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近円寺公が大量の紙と絵の具と絵筆を買ったので、子供たちのあいだでお絵かきは一大ブームになっていた。 「出来たー」 カミヨミの相談に来た零武隊は、あまりに熱中する子供たちを止めさせるのは気を引けて、今描いている絵を描き終えるまでは待てと蘭が命令した。 四人はちゃぶ台を使ってせっせと真剣に筆を動かしていた。ちゃぶ台の真ん中には猫の置物があり瑠璃男はそれを模写している。他の三人は自分の好きなものを描いているようだ。床には、色々な作品が散乱していた。 菊理は自分の作品を持ち上げると、蘭のところへやってきた。 「出来たのー」 零武隊は、子供たちのいる部屋の隣の部屋で、熱い茶を飲みながらその様子を眺めていた。少女が来ると、蘭はふわりと笑みを浮かべて振り返る。 見て見てといいながら差し出す絵を持ち上げた。 「どれどれ。 おや。とても綺麗な花だな。何の花だ?」 「きくの花ですのー」 青や赤の絵の具が黒の墨に滲んで少々不気味だが、形はまあ菊らしい形をしている。 菊に青はないよなーと隊員たちは思ったが、隊長は全く気にしておらず幼女を絶賛していた。上手い、流石だ、よくやった。それでこそ姫だ。 他の子供たちも次々に出来上がって、ばたばたとやってきた。 「見ろっ。できたぞっ!」 帝月は両手で頭の上に掲げて、部屋の全員に見せ付けた。 「船だな。帝月」 「そうだ。格好よいだろう。凄い速さで進むんだぞ」 「良く描けているではないか。海と空が、素晴らしい色をしている。……船に乗っているのはお前なのか?」 「ああ! 勿論瑠璃男も天馬もいるぞ」 自信満々と答える少年の頭を、撫で撫でしてやる。座っている蘭の周りで子供たちがじゃれあいながら他の子の絵を褒めあった。 「菊理。綺麗な花だな」 「天馬様の林檎も素敵ですー」 最後に遅れて、泣き黒子を持つ少年が会心の出来を携えてやってきた。 「瑠璃男」 と、始めに気づいたのは主人。 「坊ちゃん、見はってや」 瑠璃男は目じりを垂らして帝月の下へ急いだ。 彼は主人の目の前で、自分の作品を堂々と広げる。「おぉぉぉ」と三人が同時に感嘆の声をあげて唱和した。気になって、隊員たちも覗き込む。 「これは……」 大人たちも驚かせることが出来て、少年は得意気だ。 それは十分賞賛に値する絵だった。猫の置物が、置物の形を超えないのに、存在感を持って紙の中に鎮座している。その明暗の色使い、一体彼はどこで身につけたのだろう。 「凄いな。上手だ」 「うむ。今度私の家に守り神の札を描いてくれ」 「天才じゃないか?」 調子に乗る瑠璃男を帝月がこつんと叩く。そこに天馬が入ってきて、さらに菊理が笑って、部屋は和やかな空気に包まれた。 「さて。姫。では出かけようか?」 騒ぎが一段落つくと、蘭がそう切り出した。菊理は彼女の膝の上で、自分の作品を嬉しそうに眺めていた。 くるり、と首を回して見上げる。つぶらな瞳がおねだりをした。 「ねえねえ。お母さまも描いて」 その目に蘭は非常に弱いのだが、困った顔で苦笑して、姫、と窘めるように言った。もういい加減出かけなければ隊員に示しがつかない。 「まあ大佐。 一枚くらいなら良いでしょう。今日は急ぐ用事もありませんから」 と、丸木戸が声をかけた。 他の隊員も、口々にどうぞどうぞといっている。そう、確かに今日は急ぐ必要はない。このヨミが終われば帰っていいし、ヨミも明日やってもいいものだ。 ……まあもう少しなら遅れてもいいか。 すまんな、と周囲に言ってから、蘭は少女の顔を見た。 「よしわかった。何が描いて欲しい?」 そういうと、ぱっと少女から微笑が零れ落ちる。 「じゃあじゃあ、菊理、虎を描いて欲しいの。お兄様が虎の絵を持っているの、でもお兄様のよりもずっと恐ろしい虎が欲しいの」 「虎か」 少女を抱え上げて立ち上がらせると、隣の部屋に行く。少女は目を輝かせながらその後をついてきた。 ちゃぶ台に座り、紙を用意する。 絵を描くのは久しぶりだ。 今まで瑠璃男が使っていた絵筆をとり、墨をたっぷりつけてさらさらと流れるように描き始めた。彼女らしい豪快な筆遣い。紙に見る見るうちに線が引かれていく。 絵を自慢していた子供たちも、隊員らも、いつの間にか蘭の周りに集まっていた。集中していて彼女は気づかなかったが。 ……げ。 と、誰となく、心中呟く。 隊員たちは互いに目配せして合図するが、誰もそれをとめることは出来ない。子供たちは、紙を見つめたまま完全に固まっていた。 微妙な空気と沈黙が流れている間に、かたん、と筆が置かれる。 絵が、完成したのだ。 蘭は満足そうな笑みを浮かべて、紙の端を持って菊理の方へ振り返った。 「よし。出来たぞ」 子供たちは少々蒼褪めていた。強張った表情をしていた。 そして全ての元凶であるその絵が眼前に来た途端、彼らは――― 『うえぇぇぇぇぇぇぇ―――ん』 案の定、泣き出してしまった。 隊員たちはため息をつく。 成る程、上手だ。 少女の望みどおり恐ろしい虎だ。とても生き生きとした。虎が生き生きと人を食い殺している絵だったのだ。画題もかなり問題があるが、画力がさらに大きな問題を起こしていた。リアル画に残酷絵を組み合わせ、そこに墨でいかにして作り出したのか知れない気色の悪い文様を配置し、筆で精緻に濃淡を生み出している。 そんな虎がぎょろりと大きな目で睨めば、子供が泣くのも納得がいく。 「に、似ていないか? ちょっと恐ろしいが、虎だろう?」 「ふえぇぇん。えーんっ」 おろおろとしながら蘭は絵を見せて慰めようとしているが、全く慰めになっていない。逆効果だ。 「……その絵じゃ子供泣きますよ」 至極最もなことを丸木戸は言って、上官から絵を取り上げた。絵を別の隊員に渡し、子供たちの前で跪いて優しい声を出す。 「はいはい。もう怖い虎さんはいなくなったからねー」 その声が聞こえると、我先に駆け寄って、ひしっと教授の胸を掴む少年少女。 背中を擦ってやると、泣き声は次第に嗚咽に変わった。 余程怖かったのか、菊理は他の子が泣き止んでも泣いている。天馬と帝月は丸木戸の胸から離れ、必死に幼女をあやした。天馬に撫で撫でされても容易に止まる様子はない。 「大佐ぁ、あんた……」 嗜めるような声で丸木戸は蘭を見て、思わず、口がそのままの形で止まった。 頬は真っ赤に、目に涙を滲ませて。今にも泣き出しそうだ。 ―――そのありえない表情に、丸木戸をはじめ隊員全員が引いた。 ちょっとカワイイ……と、思って、すぐに一生懸命否定する。この鬼にそんなこと考えたら本気で寿命を削りかねない。 「うわぁぁぁぁ―――ん」 菊理がまた大声で泣き始める。 はっとなって、丸木戸は直ぐに少女を抱きしめた。 その間に、蘭は立ち去ってしまっていた。 「もういい加減お仕事してくださいっ!」 「元帥府からの直々のお呼びです。ここをお開け下さいっ」 「もう誰も泣いてませんからっ」 その後、押しても叩いても斬りつけても燃やしても爆破しても開かない開かずの間が零武隊の官舎に出現したという。 |
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