・・・  アルバイト  ・・・ 


 「嘘だろぅ…」
天馬は卓袱台のそれを見ながら、頭を抱えてうずくまった。
 目の前にあるのは、財布と給料袋。そして家計簿に赤い色鉛筆。
 長さ五センチメートルにも満たないそれをおずおずと持ち上げて、震える手で広告用紙の後ろに書いた計算を見直した。だが、悲しいことに、いくら見直しても、単純な計算がゆえに間違いはない。

      米代        255厘
      魚代        595厘
      水道         50厘 (予定)
      手伝い       100厘
      合計       1000厘

 手伝いというのは、洗濯物と庭木の手入れをお願いしている近所の老婆のことだ。週一回洗濯や掃除までやってくれて、一円というのは破格の安さだろう。彼女がいなければこの家は瞬く間にゴミ捨て場と化すことは想像に難くない。
 天馬は恐る恐る封筒を手にした。
 給料袋。軍の給与は25日に支払いが出るので、母親が寝た隙を見計らって鞄からひったくった。金銭感覚0の蘭にも足せておくとろくなことが無いのは嫌というほど身にしみている。
 が。
 袋から出てきたのは10枚の1円札。
「10円って……どーして基本給の半分以下に下げられているんですか」
給与明細を必死に探したが出てこない。となると、蘭が隠した可能性が一番高い。
 ここから導かれる答えは一点だ。
 来月の25日まで収入が無い。
 あごに手を置き、居間中をうろうろ歩き回りながら、考えた。少年は、家計簿をつけているときだけはこうしていないと落ち着かないのだ。
「どうしよう、来月。何か特別に出費するものあったっけ……? 今のままなら、なんとか食事さえ我慢すれば、大丈夫かもしれないが。いざとなれば菊理のところに行けばなんとかなるし。
 ……ああ。でも薪ぜんぜんないんだよな。炭もないし。十一月だってのに。正月の準備もそろそろかぁ。
 まあそのくらい―――」
強く玄関がたたかれる音がした。
「……さーい。いませんかー」
耳を澄ませば、どうやら誰かが呼んでいるらしい。
 あまりの家計の恐ろしさに必死になって気がつかなかったようだ。
 天馬は慌てて袋にお金を入れなおし、とりあえず居間の箪笥の奥に隠して玄関へ急いだ。
 玄関に立ってみると、見知らぬ男が立っていた。
 年のころは四十くらいか。いい着物を着ている。軍服や制服を着ていない来訪者は珍しかったが、逆に男にとっても、こんな少年が軍服を着ているのは珍しいようだった。
 扉が開いて、天馬の姿をみた彼の動きが止まる。
 その反応は珍しくなくて、天馬は曖昧な笑みを浮かべて丁寧に尋ねた。
 「あ、あの。遅くなって申し訳ございません。ちょうど、奥にいて聞こえなかったもので。
 どちらさまでしょうか?」
はっと彼にも営業の顔に戻る。
 柔和な表情で深々と一礼した。
「……いつもお世話になっております。
 本当は電話をして伺いたかったのですが、番号を、職場しか伺ってないもので。いつものとおり、突然ではありますが訪ねさせていただきました」
「はあ」
いくら記憶を掘り起こしても、男に見覚えがない。
 生返事を返す少年に一枚の名刺を差し出した。杉を薄く切った長方形の板に、太い筆字で二文字並んでいる。
 葵屋。
 天馬は名刺を受け取りながら、血の気が引いていくのを自覚した。この店の名前には……覚えがある。
「毎度ご利用いただきありがとうございます。
 今月分のお代を取りに上がらせていただきました」
「ぐっ!!」
予想していたとおりの言葉を聞いて思わず呻き声が漏れた。
 言われてみれば、確かに男の格好は料亭の使いのようにみえる。丁寧な言葉遣いも、落ち着いているがどこか派手な柄をした着物もそういわれればぴたりとくる。いつもはもっと年老いた老翁が着ていたので気づかなかったのだ。
「あ、あの……いかほど……」
「七円になります。
 今月は幾度も足を運んでくださいましたから。
 本当に良い蟹がはいったときに日明様にお越しいただいて。
 味の違いの分かるお客様に召し上がって頂けた、と、板場一同が非常に喜んでおります」
真っ青になる天馬をよそに、営業トークをかます。まさに立て板に水といったかんじで、少年が逃れる隙がない。
「も、申し訳ございません。
 すぐでなければならない用があるので。……御代、とってきますね」
「あ。
 これは気づかず。天馬様ですね。お話はかねがね伺っておりまして、つい知った顔のように話してしまいました。私、葵屋の今の店主の息子にあたります。近頃七代目を継ぎました。以後お見知りおきを」
「ご丁寧に、ありがとうございます。
 ええと、その、母が、そちらには一人前になったら連れて行ってやるとよく申し上げております。母はそちらの魚料理に目がないようで」
「そう言って頂けると幸いです。
 楽しみにしておりますね、天馬様」
ちくちくと胸が痛ませながら、天馬は男を後にして居間に戻った。なんてことを言ったのだろうと後悔半分、こうする他に手段が無いじゃないかと諦観半分。抽斗を探って、例の薄い給料袋を取り出す。
 ―――七円。
 正直、これほど痛い出費はない。
 それを両手で目の前に見ながら、情けない声で呟いた。
「どうしよう……。お米代くらいしか払えないよ」
だが、今は、玄関の男を帰らせる方が大事だ。ぐっと真一文字に唇を閉じて、天馬は袋を開いた。