・・・  星に願いを 5  ・・・ 


 「取った取った。旨かった!」
「……あんまり食べて夕飯が入らないと、また叱られるんじゃないですか?」
「夕飯は別腹だからな」
「蘭にはいったいいくつの腹があるのやら」
「はっはっは。お前のような真っ黒な腹は一つもないぞ」
夕日を背負って、三人は満足顔で並んで歩いていた。蘭の手には魚取り用の網があり、二人は手ぶらだ。子供たちと最後に獲物を焚き火にして塩で食べてしまった。
 赤い空の下の黒い道。黄昏時の冷たい風が頬を撫ぜて、丸木戸がわずかに首をすくめる。

 ―――寒い?

 その違和感を、三人は同時に感じ取った。今はまだ残暑で、暑いから川遊びをしたのではないか。耳を澄ませば、蝉の鳴き声が一つも聞こえない。この張り詰めた重い空気。覚えがある。
 彼らが足を止めると同時に、曲がり角から、一群の影が現れた。
 逆光で見えない顔の表情。だが、その正体はすぐにわかった。黒いぼさぼさの長髪、青く細い短髪は、夕日の作り上げる赤の溢れる世界においても異色な雰囲気を放っていた。
「……まさか、貴女、あの人たちから……」
玉藻が掠れた声を上げるよりも早く、蘭は網を構えて二人を守ろうと一歩前に出る。それは本能的な動きだった。
「やあ。川の帰りか。
 おいおい、オメェから誘った動物園はどーなったんだコラ? なんで俺がオカマに付添われてシマウマ見なきゃなんねえんだよ」
「そーよねー。
 今日風邪を引いたから休んだんじゃないのかしら? らぁ〜ん」
気で負けないようにきつく柄を握り締めながら、一歩、一歩後退する。
 二人は足音を立てない独特な歩き方で間合いをつめる。それは静かな動きだが、思った以上に早い。
 蘭の表情に焦りの色が浮かんだ。丸木戸と玉藻が逃げようとしないのだ。二人には逃げるよう背中で命令していた。が、もはや一瞬にして、二人は彼らの禍々しい赤の瞳に完全に囚われてしまっていたのだ。暗くて見えないはずなのに、あの目だけは決して消えることのない光を宿す。
「問題があるのかっ!」
少女は全身で叫んだ。己を奮い起こすために。
 言うと、蘭は思い出した。
 この案は、決して怒られるものではないから、実行したのだ。悪くはないと思ったからこそしたのだ。
 だが、それを口にする前に威圧感で息が詰まった。飛天と八雲の後ろから、最後の一人が現れたのだ。

「あるよ」

その澄んだ声に、危機感を超えた何かを感じとって少女の全身が総毛立つ。
 日明は滑らかな動作で前へ出て、蘭の構える網の端を握り締めていた。
 彼女が捕まれたことに気づいた瞬間を狙って、ぐいと力強く引っ張る。
 手放せばよいものを、反応に遅れた少女は逆にしっかり握りしめてしまった。結果、当然ながら網につられて小さな体躯が地面に投げ出された。
「っくぅっ!」
『蘭っ!?』
呪縛がようやく解けた二人の友人が駆け寄るが、それを飛天と八俣が止める。武術を習っていない彼らが巻き込まれたらそれこそ大怪我ではすまないかもしれない。
 日明は片膝をついて座ると、起き上がろうとしている蘭の顎を掴んでくいっと持ち上げた。目を逸らせないようにきつく握られている。
「兄弟子をお菓子で売るとは良い考えだねぇ。
 十五個も貰ったんだって? それで俺たちを誘い出せ、か。君の近所のお姉さんとやらに聞いたよ。
 で、どういうつもりなのかな?
 どうしてこういうことをしたのかな?
 浅草の店の女性なんてどうして知る機会があったのかな?
 ……。
 ………………。

 ―――黙っていたらわからないだろう」

蘭はきつく奥歯をかみ締め、精一杯見開いた。
「悪く、ないぞ……っ。私は、悪くないっ!」
「俺たちを騙したのに?」
「何も騙してないっ。約束どおり動物園に行けただろうがっ」
日明が言えば蘭も言う。
 すれ違いを感じずにはいられないやり取りに、初めは逃げようとしていた丸木戸と玉藻も動きを止めて二人に注目していた。
 そして、わからないとばかりに顔を上げる。
「……どういうことなんですか。八俣さん」
「うんまあ、蘭がいけないといえばいけないんだけど……なんていうか、なんていえばいいのかしらね。
 タイミングが最っ高に悪かったのよね」
丸木戸は納得いかないとばかりに、レンズの下の眉を顰める。
 日明が蘭に嫉妬を覚えさせる良い機会だと喜んでいった先に、蘭自身がお膳立てした他の女性との逢引コースがあったのだ。八つ当たりで動物園を壊さなかっただけでも成長したものである。
 飛天には綺麗なオカマが、日明には大人びた女性が、八俣にはうら若き乙女が待っていた。そして、三人は蘭は風邪を引いたのでこれなくなったと告げて、六人で動物園に入る羽目になったのだ。結局最後には日明が干菓子で蘭を釣った件を聞きだし、『あの子にお菓子を勝手に与えないで下さい。そんなことをされなくても、こちらからお誘い致しますのに』と嘘八百を並べ立てて別れたのであったが。
 彼らは、よく、日明が何処からか持ってきた正体不明な金で町に繰り出す。ゆえに遊女の間では評判が高い。だが正攻法で誘い出そうとしても、名門日明家の息子が頷く筈も無い。
 そこで10歳の蘭を使ったということなのだろう。
 蘭と日明は言い合っていたが、理詰めの彼に敵うはずがない。ぼろぼろと涙を零しながら嗚咽を漏らし、悔しそうに呻いている。逃げようとしても顔は掴まれている。
 干菓子で兄弟子を売るのはよくないが、今後するなと注意すれば十分だ。なにせ、蘭は彼に特別の感情を抱いているわけではないのだ。そもそも嫉妬云々は日明の都合の良い願望に過ぎないのだ。
「おい、日明。そろそろ止めろ。お前が文句を言う筋合いは、そこまでだろ」
ぼろ泣きする蘭を見かねて、飛天は腕の中の玉藻を宥めながらそうぼやいた。

「……まったく、哀れですね。
 全然伝わってないじゃないですか、貴方の想い」

 言って、玉藻はくすくすと高貴な笑みを浮かべた。
 空気は一気に三度くらい下がる。
 飛天は口をあんぐりと開き、八俣は丸木戸をしっかりと握り締めた。どんな攻撃があったとしてもとりあえずこの子だけは逃がしてやらなければ寝覚めが悪い。
 日明はあの笑顔で玉藻を見た。
 蘭は何が起こったのかわからず首を回している。顔を真っ赤に腫らしていた。玉藻はその顔に何故だか胸の奥がざわつく。彼は蘭のように目に見えて子分を可愛がるわけではないが、子分に手を出されると激昂する。
 切れ長の目をさらに細めた。
「伝わっているとは思うつもりだけど。
 ただまあ、まだ理解出来てないだけだよ。幼いからね」
「でしたら、今日はもうこれでよいのでは?
 幼いんですから」
 成る程、と日明が口の中で呟く。
 視線を愛しい少女の元に戻して見れば、確かにやり過ぎた感がある。顔から出るものを全部出して、未だに必死に顎を動かそうとしている。
 流石は姦計に長けた狐のことだけはある。日明はそう思いながら手を放すと、解放されて俯く蘭の頭をそっと撫でてやった。
「……確かに動物園にいけたのは嬉しいけれど。
 いきなり招待した君がいなかったら吃驚するじゃないか。しかも風邪ときけば、心配する。嘘はついちゃいけないって、言っているだろう?」
泣きじゃくる少女が何度も頷いたので、日明の胸のわだかまりも少し溶けたような気がした。


 *****

 六人が横に並んで帰路に着いた。すっかり日は落ちてしまい、空は星が煌く夜の帳が落ちていた。
「でも、何故いきなり他人からお菓子を買ってもらったんですか? そういうこと、嫌いでしょう貴女?」
ようやく気持ちの落ち着いた蘭に、気になっていた丸木戸が尋ねた。
「ん。人助けをした礼だったからな」
「知らない人なのに?」
興味のある玉藻も質問に加わる。
 が、蘭は何故だか自慢げに言いきった。
「何を言う。袖振り合うも他生の縁、名を知らぬ人でも縁はあるものだ!」
……この子、ちゃんと躾けないと絶対攫われる。
 なんて思わず突っ込みを入れそうになってしまう気持ちをグッと堪えて、丸木戸はさらに質問を重ねた。
「人助けって? 動物園に誘いだすことが?」
「まあ、そうだな。
 三人の女性と、恋に遠い三人の兄弟子たちが恋出来るように、手伝った。
 ふっふっふっふ。お前らのように人の情を理解できぬようなお子様にはわからんだろうが、男女の情というのはとっても尊いのだ。
 ゆえに!
 恋路を邪魔すると馬に蹴られるくらいだから、恋路を手伝ったらお菓子の十個や二十個貰っても当然だろう」
にぱぁと太陽顔負けの笑みで、彼女は三人を見上げる。褒めて褒めて―――と語っているその目。愛くるしい表情。
 頭一つ大きい男たちは、うっと喉奥で呻く。
「だ、そうだぜ。お前の所為だったな」
「……なんで……なんで……」
ひと夏かけた計画が、何故このような結果を齎したのか計算出来なかった日明は、深く落ち込みながら繰言のようにぼやいていた。
 八俣は純粋に凄いと思った。
 この少年の作戦がこうも見事なまでに失敗したのは始めてのことだ。
「干菓子そんなに好きなのか。ならいくらでもやるのによ。俺ん家の檀家が無駄にくれるぜ」
『くれ』
年下三人の声が唱和して、飛天はがはははと笑い声を上げる。
 そして、ぽんと大きな手で蘭の頭を押さえて言った。
「だから五個の干菓子で売るなよ。人を。オカマに」
それだけは重々わかって貰わなければならい。どういう星の下に生まれたのか、飛天は悲しいことにオカマにばかり好かれるのだ。誘ってくる女から隣に住む女まで、最後の最後で股間にブツがついているのだ。正直トラウマに近い。
 が、その言葉を聴いた少女はぱちくりと垂れ目を瞬かせた。
「ん? 飛天は違うぞ」
「は?」
間の抜けた声があがる。いつの間にか、二人の会話に他の全員が注目していた。
「お前、モテなくて困っているだろうから、干菓子一個で請け負った」
「はあぁぁぁぁぁっ?
 なんだよっ、オカマに干菓子一個で俺を売ったのかぁっ!?」
「うむ。哀れだからな」
べしっと蘭の頭をはたくと、むっと口を尖らせて痛いとぼやく。
 彼女は本心から思ったのだ。
「じゃあ、俺は?」
日明が横から口を挟むと。
「五個だ。
 日明はモテなくても困らんだろう?」
どうしてそう思ったのか、彼女自身はわかっているのだろうか。
 飛天ではモテなくて困り、日明ではモテなくても困らないのか。それは明らかに、少女の中で差があるということなのに。自覚していない感情がわかった日明は、小躍りしたくなる嬉しさを押し殺していつもの笑顔を浮かべていた。
「そう。
 ―――飛天の五倍、だね」
独り言のように呟いて、口に手を当てて笑う。
 今回の蘭の行動には、少なからず傷ついていた。
 だがその傷も、やはり彼女の言葉一つで癒えてしまう。
 友人の気が和らいだのを感じ取って、八俣と飛天は胸をなでおろす。今日は正直生きた心地がしなかった。
「ねえ、蘭。全部で十五個でしたよね。
 この獣が一個で」
「日明さんが五個、ってことは……」
玉藻と丸木戸が次々に尋ねると、彼女はうむと頷いた。

「そうだ。八雲は九個だ」

ばきっ。
 日明の手にあった蘭の網が粉砕した。
「……ええと、なんでアタシだけ多いのかしら?
 てかなんでそんな怖いことすんのアンタは」
せっかく良い所だったのにーっ! と胸で絶叫しながら、半泣きの気分で八俣は尋ねる。右横から痛い程の視線。死にたくない、死にたくないと何度も反芻する。
「だって八雲は、男じゃなきゃ嫌なんだろう?
 ……それに」
珍しく蘭が口篭ったかと思うと、視線を足元に向けて、面白くなさそうに小石を蹴った。
「……お前、いっぱい、好きな子いるじゃないか。知ってるぞ。見てるんだからなっ! だから、紹介、したくなかったんだけど……九個って、言うから……」
蘭が可愛い素振りをすればするほど、視線が痛い。
 日明は蘭に隠れて付き合うのに比べて、八俣は隠さない。ゆえに交友関係が派手なのだ。
「ちょっと待て。俺にオカマはいいのかよっ!?」
「駄目なの?」
「いい加減諦めたらいかがですか?」
「発想を逆転させて、飛天さんが性転換すれば良いのでは!」
「おまえらぁぁぁぁぁあああ〜っ」
さも当然と言い切る子供たちのこめかみを飛天は後ろから掴むと、最強の力を込める。一人逃げ延びた玉藻は平然としていたが、蘭と丸木戸はそのあまりの激痛に声をあげないわけにはいかなかった。
 痛い痛いと可愛い悲鳴を聞きながら、日明はぼんやりと空を眺めていた。きらりと流星が見えた。

 ……早く蘭さんが大人になりますように。

 ついでに大人になったら色々してやろうと卑猥な願いをいくつか星に願ったが、結局お星様は何一つかなえることは無かったのである。