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陸軍特秘機関研究所の蘭の執務室に、朝から隊員全員が雁首そろえてやってきた。だが彼女は嫣然と笑っているばかりで何も言わない。精神的な用意はとっくにできていた。 十畳ほどの部屋には、一つの机と一つの椅子しかない。 壁には所狭しと愛用の刀が並べられている。本来おくべき書類を全て零武隊用の休憩室に移して、代わりに自分のコレクションを置いているのだ。軍部で与えられる個室をこのように私用に使うのは軍内でも稀だが、彼女の場合は文句を言う上官がいないので誰もとめることができない。 机は片付けられ、二つのファイルと筆立て、そして電話機がある。全員が入ってきたとき、彼女はそのファイルに目を通している最中だった。 現朗が一歩歩み出て、机を挟んで対峙する。 「有給願い届を持ってきました。 十一月十五日、結婚式に出席したいのでよろしくお願いします」 隊員代表、現朗。 彼が部隊でもっとも弁が立ち、頭が切れ、ある程度少佐の特性をつかんでいる。こういう任務は、少佐の玩具になっている激には無理だし、天井天下唯我独尊を地で行く炎や爆にも難しい。 「十一月十五日、か。……はて、思い違いでなければいいが、書類で伝えた作戦日ではないか?」 「そうですね。いきなり昨日伝えられた不審な作戦計画と一応かぶっております。偶然にも」 「作戦日に休暇するには、よほどの事由がないと認められん。 結婚式に出席する程度なら許可は出来んな」 言い終わるとすぐにファイルに目を通す。話を聞く気はない、という意思表示。後ろでは炎と爆とが刀を抜きながら踏み出そうとしたのを鉄男にとめられている。現朗は手を横に突き出して、とどまるように合図した。 ここで勢いに任せてしまわないのが彼のすごいところだ。 軽く深呼吸をして、ファイルから目を上げない上官に静かな口調で尋ねた。 「しかし、十一月十五日の作戦は、少佐はお休みするのではないのでしょうか?」 「ああ。実はよほどの事由があってな」 「指揮官がいないのに作戦を実行せよというのもずいぶんではありませんか? 少佐が来られない以上、作戦日は改めるべきです」 彼女はようやくファイルから顔を上げて、金髪の青年を見る。 ふっ、と口元がいやらしく笑った。 「笑わせるな。 天下の零武隊が私に負んぶに抱っこでなければ動けないというのか? あの程度の任務、子供でも出来るわ」 「指揮官が変わるのでは大違いです。子供でもできる任務であっても失敗する可能性がないわけではありません。 万全を尽くすべきで……」 なお言い募ろうとするのを遮って、蘭は殊更軽く言い捨てた。 「万全を尽くしてくれ。任せたぞ」 言いながら、判子をとって今まで読んでいた書面に押す。 奇妙な間が訪れた。 部屋の気温が数度落ちる。 現朗の目が据わった。 ここまでかたくなに拒否されれば、冷静な彼とて限界がある。 「……少佐、失礼なことは重々承知の上で言わせていただきますが、公私混同とはずいぶん卑怯ですね。 招待状を送っておいて、来るな、とは」 きらり、と彼の目の奥が光る。 蘭は首を上げた。 「……作戦が偶然重なっただけだ。私も驚いた」 きらり、と少佐の目も光る。 再三、沈黙。 膠着状態が続いていたが、先に折れたのは上官のほうだった。 ―――頑固者っ。 自分のことは百メートル以上の棚に上げて、蘭は内心毒づく。もっと早く諦めると思っていたのだが、部下どもは絶対に引きそうにないことが何とはなしに判った。無駄に、彼らの信念を刺激してしまったらしい。内心舌打ちをしながら、作戦の修正を検討する。 パタン、と蘭はファイルを閉じた。 「届出の受理はしよう」 だがその甘言にはだまされず現朗は注意深く尋ねる。 「受理したら必ず許可されるんでしょうね?」 「できればな。 さて、仕事に戻るぞ。実はD坂の殺人事件に妖刀絡みの可能性が出てきた。E坂の事件と同様にな」 「―――仕事で誤魔化すおつもりですか」 「現朗。丸木戸助教授を呼んで来い。すぐにだ」 彼の手にある有給届をひったくって、扉を指差した。 上官は表情はいつもの無表情だが、やはり隠しきれないのか、口だけは笑っている。それが男の怒りをさらに煽った。 だが、打つ手がない。―――今は。 現朗は冷たい目のまま敬礼をして、静かに部屋を後にする。 蘭は成功を確信して、部屋を見渡した。 「他の者はなんだ? 用件があるならばさっさとしろ。 ないなら、仕事をせんか」 小躍りしたくなる気持ちをぐっとこらえて、いつものようにつめたい口調で命令する。他の隊員たちも悔しそうに有給届を机に叩きつけ、次々に部屋から退出した。最後の一人が出て扉が閉じられやいなや、机にたまった隊員たちの有給届けを集め、ゴミ箱に捨てた。あとで焚き火にくべればいい。 「……ふっ。やっと終わったな」 誰もいなくなった部屋で蘭は清清しい笑顔のまま額をぬぐった。 あの部下の悔しそうな顔、殴りかかりたい衝動を抑えてにらみつける目。思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。作戦が成功した瞬間ほど気持ちのよいものはない。 白無垢。 普段軍服しかきたところを見せていない者達に、そんな姿を見せられるだろうか。否。どうせ二言目には似合わないとかいうに決まっている。日明には見てもらいたい姿ではあるのだが、他の奴らには絶対御免だ。 微妙な女心だからしかたがないのだ、とかなんとか理由付けて蘭はこの巨大な我侭を現実化しようと一昨日から一生懸命に画策していたのである。 「八俣と飛天坊には日付の違う招待状を送ったし」 にやり、と微笑む。 十五日の上に二を加えておいた。二十五日は休日ではないが丁度大安である。忙しい二人のことだからおそらく気づかない。 「さて。……仕事、と」 心の懸念が全て晴れ、意気揚揚と別の事件の調書を手に取る。 と、急に悪戯心が沸き起こった。引き出しを開けて油性のペンを取り出す。 さっさっと、達筆でファイルの一番上に名前を書いた。 零武隊 日明 蘭 まだ早いその名前を見ながら、優しい笑みが浮かんだ。 |
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