるのは卑怯だぞっっ」
食って掛る様子を見るに、予算の件については蘭も少々部が悪いらしい。
 黒木は腕を組み、冷たい目をした。
「ふん。
 予算を私に作れたと言ったことは否定しないのか?」
「あんな冗談を真に受けている貴殿が哀れでな。
 誰がそんな話信じると思っている?」
―――御免、俺も信じた。
 と、日明はこっそり思った。実は雄山元帥も同じことを思っていた。
「零武隊の信用の無さなら誰もが信じるだろうなっ」
掴みかからんばかりの勢いで口泡を飛ばす。その間に挟まれて、他の中将たちの視線を浴びる日明中将はだんだん顔色が悪くなってきた。
 どう言い訳をすべきか、考えるだけで壮大に疲れてくる。
 特に、痛いほどの視線を寄越してくる髭の立派な軍人が大問題だ。目が酒とは別の意味で据わっている。

 ……飲ませすぎたな。

 読みが浅かった、と自分を叱咤した。現実逃避をするために。蘭は単に夫の様子が気になって戻ってきたのだろう。その時偶然にも黒木の『悪口』―――というべきか、真実と言うべきか―――が聞こえて、階段のところでキレてしまったのだ。
 酔ってなければそんなことは毛筋ほどにも意を払わない。が、内容がちょっと真実めいていて、しかもそれを聞いているのが夫の日明だと分かると、恥ずかしさと同時に急に怒りがこみ上げてきた。日明に告口するなんて、なんと卑劣な男だ、と。
 黒木は口喧嘩に一杯一杯だ。
 蘭も、同じくヒートアップしている。
 座ったままの日明は、何かを考える素振りをして動こうとはしない。
 誰がその不安定なバランスを崩すか、つまり、ツッコミを入れるか、中将たちは目で押し付けあった。
 ―――結局は、その男が口を開くのだが。それはもはや、決まりきったことだったのだが。
「……日明大佐」
帝国軍人の頭領、雄山元帥は酔って鈍った頭をフル稼働させて、低い低い声でぼそりとその名を呼んだ。蘭と黒木は胸倉をつかみ合って文句を言っていて気づかない。
 それが。悪かった。

「日明大佐ぁぁぁぁぁっ!」

店自体を揺るがすような怒号。流石の二人も同時に元帥の方へ振り向く。ゆらりと立ち上がった男からは、なんとなく湯気のような―――存在するといえるならば、オーラ―――が上っている。
 強張った、泣き出しそうな表情をしてみてももう無理だ。
「お主はっ、こんなところで、何をしているのだぁぁっ!?
 病院にいるのだろうっ。
 ―――いるべきであろうっ!?
 出産はどうしたのだっっっっ! 退院したなら退院したで、きちんと報告せんかっ、いつまでも休暇をくれてやれるほど軍は甘くないぞっ」
「はっ。
 先ほど終わりました」
さっと黒木から手を離し、敬礼しながら、蘭は答える。その、報告するような態度がまた元帥の怒りに触れた。

「終わりました、ではなぁぁぁーいっ!」

怒られると思っていなくて、びくっと肩が跳ねる。
「自分の体をなんと考えているのだっ!? 出産だぞっ。自分の出産で、自分の子供なのだぞっ。そんな軍務と同じような扱いをするなっ!
 お主はもっと、もっと己の体を労わらんと……
 ……………………。
 …………。
 ……………………ちょっと待て。先ほど?」
「日明中将、確か貴殿は今日、奥方が出産が近いから欠席すると報告されていなかったか?」
日明の目と鼻の先にいた男が、不思議そうな口調で尋ねる。
 日明としては、どちらかというと『日明大佐と会いたいがために、会議を欠席するため嘘をついた』という話で片付けたかった。
 自らだけが泥をかぶる結果になるが、それの方がずっと良い、と思っていた。
「え、ええ。まあ…………。
 …………あー」
「嘘は言ってない。
 今日の午後五時くらいだったのだ、終わったのが。
 だから報告時点では出産の予兆は無かった」
だが、酔っ払いの蘭は、あえて口篭った日明の考えを汲むことは無かった。もっとも酔っていなかったとしても夫の考えはわからなかっただろうが。
 恐ろしく冷たい沈黙が場に落ちる。
 何故だろう。常識が通用しないとわかっていても、ツッコミをいれたい気持ちが消えないのは。というか、どうしてそんな不思議そうな顔をするのだろう、彼女は。俺たちが悪いのか。そうなのか。
 全員の雰囲気が変わったことに理由がわからない蘭は、きょとんとしている。誰もが、酒を片手に押し黙り、沈痛な表情で下を向いてしまっている。
 彼女の元に、元帥が来た。
 また怒鳴られるのかと思い、腹に力をこめる。元帥の怒声はそれだけで一種の攻撃だ。
 だが、続いてきた声は、落ち着いた穏やかな声だった。

「全く、お主は無茶ばかりしおって」

老翁の大きな双眸が、優しく光る。
 握りこぶしひとつ大きな老人は、いきなり、蘭の頭に手を置いて撫で撫でしてきた。先ほどから上司の行動の意図が読めない蘭は、一つ一つの動作に過剰に反応してしまう。動けないで固まっている彼女を好きなだけ愛撫した後、雄山は後ろにいた店員にお茶を持ってくるように注文した。
 ぽんぽん、と肩を叩いてその場に座らせる。
「そう堅苦しくなるな。
 心配ばかりかけおる。無事でよかった。何よりだ。
 それにしても、こんなに細くなってしまって。可哀想に……」
「体力はこれから鍛えれば戻ります」
「食事が旨くなかったか? 何かほしいものはあるか?」
まるで初産の娘を心配する父親のように、元帥は蘭にいろいろ質問する。怒られるのには慣れているが心配されることに慣れていない彼女は、どう答えてよいのか分からずしどろもどろだ。
 だが、その表情から、少しだけ嬉しそうなのが見て取れる。
 上目遣いで話すのは彼女が酔った時にしか見せない癖だが、普段が傲慢なだけに異常に可愛い。
 落ち着きの戻った黒木中将が、蘭の肩を叩いた。
 敵意のある視線で振り返ったが、彼は少し困った表情を浮かべて相手にしない。
「貴殿への預かりものだ。
 ……といっても、もう貴殿には用がないものだがな。遅くなってしまって悪かった」
黒木の手にあるのは、二つの守り袋。
 安産御守。
 みるみるうちに、紅潮していく。
「ありがとう……ございます……」
「零武隊の隊員から。
 ……今日、日明中将に渡す予定だったのだが」
白い御守り、赤い御守り。
 白いのは部下からのものだとすぐに分かった。真裏に『日明蘭大佐』と見たことのある字で書かれている。そんなにも早く産んで欲しかったか、と思わず笑いそうになる。赤い御守りは、刺繍が細かくかなり高級そうだ。部下は連名で一つくれたのだから、この赤いお守りの贈り主は部下ではないということになる。
「こちらのは、黒木中将だろう?」
上目遣いで、蘭は恐る恐る尋ねた。興奮して、どう言えばいいのかわからなかったから。
「…………うちの部下どもが渡せと言ったからだ」
二人の間に言葉が消える。
 顔を見合すことすら出来ないくらいに、どぎまぎした空気が流れている。
 その微笑ましい様子に回りに人が集まってきた。