・・・  試して合点 2  ・・・ 


 そして。二日後。
「炎様、どちらへ行かれるのですか」
「炎様っ」
陸軍特秘機関で一番広い部屋を割り当てられている炎と爆の部隊のその部屋で。
 一人の男が歩く後ろへ、何人もの部下が駆け寄っていた。
 ただ動くだけでも人々が不安がるのには、理由がある。
 炎は通常何処へでもお供の者を手放さないからだ。お供を必要としないのは、唯一、サボるときだけだ。
 炎は振り返りながびしっと指さした。まるで定規がはいっているかのようにピンと伸びた腕の先は、大きな窓が並んでいる。
 ……が、男達にはその意味がわからない。
 疑問符を浮かべる部下達に、彼は真っ直ぐ前を向きながらいった。
「見ろ」
指の先、窓の外に広がるのは青空。ぽわわんと白い雲が浮んでいる。そしてその下、無数の建物で敷き詰められた帝都の町並みが遠くまで横たわっている。
 なかなかの景色であるが、周囲に高い建物はなく、三階という一番日当たりの良い部屋なので、それは彼らにとっては日常的に見慣れた光景だ。
 炎の意図はわからない。
 部下たちは互いに顔を見合わせて首をかしげた。ある者は目を凝らして必死に何か変わったものが見えないか探した。そうして暫くの時間が過ぎた。
 はあ、と炎が残念そうに嘆息すると慌てて上官へ顔を戻す。
「快晴」
それは嘘ではなくただ見たままの事実。ゆえに、余計に男達の疑問が深まる。
「気温24度」
肌寒いわけでもなく、かといって暑くもない。
「風力4」
少し強い和風だが、涼しいくて心地が良い。
「湿度50パーセント」
真っ直ぐ青空をみながら、炎はただ現状を言い表す。淡々と紡がれる言葉に、周囲の緊張は嫌がおうでも高まった。
 その雰囲気を肌で感じながら、彼は最も良いタイミングで謎を解き明かす。

「……こんな良き日に、俺が部屋に引き篭もって書類にサインをするような器量の狭い男とでも思うのか?」

 言いながら、ばちんと片目を瞑ってとどめの一撃。
 赤髪に王者の風格を宿す男が、こんな風に茶目っ気のある態度をとれば、そのギャップの破壊力は計り知れない。信者には効き過ぎるほど良く効いた。
 一瞬で虜になった男たちから、部屋中「いいえ」「まさかそんな」「まったくその通りです」と賛同の声があげる。
 炎は満足げに頷いた後、背を返して再び大股で部屋の出口へ向かった。もはや止める者はおらず、部屋の扉は数人の男が開いて待っている。
 伸びた背、揺ぎ無い信念に輝く瞳、人のものとは思えぬ曇りなき赤髪、そして、誰もの目を惹く王の気。
 残された部下は、その後姿をうっとりとした目で見送る。心は完全に奪われて、その姿に見蕩れたまま数分間動けないくらいだ。
 「…………おーい、炎。仕事を持ってきたぞ。
 あれ? 炎はどうした」
爆がこの部屋に戻ってきたのは、丁度、そんな時だった。
 白服に身を包む一番年若いエリートの男は、己の隊員の集う部屋の只ならぬ雰囲気に眉根を潜める。
 その声にようやく呪縛から解き放たれた男の一人が、振り向いた。
「ああ。
 炎様なら、只今外へ出られました」
「何かあったのか?」
「いえ。外が晴れているので部屋にこもって書類にサインすることは出来ないそうです」
当たり前ですといわんばかりの口調で告げられた言葉は、爆の想定の範囲を超えていた。目の前が真っ白になるなんて、ただの言葉の綾だと思っていたが、彼は確かに目の前の全てが白光で見えなくなった。
 二人は、朝礼後日明大佐に呼ばれていた。
 しかし炎は都合が悪いからと一人で行ってくれと爆に頼んだのだ。経験豊富な彼はわかっていたのだ、また面倒な仕事を押し付けられたことを。確かに、爆の腕には分厚い紙の束が抱えられている。厚さ五十センチを超えるその書類の束の全てにサインをして、さらに回答書を作るという、甚だ厄介で面倒で悲しくなるくらい空しい仕事だ。

 どうして、どうして、どうしてあいつは―――

 若きエリートの体内を憤怒と怨嗟が駆け巡る。
 一番合理的な手段は、部下に炎を探すよう命じその間に爆が仕事を片付けていることだ。優秀な頭脳はその回答を即座にたたき出す。
 それがおそらく一番早く仕事を終えることができるだろう。
 ―――だが、それを選ぶには、炎が逃げ出したという事実が邪魔をした。あまりにも腹が立っていた。
 爆は両手を頭上に上げて、全ての力を以って手にある書類を床に叩きつけた。

 キィィ―――ィン!

 持ってきた書類が床で凄い音をたてる。床も紙も無事だが、耳が痛くなるくらいの振動波が部屋中の男たちの全身を通り抜けた。
 紙とは思えないほど澄んだ音に、部屋の中にあった『全て』が止まった。
 和やかな空気も。
 男たちの顔に浮かぶ緩んだ表情も。
 炎の残していった王の残り香も―――何もかもが霧散する。
 
 部下たちは、唐突に、炎が居なくなった、すなわちまたさぼらせてしまったことを理解した。

 ざわめきが波紋のように広がる。所々であがる悲痛の声。
「しまったっ! また騙された」
「なんとっ。どうして俺はあの時…………くそっ」
「酷いっ。なんてこった!」

『これでは今日の炎様のお姿がもう拝めないではないかっ!』

「お前らはもっと違うところに怒りを感じんかぁぁぁぁぁっ!
 ―――まあいい、さっさと捕まえるぞっ。
 銃以外の全ての武器の使用を許可するから一時間以内になんとしてでも捕獲しろっ。多少怪我をさせてもかまわん。サインする右腕が残っていればいい」
爆はてきぱきと指令を飛ばすと、部下たちも直ぐに手を止めて次々に戦闘準備を始める。生き生きとした表情に、爆はこっそり溜息をついた。

 こいつらの思考回路はわからん……。

 炎は確かに強いし、頭の切れ具合も半端ではない。だが、尊敬はできるとは思うが、崇拝は出来ない……と思う。
 それに崇拝している割には男達の炎に対する攻撃は容赦がないのだ。むしろその手で倒せることが喜びかのように、猛烈な攻撃を狂ったように繰り出す。
「……どうして本気で出来るんだ」
ぼそりと独りごちた。
 完全に独り言のつもりだったが、その言葉は近くの耳聡い男に拾われてしまう。
 爆よりも昔から炎の部下だった男が、足を止めて振り返る。茶羅というふざけた偽名を使っている彼は、常に笑顔以外見せず、底知れない空気を纏っている。
 彼は苦笑いを浮かべて、若き上官に振り返って言った。

「我々の手で死ぬような方は、必要ありませんからね」

その言葉は、一瞬、爆には理解できない。
「お前らは、炎のことを何だと思っているのだ」
「炎様は炎様でしょう。
 ……それに、貴方も同じようなものではありませんか?」
同じ?
 深い疑問を投げかけられて、ぐらつく心情を見透かした彼は薄く笑う。
 爆が炎へ抱く憧憬と、彼らが抱く暴力的な畏敬。
 だが、それは、そう、炎にとっては同じものなのだろう。彼は王者だ。広い懐に、その違いは大した差とはならない。口に手を当てて自分の思考に入り込む上官を、別の部下がせかす。爆ははっと気がついて茶羅を探したが、もはや彼の姿は陰も形もなかった。
 一時間の追いかけっこをしたが、爆たちはぎりぎりのところまで行っても炎を捕獲することはできなかった。しかし、何故か日明大佐の耳に無断外出の件が伝わり、意気揚々と参加した上官に捕まって全治三日の怪我を負うことになる。
 ―――右手は無事だったので仕事には支障が無かったが。