・・・  星に願いを 3  ・・・ 


 「はあ……」
 安直に書き表すならば、こんな程度なものになる。
 場に、溜息が零れ落ちた。ただそれだけのことだった。
 だが、次の瞬間。
 水色髪の少年は素振り中の木刀がすっぽ抜けて松の幹に突き刺さり、隻眼の少年は振り上げた木刀が眉間に当たって愛用の眼帯が外れた。
 木刀が飛んだことや眼帯が落ちたことはさほど気に留めず、二人は凄い速さで首を回す。視線の先には、切り株に座る少年。その膝には一冊の外国の本が開かれている。
 口は半開きのままぱくぱくと動いていたが、声が出せなかった。
 ―――言葉が無い。言葉が出ない。
 視線の的となった少年は苦笑を浮かべて本を閉じると、二人に休憩しないかと提案した。
 
 +++++

 大きな松が十数本立ち並ぶ小さな林は、日差しの暑さを和らげる。暦の上では秋だが、まだまだ残暑の名残があり、八俣と飛天の顔からは汗が滴り落ちていた。
 半刻前、幼少組が道場を使うからといって、彼ら三人は外での素振りを命ぜられた。この炎天下で素振りかい……と一瞬殺意を覚えたが、幼少弟子の目の前で師匠直々に言われれば、反言するわけにも―――ましてや反抗するわけにも―――いかない。そこで渋々、道場裏の松林まで行って、言われた通り素振りを始めた。
 蘭を連れて先に道場に来ていた日明は、先にノルマの素振りは終えていたので、二人が終わるまで持ってきた本を開いた。
 いつもどこか余裕そうに行動する彼にしては珍しく、目を見開いて、一心不乱に頁を捲る。続きが気になってしょうがないのだろうが、その態度は友人たちの興味をいたく引いた。彼は、どれだけ素晴らしいと評判の本であっても、読むときはいつも小馬鹿にした目つきで頬杖付きながら読むのだ。自慢は知恵の行き止まり、と言う諺を贈ってやりたくもなるが、おそらくそれをすれば鼻で笑われるのが落ちだ。
 知恵など、もう要らないだろう。―――この少年は臆せずそう言うに違いない。
 内容が気になる。とにかく気になる。特に我慢が苦手な飛天の好奇心は、ほぼはちきれそうだった。
「……で、オメェ、何を読んでるんだよ」
当然、切り出したのは飛天。
 ちらりと中身を一瞥したが、見たことの無い西洋語だ。英語なら僅かにわかるのだが。
 頭上で弧を描く鳶が長閑な鳴き声をあげている。
 首にかけた手ぬぐいで汗を拭きながら、飛天は当然のようにどすんと日明の横に腰を下ろす。この暑い中で素振りなんてやってられない。八俣は大きく跳躍して松ノ木に上り、自分の木刀を引き抜くと、幹から軽やかに降り立ち飛天とは反対側の日明の横を陣取った。
「まあ、下世話な恋愛話をちょっとね。
 仏蘭西語の勉強になるかとも思ったんだけど、簡単すぎて暇つぶしにもならなかった」
仏蘭西語を齧ったことのある八俣は、日明から本を奪い取ってその頁を流し読みする。
 成る程、その言葉は嘘ではない。
「下世話っていうか、乙女な話じゃない。別に猥本でも春本でもないし。
 アンタにしては珍しく普通ね」
「猥本なら翻訳すればそれなりの金になるんだけどさ」
タイトルに騙された、と日明は続ける。
「で、内容はなんだよ、八雲」
そんな下世話な本がどうしてこの性根最悪の男に嘆息をつかせることが出来るのか。飛天はうずうずと体を震わせながら頼みの綱の少年に端的に問う。
「そうねー」
八俣は眉根をしかめて、丁寧に文字を追った。
 辞書なしで読める程の簡単な単語なのだが、おそらく児童向文学なのだろう、周りくどい形容詞に妄想に入り浸っている表現が複雑に絡んでいて、あらすじを追うのが難しい。
「ええと……なんか、主人公の女の子に、好きな子がいるみたい。
 それで、その男の子が、他の女の子と一緒に遊びに行くって聞いて、気が気じゃないんだって。……ま、可愛い嫉妬話だわ」
「だろう? そうだよ、可愛いんだ」
なんとも言えない返事で返されて、二人の謎はさらに深まる。
 何せ、この天上天下唯我独尊利己的上等自分最高のとんでもない悪人に溜息をつかせたのだ。地球終わりの日の予兆だと言われても、信じられそうな気がする。
 出されたヒントは仏蘭西の恋愛本一冊。本の内容と彼の溜息が、どうしても二人の間で結びつかない。
 ……いや、実のところ、彼らは一つだけ理由を予想していた。
 ただ、それを信じたくないから信じないことにしていたのだが。
「……で?」
考えることを放棄した飛天が、口を開く。
「うん。
 だからさ、蘭さんは俺のことが好きだろう。
 そろそろ、嫉妬とかして欲しいな、って」
『それ、笑いドコロか?』
図らず二人の低い地の声は唱和した。
 その答えが、あまりにも予想通りすぎて。
 蘭は日明を好意的な感情を持っているのは認めても良い。多分、それは父や母や友達に対するのと同じ(かそれ以下)だとしても、好意的なことは間違いない。
 嫉妬が可愛いという説も認めてもいい。まあ異論はあるし現実的ではないかもしれないが、性的趣向は人それぞれの問題だ。
 だがそれらを全て肯定したとしても、あの娘に嫉妬という高度な感情を期待するというその御目出度い思考はいったいどこから発生するのだろうか。
「あいつが嫉妬なんて難しいことが出来る腹かよ」
「無理に決まってんじゃない」
「有り得えねえな」
「だいたい、ご飯お代り自由で奢ってやるとか言えば、付き合ってても別れちゃいそうだもの。嫉妬なんて感じる余裕ないわね」
「それを言ったらむしろ、言ってくれた奴に惚れちまうんじゃねえのか?」
「それもそうねー」
あはははは、と賑やかな声が唱和する。
 穏やかな笑顔で日明も同じように笑った。彼が一番多用する作られた笑面で。感情には全く左右されない偽りの顔で。
 いつのまにか、彼は持っていた手拭をくるくると片手で回し始めていた。
 数秒も経たぬうちに、なんだか恐ろしげな回転速度に至る。
 ブゥーンと低い唸る音。
 飛天も八俣も、その動きに気づいて声を止めた。
 乾いた声で笑い続けているのはただ一人だ。
 二人の少年の背筋に冷たいものが走って顔が強張るが、さらにそれは一刻一刻と速度を増していく。
 その状態で、少年の手が外れた。
 飛び出す回転体。
「あはははははは―――」
まず、日明の後ろに立っていた松がぐらりと揺れた。その太い幹は完全に一箇所で途切れていた。
 凶器となった手拭は、一本目の太い松を斬った後も、さらに後方へ飛んで他の木を薙ぎ倒している。驚いた鳥が逃げる音が松林にいっせいに響き渡った。
 二人の顔から冷や汗が噴出す。
 うぉぉぉぉぉぉい、今は話を聞くべき時だったのかぁっ!? ―――なんて後悔が過ぎったかどうかは定かではない。
 あはははというもはや不気味以外の何者でもない笑い声が止まった。
 とうとう、バランスを崩した松が大地にぶち当たる。大地を揺るがすような轟音。飛散した松の皮が顔にぶち当たる。
 同時に、笑顔で彩られていた少年の顔が殺気に満ちた無表情に変化した。

「……とにかく、蘭さんが他の女に嫉妬したら可愛いだろう。
 頬を膨らませたり拗ねたりするところなんか、是非見たいだろう。
 私を見てくれぇって泣きついてきたら、鳴かせたくなるに決まっている。
 ―――だから。
 どうやってそうさせるかを考えていたんだけれど。
 何か言いたいようだね?」

その目。妖怪一団殺してきたってこうはなるまい。
 話を振られて二人の全身が僅かに飛び跳ねる。
 完全に魅入られてしまった飛天は動けなかったが、少しだけ精神的に防御をしていた八雲は、なんとか、首を横に振ることができた。唇が自分の意思とは無関係に痙攣しているのを自覚しながら無理やり動かす。
「べ、別に……な、なにも……」
だが、今更引かれても許すつもりはない。
 ぺろり、と薄い唇を舐めて、日明は口を開いた。
「……言っておくれ。なあ」
「びてーんっ、やーくもー、ひあきー」
その脅迫に、場違いな呼び声が重なった。
 日明はさっと首を上げる。
 視線の先、小さな影がこちらへ向かってきているではないか。見られて不味いと思うよりも、嬉しさの方が勝った。
 ひらひらと風にたなびく長い髪。泥と墨で汚れた胴着は、見間違いようもない。手を振りながらかなりの速度で走っている。
 みるみるうちに少年の相好が崩れて、漸く呪縛から解かれた二人は深く深く息を吐いた。心拍数が一気に上がり、心臓が痛みを訴える。鳥たちがいなくなった林はただ只管に静かで、さっきまでは感じなかった寒気を覚えた。

 ……助かった。

 蘭は三人の直ぐ傍まで来ると、しりもちをつくようにして重心を後ろにずらし、全身を使って立ち止まった。立ち上る粉塵。そうしなければ止められないくらいに勢いがついていた。
 頬を赤くして、肩で息をつく。が、少女は間をおかずに口を開いた。
「明日、日曜、動物園に行かないかっ?」
 彼女は、いつでも、唐突だ。
 だがそれには三人とも慣れている。
「ああん? またテメェの悪戯につき合わされるのは御免だぜ」
「飛天のくせに生意気だぞ。
 せっかく私が誘ってやっているのだというのに」
腰に手を当てて、ぷっと頬を膨らませながら傲岸不遜に言い放つ。
「…………どういうこと?」
と、飛天の言葉をさえぎって日明が口を開いた。
 彼女はくるりと首を回して、にっと太陽のような笑みをこぼした。破顔一笑。普段日明の見せる作り物のそれとは比べようもないほどの輝きを放つ。―――とりわけ、彼には。日明は高まる胸の音を自覚した。
「近所の姉君たちが、券が余ったから、一緒に連れて行ってくれると。
 折角だからどうだ?」
日明は飛天を見て、飛天は八俣を見る。
 ―――正確には、日明の目から逃れたい飛天は明後日の方を見ただけだったのだが、二人にしかわからないどす黒いオーラは目を合わせなくてもびしびしと肌を突き刺した。
 千載一遇の好機とは、まさにこのことだ。
 近所の姉君とやらが幾つなのかはわからないが、姉上というからにはそこそこの乙女であろう。もしかしたら―――もしかして、上手くいけば―――蘭に嫉妬というものを抱かせることができるかもしれない。嫉妬を抱けば、自ずと彼女は自覚する。特別な感情が存在することに。
 日明の考えることが手に取るようにわかる二人は、極力巻き込まれたくない、と気持ちが一つになる。
「……明日かぁ」
「明日ねぇ……」
思いっきり行きたくない二人は難色を示す声を上げた。
 が。
「大丈夫だよ。三人とも行けるから」
誰の意見も聞かずに一人が断言した。
 ええっ!?と驚きながら振り返る友人たちなど川原の石の裏に付いた苔くらいに無視して日明はにこにことしている。蘭は嬉しそうに手を叩いた。
「そうかっ!?
 八雲も大丈夫なのかっ!?」
「え、ま、まあ…………――――――。
 ………………大丈夫よ」
「では明日、巳の刻に道場の正門前。
 きちんとした着物で来るんだぞ、胴着は駄目だからな。八雲は変な着物は駄目だ。飛天は絶対服を替えてこいっ!」
言うが早いか、くるりと背を返して来たときと同じ速度で去っていってしまう。少女の後姿が見えなくなってから、恐る恐る、二人は日明の方へ振り返った。

 また、あの、笑顔だ。

「いいねぇ。動物園なんて久しぶりだ。楽しみじゃないか。
 蘭さんどんな着物着てくるのかなぁ。可愛い花柄なんてよく似合うと思うんだけど、もしかしたら水玉模様かな。
 あ、そうそう。
 ―――遅れたら、殺すから」

 ―――行かないという選択肢は、ないか。

 かくん、と二人は肩を落として。
 もうどうでもいい、どうにでもなれと投げやりな気分丸出しで素振りを始めた。
 一人嬉しげな青年は鼻歌を歌いながら、証拠隠滅のために切り倒した松を裁断する。何故か飛天が今まで肩にかけていた手拭が、彼の手にあった。手拭とは思えないほどの切れ味で、ぽんぽんと薪が出来上がる。
 スコーン、スコーンと軽やかな音が晴天の下で響いていた。鳶は、いまだ暢気な声を上げて飛び回る。そんな穏やかな昼下がり。