・・・  危機好機 3  ・・・ 


 最後の鍋が饂飩までとなった頃―――
 酒はすっかり三升以上空いていた。一時は全部の席が埋まっていたがもう殆どが食事を終えて出て行って、今残っているのは蘭たちと同じ閉店時間まで居続けようという考えの客だけだ。声を低くして囁きながら、鍋の残りをつつき酒を呑む。
「気持ちいいなぁ」
夜が更けるに従って、にわかに強い風が吹くようになった。鍋で火照った体には気持ちのよい涼風。長い髪がわずかに靡く。
 ちらりと見えた首筋は、ここ二ヶ月全く外出していなかったがために、透き通るように白い。腹が目立つようになってからは、刺客に襲われる危険性を考えて特別室から一歩も出なかった。窓もなければ、地下の黴の匂いが漂う狭い監獄のような空間。通常人ならば耐えられない状況だろうが、さすがに訓練を受けただけのことはあって少しも堪えた様子は見えなかった。
 ―――いや、それは、見せなかっただけかもしれない。その位の自己コントロールは出来る女性だ。
 しかし精神的には乗り切ることはできたものの、肉体的に変化が現れることには避けようがなかった。
 全体的に筋肉が落ち、頬も腕も、なにもかもが一回り以上細くなっている。
 肌は太陽にあたらなかったせいで異常に白くなり、髪の黒さがいやに目立つ。この状態では愛用の刀ですら振り回せないに違いない。
「夜が更ければ更けるほどいいねぇ。今日は月も綺麗だから」
疲れの載った顔だが、瞳の輝きだけは失われていなかった。今も昔も変わらず、意志の強い、未来をしっかり見据えたその双眸。
 それが、あるだけ、余計に。

 今の彼女は、酷く男の支配欲を駆り立てる。

 昔の強さを知っているだけ、この弱った状態を見ていると良からぬことを考えてしまいそうになる。
 自分ですらそうなのだから、況や。
 一ヶ月鍛錬を重ねれば、ある程度の筋肉も戻るだろうし、護衛が不要なくらいには刀も振れるようになるだろうと日明は考えながら酒をあおった。ただ零武隊の部下たちを完全に制圧するには一ヶ月では少し短いかもしれない。食えない部下が多いのは彼もよく知っている。
 特に、数人。危険な男たちがいる。
 蘭の庇護下にいなければ確実に息の根を仕留めたい若者たちの顔を思い浮かべると、酒の所為ではなく血圧が上がった。

 ……零武隊から辞めさせられれば、業務上の事故でなんともできるのに。

 脳の中に百の方策を考え出してみるが、そのどれもが上手くいかない。零武隊は形式的には元帥府直属となっているが、実質的には雄山元帥と帝との二人が支配しており、人事に働きかけることが事実上不可能だ。
 蘭を困らせることなく彼女の部下を始末できればよいのに……
 いっそ、仕事を辞めてくれさえすれば。
 起こりもしないこと思って、日明はこっそりため息をついた。
「そういえば、仕事のほう、どうするつもり?」
夜風に和んでいた蘭は、彼の言葉に振り返ってしばし目を瞬かせる。久々に飲んだので、蘭は珍しく泥酔一歩手前の状態に陥っていた。頭の回路は鈍り、その言葉を理解するのにも少し時間が必要だった。軽く前髪を梳きながら、考える。
「そうだな。
 明後日には復帰したい」
「え?」
「事件が起きた時に直ちに動ける体制にしておきたい。
 それに……報告を聞く限りでは、他の師団にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかん。このままでは黒木中将が精神的過労で死ぬかもしれん」
「ちょっと待ってっ。
 明後日、だって?」
夫の顔が面白くなさそうに表情が消えていくのが、見えた。
 アルコールに侵された状態の脳の中で、激しく警鐘が鳴る。まずい、言葉が足りなかった。
 よく考えてみれば、そうだ、それは無茶苦茶なことだ。
 子供のこともあるし、親戚に挨拶もしなければならない。
 ―――だが、それでも、明後日くらいには仕事に出なければならない。その、理由がある。理由を説明すれば彼も納得するはずだ……と、僅かに活動する理性が囁く。わかっていたが、話すのが億劫だった。蘭は、しばらく胡乱な目で眼前の日明をじっと見つめていた。
 まさか明後日などというとは思っていなかった日明は、まずは何を言えばいいのか心が決まらない。最低でも一月くらいは家に居るものと考えていた。
 正気か?
 というのが、今の彼の心情を最も的確に表す表現だ。

「その体調で陸軍大佐が勤まるとは到底思えないけれど」

 と、軽く嫌味をこめて言ってみると、

「まあ、暫くは部下どもに迷惑をかけさせてもらうさ」

クツクツと喉の奥で笑われながら返された。
 蘭は机の上に両肘をつき、手を組んで顎を乗せた。瞼が眠気と必死に格闘している。酒のせいで意味もなく嬉しくて嬉しくてしょうがなくて、極上の笑みを日明に見せた。
 無邪気な夜風が、再び彼女の髪を遊んで軽やかに通り過ぎた。
「日明中将。一つ、お尋ねしたい」
ぴくり、と日明の形の良い眉が動いた。
「……なにか?」

「部下がな。
 自分の家に戻りたい、早く帰りたい。恋しい、恋しいと泣き出して、泣き縋って、床に寝転びながら泣き叫んでしまった場合―――
 上官としてはどう諌めるのが良いだろうか」

本当に泣いたんだ、と蘭は言葉をつなげた後、堪えきれず吹き出してしまう。
 目の前で肩を震わせる妻に、覚えず日明も拍子抜けした。
 しばし遅れて、低い声で笑い始める。声を押し殺さず二人は笑ったので、酔客しか残っていなかったのでさほど目立ちはしなかったが、店員の一人は珍しいなと思って眺めていた。
 護衛は零武隊の隊員が交代で務めた。どれも良いがっしりとした体躯をしている。それが子供のように泣いたとは、さぞや煩かっただろう。
 現在、零武隊の隊員は第一師団の所属になっている。零武隊の官舎は機密情報が多いので完全封鎖し、第一師団の一部と寮を借りて第五連隊の命令に従いながら訓練をしていた。将校クラスは別の師団の下へ赴任していた。つまり、将校でない軍人たちだけが、帝都に残されたのだ。蘭の護衛に来るたびにいかに厄介ごとを起こしているかを上官に語って、早く復帰してくれと切々と哀願していくのだ。その一人が、一ヶ月ほど前に上のような所業に及んだ。

「泣く子と地頭には勝てないからね。
 早くオウチに帰してあげるしかないよ」

「そうだな……そうさせてもらう」
「零武隊が復活した後は、ある程度は部下に任せて休暇を取ってくれ。
 そんな体調で無理が出来るほど、甘い任務ではないだろう?」
「了解した」


 *******

 階段の方から、ざわめきが聞こえた。この時間に新しい客が集団で押し寄せる場合、二次会か三次会と相場が決まっている。すでにたっぷりと酒が入っている男たちの不明瞭な大声が日明たちの机まで響いてきた。
 急に騒がしくなったことに蘭も気になったようで、体ごと捻って後ろを振り向く。
「煩いな。これだから酔っ払いは好かぬ。
 零にしてやる」
「物騒なこと言わない」
「だって煩いんだもん」
相当酔っ払っている蘭がいえる発言ではないのだが、酔っているからこそ他人の所業が鼻につくものだ。
 妻は先ほどから一口も飲んでないし、机の上に時折眠そうにうつ伏せになっている。そろそろ病院に帰ったほうがいいな、と日明は判断しながら酒を飲み干した。
 蘭は蘭で、自分の身体状況を分析していた。体は熱い。酒は、もう飲めそうにない。頭は痛くて少し気持ち悪い。指を動かそうとすると、反応は異常に鈍かった。
 手足が痺れてる……
 ―――と自覚症状が現れているということは、かなり危険なのに、それすらもわからない。
 だらけた姿勢で机に寄りかかりながら、炯炯と目を光らせながら新しい客を眺める。顔をあげていることすら面倒だ。
 店員に続いて、階段の端から客の姿が視界に飛び込んできた。
 鈍かった頭が、一瞬にして冴えた。
 軍服。
 それも、日明と同じ階級の、または、それ以上の。
 さらに付記するならば、次々に現れる客の顔は二人がよく知っている。

『げ。』

心の底から嫌そうな悲鳴がものの見事に唱和した。
 蘭は振り返って夫を見た。
 彼の策略の一つではないかと考えたのだ。
 はっきり言って、夫に対しては信頼あるが信用はない。彼と一緒にいて起こる不幸は大概が彼が仕組んだものだと思っている。
「軍法会議はあったけど……
 よもやここに来るとはねぇ」
ところが、容疑者たる日明は苦虫を噛み潰したような表情をしながら、一人ごちている。確かにこの事態は日明にとって利益となるようなことはひとつもない。軍法会議をさぼったことがバレてしまうのだから。蘭は、日明の仕業ではないと断定した。
「挨拶……いっておく?
 どうせ、いつかはしなきゃならないんだけど。天馬のこと」
どうすると尋ねられて、蘭は、先ほどと同じように机に顔を置いて考える。
 一瞬ひやりとする木の心地が気持ちがいい。
 行くべきか、行かないべきか。
 と、心に問えば一つだ。
 ―――行きたくない。
「………………ヤダ」
ちらっと一瞬見た中に、雄山元帥の頭の髪の毛が見えた。
 出産後数時間で、外食をして、酒を飲む。―――という事実を、あの老翁にはばれたくないと何故だか強く思った。理由はわからない。別に軍人として問題のある行動ではないにしても後ろめたい。
「じゃあ、誰にも気づかれないほうがいい。
 病院に戻ろうね」
「奴らが帰った後で帰るのでどうだ? 静かにするから」
「……ちょっとそれは無理だね」
きたのが軍人と知れると、客たちの多くが動き始めた。店員も、残りの客に下の階に移るよう勧める。厄介ごとが起こらないよう細心の注意を払っているわけだ。
 日明は外套を持って外に行くよう表情だけで指示をだす。
 反抗的にも、蘭はとろんとした目を向けたまま動こうとはしなかったので、机を回って日明は妻を揺さぶった。ぐぅ……と恨めしそうな声。本格的に飲みすぎなようだ。
「…………ヤダぁ」
「駄目だよ。馬車借りるから、起きなさい」
 次々に新たな客―――つまり、軍の中心人物―――顔馴染み―――は階段を上ってきて、二人とは反対側の部屋の奥に陣取っていく。
 日明の手を借りて、ぐずっていた蘭もようやく立ち上がった。危うい足元だ。
 酒が加減できないなんて。
 ここまで酔ったのは久しぶりだ。二十歳以降、こんな馬鹿な飲み方はしなかった。
 確かにこんな状況、元帥だけではなく他の中将たちにだって見せられない。恥ずかしい。足がふらつくので、ゆっくり静かに踏み出した。

「今日もあちらに、軍人のお方が見えておりますよ」

 そんな二人の耳に、その一言が唐突に聞こえた。
 どうやら店員の一人が注文をとりながら言った、なんの気のない言葉。日明の軍服を覚えていた彼は、その軍服と新しい客とが一緒のものであることに気がついたのだ。好意とか、親切心とか、とにかくそのような感情の部類から出た言葉だった。
 引きつった顔を見合わせる。
 日明は、恐る恐る、蘭の後ろ側を見えるように、顔をずらした。
 その瞬間、明らかに興味を示した幾人かの顔見知りたちと思いっきり目があった。
「日明中将っ」
「貴殿も、今日はこちらにお見えかっ」
来い来いと、手を振っている。
 向こうに悪意はないとわかっていても、殺意が沸くのは止められない。
 避けられないと悟って、日明はため息交じりに膝を立てて立ち上がった。
「……ちょっと挨拶してくる。酔い覚ましに下で待っていて」
蘭は手渡された財布を丁寧に受け取ると、こくりと頷く。
「健闘を祈る」
「了解」