|
||
「十一月十五日?」 「そうだ。 いいだろう?」 と、女は甘えるように尋ねながら小首を傾げると、さらりと長髪が流れた。 眼前に座っていた男はその一瞬の所作に思わず心を奪われてしまい、それを誤魔化すためにあえていそいそと立ち上がる。 女の腰には長刀が一本、物静かに鎮座していた。水色の着物姿にはまったく似合わない大きな刀だが、それは彼女の動きを邪魔しない。その物腰だけでも相当の手練だと如実に知れる。事実、彼女に剣術で勝る者は軍でも多くはない。 蘭少佐。日本軍の中でも特に荒くれ者だけが集う零武隊を率いる若き軍人である。 そして、目の前にいる男、日明中佐は、数少ない蘭が歯が立たない男の一人だった。彼が予定がびっしり書き込まれた長月の頁を二枚持ち上げると、空白の目立つ霜月が顔を出した。 「三ヵ月後……の日曜日、か。大安じゃないけれどちょうどいいね。わかった。仲人さんに言っておこう。 ……って、この日は何か特別な日?」 「いいや。全く。 思いついただけだ。 しかし、これで日付までは決まりだな」 蘭は卓袱台の湯飲みを持ち上げて、美味しそうに麦茶を飲み干す。 深夜二時を過ぎて、開かれた障子から皓皓とした月明かりに照らされる庭が見えた。半月なのにずいぶん明るい秋の月だ。虫は夏の最後を惜しむように必死に奏でていたが、もう数日もすれば野分が吹いて辺りは一変してしまうだろう。香取線香がゆらゆらと立ち上って虚空に消えていた。 二人は近日結婚することが決まった、婚約者同士である。 実は、婚約自体は以前から決まっていたのであるが、日明の遠征が入って延期されていた。すでに蘭の荷物は日明家にあり新婚生活はとっくに始まってしまっている。今更という感もあったが、両家ともそれなりに名の通った家柄である以上披露宴を披かないわけにもいかない。 日明が遠征から戻り、昇進して蘭より一つ上の階級になったのをきっかけに、結婚の準備が再開されたのである。 「さてと、日取りも場所も決まったし、挨拶文の役割なんかも大丈夫だから。 これで今日はもう終わりでいいかな?」 日明はカレンダーを戻すと、腰を伸ばす。ぐきっといい音が響いた。冷たい目でその様子をみて、ふう、と大仰にため息をつく。 わかっていない。日取りや役割が決まったということは、今ようやくスタート地点についたに過ぎないのだ。 「まだ一番の問題が残っているだろうが。 さあ、これから招待客リストを作るぞ。親族はともかく、関係者の多くは被るからな。まあ式場の場所からいって三百五十人くらいか」 蘭は決まった日取りを筆でノートに書きつけた後、てきぱきと机の上の書類をまとめて冊子に挟みこむ。日取りが決まれば、式場の予約、招待状の作成と忙しくなる。今日のうちに招待客の決めておかなければ次二人が時間がとれるのがどれだけ先になるかわからない。 ふう、と腹の底から彼女は息をついた。 想像するだけで疲れる作業だ。 軍の仕事や作戦会議ならあれほど楽なのに、なぜ、結婚式というだけでこうも疲れてしまうのだろう。 「楽しみだね。蘭さん」 唐突に、声は耳元から聞こえてきた。 咄嗟に振り向くと、至近距離には整った顔があった。 彼女は驚きながら身を離す。いつの間に、なんて思う暇すらない。 間合いを超えた近さに、蘭の心拍数が急上昇してしまう。 しかし、彼は離れる動きにあわせて近寄って、その距離を保とうとする。わざとだ。こうやって婚約者とじゃれるのが、何よりも日明は好きなのだ。 「楽しみだよね。そう思わない?」 「そ、そうだな。……まあ、面倒だが」 「どうしてそういうこと言うのさ。 楽しみだろう……花嫁衣裳。 すごく素敵じゃないか。この前お義母様に見せていただいたよ。早く見たい」 言葉とともに息のかかる距離。 彼女の顔が赤く染まっていく様を見ながら、彼は優しく微笑んだ。 「あんな素敵なものがあるのを黙っておくなんて、人が悪い」 「当日になればわかることだろうがっ」 むっとした声で返すが、怒っていないことは明らかだ。 昔から母親に貰い継ぐ約束だった。幼心にもそれはすばらしい一品で、母親が恥ずかしげにその思い出を語ってくれるのにうっとりしながら耳を傾けた。そして夢の中で自分がそれを纏う日を思い描いた。 その白無垢を、一番見せたい人が見たいといってくれている。嬉しくない、わけがない。 (恥ずかしがり屋だなぁ……) と、日明は思ったが口には出さない。そこがまた彼女のいいところだ。だが、にへらっと浮ついた表情になってしまうのは押さえ切れなかった。夫の緊張感のない表情から察した蘭は、面白くない。 冊子から招待客リストを取り出して、眼前の日明につきつけた。 空白の一覧表。 …………はあ、と今度は彼が溜息をついた。 「では招待客リストといきましょうか」 「さっさとするぞっ!」 ***** 蘭は別の紙を取り出して、一人一人読み上げていく。 仕事の空いた時間をぬって、彼女が呼ぶべきだろうと考えた人間をリストアップしておいた。一瞬で誰かを判断して、日明が空白の招待客リストに書き込んでいく。問題の起こりそうな相手には手を止めて二三尋ねる。軍の関係者はそれなりに階級があるし、派閥争いや陸軍の対立など人間関係も複雑なので厄介なのだ。 リストは親類、友人、軍関係者、その他の項目に分けていた。 「これで、一応私の方は終わりだ」 「二百六十人、か。丁度よい。 呼ぶつもりで今リストに挙がっていない名前は、三十二人だからね」 日明が言いながらリストを渡す。今度は蘭が書き込む番だ。随分はっきりとした数字に、少しだけ疑問を覚えた。 「じゃあ友人に八雲と飛天坊を」 「げ。あれを呼ぶのか?」 「……あれって」 蘭は渋って名前を書こうとしない。 二人は日明の古くからの友人だが、何故か彼女とは相性がよくない。彼は、むしろ相性が良過ぎて悪いのだろうと考えていた。同属嫌悪。たしかにそれは、核心をついている。 「問題起こすだろうが。飛天坊は臭いし、八俣は軍人と仲悪いし。 嫌だぞ、喧嘩なんか起こされたら。呼ばなくてもいいだろう」 「二人だって俺の結婚式を邪魔するほど命知らずじゃないよ。 ここは譲らない」 「……っしかし。その、やはりもっと呼ぶべき人がいるだろう? 二人分も勿体無いじゃないか」 「譲れない。勿体無くない。喧嘩は起こさない。そんなに心配ならば家に呼んで誓約書の一つや二つ書かせるけど。 俺の親友なんだ。どうしても、呼びたいんだよ」 うぅぅ、とうめくように唸って蘭の手が止まる。 蘭はわかっていないのだ。 披露宴には確かに世間一般に結婚をした報告であると同時に、他の男たちに彼女の所有権を知らしめるための儀式であることを。 それをいちいち説明すれば嫌がるので、日明は黙って彼女の目を見つめた。書け、と促す。 だが、手は動かない。 「お前のところの部下はどうだ?」 話を変えるように質問してきた。しかしその質問も、地雷だ。 「部下はさっきの時点で全員書いた。軍人関係の二頁目は部下の一覧だ。 むしろ三十人というのは、蘭さんのところのさ」 リストの文字をとんとんとたたく。 「零武隊の人が、一人も名前が見えないよね」 「え? そ、そうかな」 蘭の声が一瞬上擦った。男の視線が、鋭くなる。 誤魔かすべきではないな、と咄嗟に判断して蘭は口ごもるように言った。 「……その、なんかうちの部下はあれでな。 喧嘩が早いし、堅苦しいところは嫌だから、日を改めて祝いたい、という申し出があったんだ。正規の軍隊とは、よくいざこざをおこすだろう? だから呼ばない方針で」 「だからこういう機会から身近になるように親交を図っておくべきだろう。 まさか、そんな申し出を真に受けて、呼ばない、なんていうつもりはないよね?」 子供をたしなめるような口調で言いながら、日明は静かに彼女を見つめた。 逃げられない、だろうな。 友人欄に飛天坊と八俣の名を書き、そして、ちらりと上目遣いで婚約者を推し量る。彼は微動たりしなかった。 蘭は筆をおいた。 「その、やはり、部下は……招待できない」 彼が疑問を覚えないわけがない。 駄目だよ―――と思ったが日明は口を開かなかった。許婚の隠し事は、自分で自覚している以上に心を揺さぶったらしい。 婚約してから随分経ってしまっている。 もしかしたら――― (もしかしたら―――) 想像しそうになって心を無理やり静めた。 虫の音が、一瞬全て消えてしまう。勿論、彼女もその異変を感じ取った。日明の殺気が一瞬暴走気味に膨れ上がって、それがまた瞬く間に霧散したのだ。 日明が武人として神がかっているのは、この笑顔が、作り物ではないということだ。そして先ほど感じ取った殺気もまた作り物ではない。いくつも同時に感情を持ち、かつ一瞬で最良の手を探し出す判断力。 顔は笑顔だし雰囲気も笑顔なのだが、彼は、今、ものすごく怒っていることは間違いない。 「わかった。今日はお疲れ様。招待状は送っておくよ。勿論零武隊の方々にも送るから」 うっ、と蘭は喉でうめく。 「招待しても、多分、来ないと思うが」 「欠席ならそれでもかまわないさ」 「しょ、招待状は私が送ろう」 リストをひったくろうと手を伸ばそうとする。 が、二度目の殺気の波が襲った。指を止め、あわてて部屋の隅まで逃げた。 これ以上彼の逆鱗には触れられない。笑顔のまま、彼女を家に閉じ込めることを冗談抜きでする夫だ。 いきなり壁際に逃げ出した彼女を、不思議そうに見ながら尋ねる。 「どうしたんだい?」 男の瞳の中が、わずかに光ったように見えた。 それは、透き通った闇に潜む光。 怒りの焔だと蘭は何故だかそう思った。思ったと同時に電撃のように恐怖が全身を駆け巡った。 「いや、その、先に寝る。すまん、お休み」 思いつくままに言って、立ち上がるや否や彼女は走り出した。 廊下を駆け抜けて自室に戻る。 ばたん、と扉を閉じてすぐにその場にへたり込んだ。ここまでこれたのが、奇跡のようだ。腰に力が入らない。 いつのまにか、冷や汗で着物が濡れていた。早鐘のように打ち付ける血脈の音が、耳の中でがんがんに響く。 「久しぶりだと、やはり……堪えるな」 彼がなぜあそこまで怒ったのかよくわからなかったが――― 「………だが…嫌だな…………奴等は…………」 とにかく、正攻法の道は絶たれたということだけはわかった。 |
||
|