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「ただ今戻りました」 九時を回った頃、蘭はようやく家に着いた。 帰宅間際になってとんでもない仕事がきた。激が他の部隊と喧嘩を起こして、大量の始末書をこしらえたのである。不祥事が日常茶飯事の零武隊でも、他の部隊との喧嘩は問題となる。蘭まで元帥府に長時間小言を言われて、ようやく開放されたのだ。 戻ってみると、なにやら家の中が騒々しい。 玄関にも複数の靴がある。 (軍靴―――?) 見覚えのあるその形に、いやな予感を抱きながら上がり、居間に向かうと。 「お帰りなさいませ。少佐。 先に頂いてます」 「おかぁーえり。この肉旨いっすよ。何せ百グラム1円ですから」 「こら。値段の話をするな」 「なっ!?」 激と現朗――― 激は先ほどまで顔を突き合わせていたはずだが、あのしょぼくれた顔はどこにいったのか、意気揚々と鍋に肉を入れている。 座卓は牛鍋が用意され、すでに三人は始めているようだった。酒瓶も見える。日明のお気に入りの酒で、よほどの客でない限りださないものだ。 「……お二人が良い肉を持ってきてくれたから、牛鍋にしたよ。 早く座って。さあ」 唖然として動けない蘭に、婚約者は席を勧めた。 「き、着替えてくる」 「いいから。座って」 乾いた、有無を言わせない声。殺気も敵意もない、だが迫力のある声に現朗と激すらも姿勢を正した。妙な空気が漂う。 彼がこう言い出したら選択肢はない。 蘭は諦めて、空いている座布団を前に膝を折った。 「結婚式の日取り。十日ずらすことにした」 ―――座るや否や、爆弾発言。 部下二人は、直撃にびびって男の顔を見る。日明は笑っていたが目は笑っていない。 一番驚いたのは勿論、蘭だ。 「じょ、冗談はよせ。 もう招待状は送ったんだぞ。しかも式場の予約までしたではないかっ。何故いきなりそんなことをっ」 机に手をついて身を起こしながら非難する。だが男にはどこ吹く風だ。 「すぐに新しいものを送れば大丈夫だよ。まだ皆様からの出欠のお返事はいただいていないし。それに三ヶ月前だから式場だってなんとかなる。 ……それとも。 君が無謀な作戦をやめてくれるとでもいうのかい?」 「な、な、なんのことだっ!」 「……なんのことか言わせないでよ。お願いだから」 白をきろうと思っても、目の前に二人も証人がいては分が悪い。忌々しそうに現朗をにらみつけた。 「……軍の機密事項を口外するとは……」 が、相手は全く物怖じしない。卵を新しく割り、少佐に差し出した。 「何もいっておりません。 単に、零武隊全員出席できない事由が発生しましたので、お詫びに松坂牛を持ってきて話したくなりました、といっただけです」 「ちなみに俺は何も話してねーぜ。今来たとこだし」 彼女が卵の入った器を荒々しく受け取ると、そこに激が横から肉と野菜を入れる。見事な連係プレーだ。 「と、聞いただけだよ。 特に何も聞いてない。 聞いたといえば、なんか知らないけれど八俣と飛天坊の招待状だけ二十五日なっていて、休日になんないのかっていう嫌味の電話が二本かかってきたことくらいかな」 日明の一言に、全身が固まった。 ……全てが、ばれた。 ほくほくと湯気の立つ牛肉を目の前にして、彼女はさすがに箸をとれない。日明は蘭を無視して自分の器の野菜を食べ始めた。 彼につられて激や現朗も食事を再開する。 美味しい料理を前にして、無言。 嫌な時間だった。 武人二人の怒気と殺気が入り乱れ、さすがの激といえどもこの沈黙を破ることはできない。時折現朗になんとかしろよとSOSの合図を送るが、現朗は一蹴した。 何も話すな。待て――― と、態度で示す。 数十分その状態が続いて、あらかた鍋の具が消えた。生野菜や肉を置いていた皿はすっかり綺麗になっている。よく食べたものだ。 かたり、と小さな物音が大きく響いた。 日明だ。 器の上に箸を置く、たったそれだけの音だ。だが、緊迫した空気の中、その音は十分人々の動きを止める力がある。 彼はようやく婚約者を見る決心がついたのである。 「……人の気持ちは変わるものだから、いいんだよ」 と、囁くような声で言った。 蘭は視線をあげた。許してくれるのか、と少し期待をして。基本的に自分に甘いのだ、と内心赤い舌を出しながら。 「やめようか。結婚、するの」 が。 続く言葉の意味はさっぱりわからなかった。 「はぁ?」 予想外の台詞に、蘭のほうが戸惑ってしまう。 沈痛な面持ちで日明は周りを見ず、独白を続けた。 「八雲。それとも、飛天坊? 蘭さんの顔の好みからいけば八雲か。そういういことは遠慮しなくていい。いや、友人だからこそ遠慮は嫌だ。 確かに俺はずっと君から離れていて、君の頼りになってあげられなかった。……ずっと。 これからは絶対そういうことはしない……けど……でも、惚れてしまうのは仕方ないよ。いい男伊達だからね。俺が保証する」 「い、いや、何をいっているんだ?」 「……それじゃあ零武隊の誰か? 結婚式に呼びたくない、ってことはそういうことなのだろ。 蘭さんは心変わりした、って」 ぶっ―――と激が噴出す。 現朗が慌てて友人の頭を殴り、布巾で飛び散った白菜を片付けた。 「……好きな人に一緒になれるのは幸せなことだと十分わかっているから、君もそうなって欲しい。 俺の我侭には付き合わせられない」 「部下の分際で口が過ぎるとは自覚しますが、少佐がそういう対象には天変地異がおきても……」 「尊敬が恋愛に変わることは案外簡単だよ」 と、日明は現朗の意見を一蹴する。 「それは一般論ですが現実を見てください。 なにより、少佐を尊敬する部下がいるかどうかだって危ういと存じます」 何気に酷いことを言われてないか、と一瞬蘭は思う。 思うがそれにいちいち突っ込んでいる余裕はない。 激は笑いをこらえるのに必死で畳にうずくまっていた。ひぃひぃ引き笑い特有の不気味な音を上げている。 とにかく、日明は何か誤解している。彼女は何を言うべきかわからなかったが声を上げた。 「日明、待て。 なんでそうなるっ!? 単に呼びたくない招待客のほんの少し妨害をしただけだろうが」 ほんの少し、か? と部下の鋭い目が少佐に突っ込みを入れているが、誰も気づかない。 「妨害を画策するなんてっ。どう考えても非常識じゃないか。結婚式にここまでして呼びたくないとは、そういうことなんだろうっ!? 腹は括ったんだ、はっきり言っておくれ。誰だい? せめて名前だけでも」 潤んだ瞳で詰め寄られれば、さすがの彼女も勢い負けをしそうになる。 しかも本気なのだから性質が悪い。 「そ、そんな奴はいないし。 いや、そもそも、お前と結婚するとかが嫌だからしたんではなくて、こいつらが好きじゃないからこういういことをしているだが……」 「優しい嘘はいらないっ」 いやいや、と首を振る。 日明中佐って人の話を案外聞かない方なんだな、と現朗は冷静に分析する。現実逃避とも言う。 「嘘じゃないっ」 ばんっ、と蘭は机を叩いて立ち上がった。 応じて日明も立ち上がる。 「嘘だ。 蘭さんが嫌いな相手なら上司関係でも軍関係でも、親族にも五万といるのに、どうして二人と零武隊なんだい。はっきりとした理由がないじゃないか!」 確かに一理ある点をつかれて、彼女はぐっと息を呑んだ。暴走しているわりには良く切れる。 蘭は少し気を落ち着かせてから、言葉を選びながら言い訳を始めた。 「……確かに、嫌いとは、ちょっと違うかもしれん。結婚式を、見せたくない奴等、だ。そういうのはいるだろう? お前にも」 「好いた相手には、見せたくないよね。別な男との結婚なんて」 だが、その言葉はさらに誤解を深めただけだ。 「ちぃ〜がぁ〜うっ!」 「……そ、それとも、まさか結婚式に盗みにくるとか……。 そんなに俺が嫌いかっ!」 「お、お前と違って、わ、私は、ああいう格好なんだぞ。 は……恥ずかしくたっていいだろうっ!」 「そんな子供染みた理由を言い訳にしないで。 本当のことを言ってくれっ。蘭さん」 子供染みた――― 何気ない一言だったのに、胸にずぶっと突き刺さる。 蘭の目が見開かれた。 現朗は苦笑を浮かべた。 激は声を上げて爆笑した。 「どうせ俺は君の気持ちには鈍感だし、わかってないし、長い間放っておいた。嫌いになるには十分だ。 一生懸命気持ちを伝えたつもりだけど、どうせそれだって鬱陶しかったんだろ? そもそも、結婚してくれるなんて、愛想だったのかい? つきあい?それとも同情か、哀れみか。君は本当に優しいからね……」 鬱々と日明が続けるのを無視して、彼女は、くるりと背を向ける。 耳まで真っ赤だ。 きつく握られた白い拳がぶるぶると震えている。 殴るか、蹴るか、刀を抜くか。どちらにしても暴れるな、と部下二人は思いながら逃げる体勢をとる。いつもの行動パターンから考えれば少佐の忍耐時間は十秒程度だ。 おもむろに、蘭の足が動き、部屋の隅へ向かった。 成る程、家の柱を蹴り倒すんだな。と、激は思う。 が、すとんとその場で腰を下ろす。 そうか、低い位置から拳銃で全員の急所を狙うのか、と思いながら近くにある棒を引き寄せて身構えた。 だが彼の予想に反して、蘭は膝を抱えて丸くなるとそのまま動かなくなってしまったのである。 …………激と、現朗までもが目が止まった。 何だこの態度は。 「……蘭さん?」 さすがに日明も許婚の異変に気づいて、暴走がぴたりととまる。 「あ。えーっと、あの。い、言い過ぎた?」 ころりと雰囲気を変えて、日明は蘭の元に近寄る。が、動こうとはしない。 膝を着いて、おろおろと彼女の周りで気を引こうと必死になる。ただ、さすがに悪いと思っているので、簡単には触わることができない。横から顔を覗き込むが表情はまったく伺えなかった。 しばらくすると、小さな声が聞こえた。 「……言葉で追い詰めない、のは、約束のはずだ。 違うといったのに、信じてくれねばどういえばいい。 私 は ……口は苦手だ。弁が立つお前に勝てるか」 くぐもった声だが言葉ははっきりきこえる。 それは、後ろの部下にもだ。 「ご、ごめん。 つい、その、勢い余って。約束忘れたわけじゃないんだ」 「……部下もいるのに」 「本当に御免。記憶は消させるからっ!」 激は思わずひぃっと声をあげて現朗にしがみつく。日明の強さは軍内部でも有名だ。 「確かに。 見せたくないからといって招待状を出して妨害工作をなさるのは子供じみている、といわれてもしかたありません。 ですが、どなたでもそうでしょう? 結婚式前になれば、ストレスと不安で、そういう行動をしてしまうものでしょう? 少佐の場合少し特殊ですが。 実際、日明中佐がこのような失態するのだって不安だからではないですか」 現朗の冷静な声が、蘭の耳をうつ。 しぶしぶと顔をあげて、部下のほうに顔を向けた。 漸く天岩戸が開いて日明は喜んだが、むしろ現朗はすこしがっかりした。 (泣いては、ないか。流石に) こんな機会は滅多にないのだから、泣き顔まで見てみたかったのだ。 「少佐も人の子だったということで良いでしょう」 「……貴様らは自主的に欠席する、と考えていいのだな?」 「それとこれとは違います。 招待状が来た以上何があっても行くのが帝国軍人の義務です」 ぴしゃり、と金髪はいう。ここで負けるわけにはいかない。 「……出したくなかったのに」 もそもそと足を戻し、再び席についた。 日明を無視して、器に残った食事を平らげる。 しばらく三人はその場にたたずんでいたが、激が視線で戻るように合図した。現朗が台所に行き、そして、激が鍋に火をかける。 台所から饂飩をとって戻ってくると、鍋にいれ割り下で味を絡めた。いい香りがたつ頃、しぶしぶ日明も蘭のそばから離れた。 この饂飩の味付けは激の得意分野だ。出来立てを一番に少佐の器に盛った。 「笑ったりしねえって。少佐」 屈託のない顔で、差し出す。 「案外似合ってんじゃねえの? 花嫁衣裳。きっと」 「……別に」 「似合ってるよ。だいじょーぶ。もうちょっと気楽に考えなって」 「貴様らが豚に真珠とか、猫に小判とか囃したてるのが目に浮かぶ」 「たはははは。信用ないなー。笑う奴なんていねぇって。 少佐もともと綺麗なんだから、花嫁衣裳着たら皆黙っちまうよ」 根拠も無く断言されたが、それは、嫌ではなかった。蘭は少しだけ拗ねた表情を見せたが、それ以上何も言わない。饂飩を食べ、もぐもぐと無言で咀嚼する。その様子が、なんとなく激には愛しく覚えた。 「それより。こんなに男を心配させるなんて、案外小悪魔っすねぇ」 「……くっ、口が過ぎるぞ」 なけなしのプライドで言ってみるが迫力はない。日明中佐の器や現朗の器にもよそいながら、全く聞き流されてしまった。 「美味めぇなぁ〜」 「自分で作ったものにいうな」 「なんでぇ。俺鍋に関しては天才よ。 すき焼きひとつだって、京都風から白川風。関東風の割り下だって十五種類以上分けて作れるんだぜ」 「白川風?」 聞きなれない言葉に、日明が思わず会話にはいる。 「ああ。岐阜白川郷の山口家の伝統、ていうか、そこのおばさんの上手いんですよ。名古屋的で京都っぽいのがまた」 「……本当に美味しいぞ」 と、蘭が口を開いた。 少しだけ、はにかみながら。 「今度行こう。日明」 |
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