・・・  お絵かき・フォーエバー  ・・・ 


 「毒丸。後で第三準備室に来い」
普段めったに彼からは声をかけない炎が、いきなり、何の前触れもなく自分の前に立っていたので、驚かなかったといえば嘘になる。
 きょとんとした目で一瞬止まって、それからあわてて敬礼した。
「は、はい。わかりました。では直ぐに行きますっ」
「いや。その仕事が片付いた後でいい」
炎は毒丸の手元にある書類を一瞥した。鉛筆の汚い文字で「神奈川郡第四区連続不審傷害事件調査書」と書いている。毒丸は慌てて書類を裏返しにした。題字の下に落書きしていたのだ。
 零武隊には二種類の軍服がある。隊長たる日明大佐が着る白い軍服、そしてそれ以外の色付の軍服。白い軍服は零武隊ではエリートの証だ。
 今彼が居たのは、色付軍服の軍人の集まる資料室だった。
 炎が部屋から出ると同時に、周囲の同僚たちは青年に集まってきた。
「なあ。また何かしでかしたのかよ」
「やるならバレないようにしとけっての」
気の毒そうな目で見られた本人は、ぶるぶると首を振って否定する。
「イヤ! 最近俺何もしてないよっ、本当」
少なくとも炎を怒らせるようなことはしていない……と思う。記憶を必死に掘り返しながら彼の顔はどんどん蒼褪めていった。
 どうしよう。あの目、絶対やばい。
「可哀想に……」
「若い身空でねぇ」
「その調査書はやっといてやるから」
「いいか。まず謝って、その後は防御だぞ。防御。奴ら本気で手加減しないぞ」
お悔やみの言葉と同時に、肩を叩かれる。手元にあった調査書と資料は他の男にとられ、早く行けと言われた。
 促されるままに、部屋から出た。
 重力に負けそうになりながらなんとか気を奮って廊下を歩きだす。胃がきりきり痛んだ。もし炎たちに何かされたら、一週間は入院決定だ。

 なにか、したかなぁ。
 炎と現朗にはしていない。激ちゃんには色々やったけど、でも怒るほどじゃないし。大佐のおやつ食べたけど、それはこっそり他の追加しといたし。掃除はサボったけどいつものことだし。……何もしてないよな。

 毒丸が不安に思うのも、彼を周りが心配するのも無理はないのだ。入隊直後、天真爛漫に仕事をしていたら本気で現朗と炎が切れてぼこぼこにされたことがある。しかも周囲は止めず、鉄男だけが治療をしてくれた。まあ、怒られる理由は十分過ぎるほどあったので今更文句は言わないが。
 遠回りに遠回りを重ねたが、ついに、到着してしまった。目の前には、第三準備室と達筆で書かれた扉が立ちふさがっている。
 いくらか逡巡したが、覚悟を決め、ノブに手をかけた。
「入ります……」
小声でいいながら恐る恐る首から入る。中は人がいないのか、薄暗い。真ん中だけぼんやりと明るい。一歩二歩、神経を尖らせて歩く。
 なんだ? と、毒丸は目を凝らした。常人よりはいい目は、それがなんだかすぐに分かった。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」

理解すると同時に―――いや、もしかしたら理解速度よりも早く―――悲鳴をあげる。
 中央に居たのは見慣れた白い軍服。
 日明蘭大佐が、なんと、憤怒の形相で立っていたのだ。
 角を生やし、牙をむき、目を怒らせた仁王立ち。
 うわぁぁぁ―――殺されるっ! アレは本気で殺る表情だぁぁぁっ! 混乱しながらも、武器を構えながら防御体勢をとって逃げようとした。
 ……のだが。
 襲ってくる様子がない。
「あれぇ……?」
暫くして目が闇に慣れてくると、それが実物ではないことに気づいた。
『あはははははっ!』
どこからともなく哄笑が聞こえた。カーテンが開かれ、急に明るくなる。目を瞬かせて見ると、部屋の四隅には見慣れた軍服が六つあった。
 激が指をさして笑い、他は口に手を当てて笑っている。
「ぎゃ、だとさ」
「ぎゃははは。本当に驚いてやんのっ」
毒丸は頬を真っ赤にして、畜生と小声で呟く。
「……どうしたんだよぉ。この絵」
ぷっと頬を膨らませながら、不機嫌そうに尋ねた。
「例の瑠璃男殿に描いてもらったのだ。守り神に鬼の絵を一枚な」
先日爆と炎が菊理を迎えに行くと、子供たちが必死でお絵かきをしていたので、冗談半分に瑠璃男に鬼の絵を頼んだ。
 そして彼女を家に戻したとき、彼は自慢げに絵を持ってきた。
 日明蘭が―――鬼、といってまあ差し支えない表情で―――仁王立ちするこの絵を。
 二人はあまりの出来栄えに感動し、瑠璃男にお菓子をたんまりやってもらって帰ってきた。そして次々に隊員を脅していたのである。なんと鉄男までその犠牲者になった。
 「お前も悲鳴をあげながら土下座をして謝っていたな」
あまりに激が笑い続けているので、現朗がくすりと笑いながら言った。
 口をへの字にして激は現朗を睨む。黙っている約束だったのだ。
「だってこれかなり似てるじゃん。びびるよ、誰でも。
 角があるとこなんてソックリだよっ!」
「……俺はこの吊り上った目が似ていると思う」
と、爆が言うと。
「いや、牙だ」
普段無口の鉄男まで加わる。
「全体にわたるオーラがなんか似てるよな。
 案外天才じゃねえかあのちみっ子もよぉ」
「そうだな。この不気味で不吉な怒り充填のオーラ、大佐以外ありえん」
激の言葉を引き継いで、もっとも雑言讒謗から遠いだろうと思われていた真まで口を挟んだ。
 関を切ったように、言葉が飛び交う。
 鬼、牙、角、猛獣、破壊王、魔王。
 おっかない。妖気が漂う。身の毛が弥立つ。怖い。
 素敵な名詞が飛び交い、様々な形容詞で絵とその画題を語り尽くす。活き活きと、手振り身振りをつけて、誰もが楽しそうに語る。年齢も階級も何もかもの差を越えて皆が一つになったような気分だ。
 「本当にすげー怖いなぁ。守り札にはぴったりだよ。悪霊はおろか普通の人だって客人だって入ってこれないって、コレ」
「全くだ。
 ……本物もこのくらい怖いか?」
「何言ってんのー。大佐の方が百倍怖いよ。なぁ」
「いや。千倍だ」
毒丸の言葉に炎がさらりと言い返して。
 それを皆で笑って。
 ……。
 ……。
 ……。
 ―――時間が止まった。
 今、あってはならない声が含まれていた。
 不自然に訪れた沈黙。全員、ゆっくりと、後ろを振り返る。集団で空耳を聞いたのだと必死に願いながら。
「……大佐」
勿論願いは天に届かなかった。現実を曲げることは不可能だった。
「はっはっはっ☆ よし、気づいたな。じゃあ斬るぞ☆」
すらりと白刃を抜く。いきなり本気モードだ。
 逃げ道の扉は、鬼によってふさがれている。窓から逃げるという手もあるが、その前に斬られるのは必定だ。たとえ七人いても、一太刀で殺す。 たとえそれが可愛い部下であったとしても(しかも可愛くないが)、気に入らなければ遠慮なく殺す。それが日明蘭という女性だ。
 毒丸は涙ぐみながら思った。

 ……調査書、頼んで正解だったな。

 彼の予想通り、全員一週間入院する嵌めになったのである。