・・・  危機好機 1  ・・・ 


 某年 某月 某日、午後五時三十四分。
 出産。母子共に無事。
 その知らせを受け取ったのは、まさに病院の受付だった。
 日明近衛中将は、頼んでおいた伝令から陣痛が始まったことを聞き急いで来たのだが、結局到着の直前に出産は終わったとのことだった。妻の初めての出産ということもあって、一緒にいられるよう休暇を申請していたのだが、許可が下りる前に生まれてしまった。どことなく急ぎ足な子供は、流石は自分たちの子だな、と到着と同時に日明は悔しさを紛らわせるために思って苦笑した。
「本当に無事な出産でしたよ。
 もう、戻ってますよ。いつもの部屋に」
「ありがとうございます」
礼もそこそこに身を返す。後ろで看護婦同士で笑っているようだが、今はそんなことに気を払っている余裕はない。
 息を整えながら早足で廊下を進んだ。本当は走りたくて仕方がなかったのだが、それをぎりぎりの理性が抑える。廊下で走るなという張り紙のためではない。出来るだけ妻の前では格好をつけたいという、男の意地のためだ。
 地下二階、特別患者 二○八号室。
 いつもの護衛が挨拶をするのを、顔も見ずに略式で返す。
 表札に名前のない扉の前に立って、まずは一呼吸。それからノックをする。
「開けていいぞ」
声は思ったより近くから聞こえてきた。
 ノブをまわして少しだけ開くと、すぐ目の前に、愛しい妻の蘭が微笑んで赤ん坊を抱えて待っていたのだ。
「た、立っていいのかいっ!?」
夫がいきなり驚いたのが予想外で、ちょっとだけ彼女も目を開く。
 が、すぐに嫣然と微笑んだ。
「医師の許可をもらっている、案じるな。それに、腹にはもう何もない。
 見ろ。
 男の子だぞ」
ぐいっと、まるで家宝の刀を見せびらかすように蘭は胸に抱いていた赤子を差し出した。人間と猿の中間地点のような嬰児の顔を、夫は目を細めて愛しそうに眺める。
「……はじめまして、天馬」
さらりと、その頬を撫でてみた。
 考えていた以上に柔らかな感触が指を伝わる。命ある物がそこに存在しているという、確かな体温。
 うう、あう、と小さい声が聞こえる。
 泣かせたな、と蘭が意地悪く笑う。
「見れば見るほどお前に似ているようだな。
 目が大きいだろう?」
「そうかなぁ、蘭さんの方が似ていると思うよ。
 鼻筋が通っている……これは美人になるね」
「男だぞ」
「良いに越したことはない」
「だが、目はお前だ」
「口は俺だね」
「なに? 口元は私だぞ」
下らない親馬鹿な言い合いをしながら、日明は寝台に妻と息子を連れて行く。日明がそこに腰を下ろすと、彼女もつられて隣に座った。
 昔から、並んで座ると肩に寄りかかる癖がある。
 蘭は初めての子に興奮気味で、いろいろ触って子供をむずがらせて楽しんでいるようだ。しばらく何も言わず、その様子を温かい目で見守っていた。
 予想以上に蘭が元気そうで、彼は漸く心から安堵していた。
 医療技術が発展したといっても出産には常に危険が付き纏う。しかも、その職務がら命を狙われているので、選び抜かれ病院に極秘裏に入院し、さらに、四六時中零武隊の護衛をつけていなければならなかった。
 精神的に抑圧された環境の中での出産にもかかわらず、先ほど聞いた看護婦の話しでは初産とは思えないほどの安産だったという。
「……きっと強い子になるな。勇ましく、立派な子になる。
 そうだろ?」
「なると良いね」
「なるんだ」
現在わかりようもないことをやおら強く言い切ってしまう、親特有の、どうしようもない台詞も、今だけは許されるだろう。
 生まれたのだ。
 誕生したのだ。
 この両手に、我が子を抱くことができたのだ。
 どんなに表現しようとしてもすることのできないだろう感動に酔い痴れて、蘭は、普段の彼女なら一笑に伏して決して口にしないだろう言の葉を嬉しそうに何度も何度も繰り返し興奮を味わう。
 それは、生まれて初めて作った工作が素晴らしく上手く完成した興奮と、どことなく共通する物があった。

 作った本人が、一番驚いている。

 ―――という、共通点。
「と、そうだ」
無邪気な妻が、いきなり、首を回した。
 ふええ……と天馬が泣いているようだが、もはや日明の頭には妻の可愛い様子が一杯で脳細胞の四分の三は停止状態に近い。
 そのため、彼が口を開く前に、蘭の次の台詞の方が先だった。
「無事に産めたら、なんでもしてくれるんだよな?」