・・・  試して合点 1  ・・・ 


 蟻は、かつて人間だった。
 彼らは勤勉で、あまりにも良く働いた。よく働くがために、ありとあらゆる物を運び、利用し、富を蓄えた。彼らは真面目に一生懸命―――すなわち、そう、勤勉に、あらゆる物を盗んだ。
 己の深い貪欲さに気づかず、略奪し続ける勤勉な人々の行為は、とうとう神の怒りに触れた。彼らを蟻に変えてしてしまった。
 しかし、姿は変わっても心は変わらず、今でも蟻は、畑から大麦や小麦を集めて貯蓄しているという。
 ―――そんな、外国の童話を語った後、女に持て囃されそうな優男は楽しげに言った。

 ところがこんな働き者の蟻の中にも、サボる者がいるのだ。

 仮にそれらの蟻をサボり蟻とし、それ以外の蟻を働き蟻と定義する。
 一つの集団からサボり蟻を集めて他へ移してみると、全員が働き蟻となるかと思えば結果は逆になる。先ほどと同じ程度の割合でサボり蟻が発生するのだという。そしてサボり蟻だけの集団は何故かそのなかから働き蟻になる者が生まれる。
 まるで知的な話をしているとばかりに得意げに周りの女性に自慢する。商売女の団体を引き連れて静かな小料理屋に乗り込んできた男は、顔は確かによく、羽振りも話術もなかなかなもので、周囲の女性がもう少し品が良ければ他の客も露骨に邪険にはしなかっただろう。
 隣でゆっくりと酒を飲みながら、鉄男はなんとなく男の話に耳を傾けていた。
 それを聞いた時、鉄男は熟れた脳内で『成る程』と思った。……が、それ以上のことは特に考えもしなかった。しかし一ヵ月後、彼は改めてその話を思い出すことになる。


 *****

 「だぁぁぁてぇぇ。
 サボろうと思ってサボったんじゃないやーい。
 気づいたら仕事場が変わってたんだぁーい。
 みんなが居なかったから悪いんだもん」
「お前には午後から練習場が代わると散々言った上に、お前は一応仮にも奇跡的ながら我が隊の副官だろうがぁぁぁっ!」
捲くし立てつつ真は荒々しく部下の胸倉を掴んだ。引き寄せ、熊も射殺せると評判の三白眼で上から睨みつける。が、対する毒丸という若き隊員は、笑みを浮かべ余裕綽綽たる態度を崩さない。
 上官の顔には浮かび上がる血管。服を掴む手は本気の表れの震えもある。殺気は膨れ上がる所まで膨れ上がって、簡単な切欠でも弾けてしまいそうだ。
 だが、青年は、決して殴られると思わなかった。
 軍では建前的に―――本当に、建前、だが―――隊員同士の私的闘争は禁止されている。すなわち、どんなに態度が目に余る兵士であったとしても、軍事法廷にかけるなどの手続きを踏まない限りは上官といえども私的体罰は出来ない。御国の軍人は、形式的には上官の部下ではなく陛下の部下にあたると考えるからだ。
 そんなもの在って無いような規定だったが、規律に煩い真と現朗は(攻撃されない限りは)一応それを遵守していた。ちなみに日明大佐や炎など零武隊の隊員の多くはその規定があること自体を知らない。もっとも知っていたとしても守りはしないだろうが。
「副官だけど忘れんだもん」
「そんな最重要事項を忘れるか馬鹿者がっ!
 どうせまたいつものようにサボって遊びに出たのだろうっ」
「違うもん。
 誰もいないから今日はお休みだと思って遊びに行っただけだもん。
 別に女遊びなんかしてないもん、動物園でキャンディー食べていただけで」
後頭部で腕を組み、ぺろりと舌を出しながら青年は言い切る。生意気そのものといったその顔には、まったくもって反省の色は無い。
 その表情に、真の脳内のどこかでぶちっと切れる。
「……いい加減にしろ」
突如。
 激情を全て体内に押さえ込めて、静かに彼は言った。
 雰囲気が変わって、反射的に毒丸は身構える。心臓を打ち抜かれるような鋭い殺気に身体自体が反応してしまった。
 三白眼の中の小さな瞳が、ぎろりと動く。
 頬を流れ落ちる汗。冷や汗が一気に噴出す。攻撃しろという本能の叫び。それを無理矢理堪えて、目の前の男を笑顔を作って見やる。引き攣る口を無理に引き伸ばせば、なんとなく上手くいきそうな気がする。そんな気がする。ばくばくと煩すぎる鼓動の音に理性が飲み込まれないよう精神はぎりぎりの戦いを強いられた。
 鞭を抜けば―――少しでも攻撃に転ずれば―――真は大義名分を振りかざしてぼこぼこにするだろう。
 彼もそれを狙って青年の精神を刺激しているのだ。
 一歩離れた位置に居た鉄男すら、生唾を飲み緊迫した面持ちで場を見守る。
 これまでの経験上、十中八九、真が折れる。しかし、わずかに毒丸が釣られて攻撃に転じることもあるのだ。そのときは保護者である己が命を賭けてでも助けようと腹に決めて自体を静観していた。
 緊迫した空気。
 それが、張り詰めて破れそうになったその瞬間。
 とうとう、真が口を開く。


「…………今日から一週間、鉄男禁止だ」


 一番緊張していた鉄男は上官のあまりの言葉にバランスを崩す。
 が、彼の反応を他所に、目の前の二人の関係は一瞬で崩れた。毒丸の顔が絶望の色に変わったのだ。
「えええええええええええええええぇぇぇぇぇっ!」
「鉄男。
 一週間毒丸に話すな触るな面倒をみるな。
 寮では別室を使え」
……どうやら上官は本気らしい、と鉄男はなんとなく思った。
 思ったせいで、おもわず返事が遅れてしまう。
 その間にも、毒丸は目に涙を滲ませながら非難の声を上げた。
「は、反省するからっ! もうしないからっ!
 それだけは……それだけはっ! ―――どうかっ!」
非難というより、降伏の宣言というべきか。
 さっきまでのあの生意気な態度は何処へやら、もはや半泣きで真の腰に縋り付いて泣き落としに入っている。
「いーやっ。今回ばかりは罷りならん」
「真ちゃんー。もう、絶対サボらないからぁぁぁーっ。許してよ、謝るから、反省するから、もうしないから……嫌だよぉ、それだけはやだよぉぉ」
給料ならもはや下がるところまで下がっているし、殴られることはないと高を括っていたが、まさかこんな罰則方法があるとはっ―――と毒丸の脳内は混乱状態だ。鉄男禁止なんて、死ねといわれているようなものではないか。
 そんな酷いことを言った上官は、腕を組んでつんとそっぽを向いている。
「やだよぉー。鉄男が一週間もいなくなったら、洗濯物どうすりゃいいんだよぉぉぉ……。
 副官が一週間パンツ替えなくてもいいのっ!?」
「知らんな。
 俺は褌しか愛用しておらん」
「うわぁぁぁん。
 真ちゃんの鬼ぃー悪魔ー鬼畜ぅぅー。
 やだやだやだやだやだ。鉄男と一週間会えないのヤダぁぁぁぁ!」
「…………鬼で悪魔で鬼畜で三白眼の目つきの悪い上官ならそういう酷いことをするだろうな」
「あぁぁぁっ! 今のは無しっ。ナシっ!
 だから考え直してっ。お願い。お願いですっ。
 お願いします気高くかっこよくてとても強い尊敬できる上官殿っ」
あ。土下座した。
 ―――と、鉄男はおもわず洩らす。
 真は一切の躊躇無くいつもの無表情のままその頭を踏みつけた。
 ……なんだか上官の暗い一面が見えたような気がしたが、鉄男は考えないことにして、そのまま様子を見守っていた。保護者として、顔面を踏まれた程度では助ける必要はない。
 その後小一時間、彼らは散々もめて、結局一ヶ月間様子見となった。