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 ・・・  星に願いを 2  ・・・ 


 ちょこんと正座する少女の眼前に、握り飯があった。
 玄米の、大人の握りこぶし大。ぱりっとした海苔が申し訳程度に巻かれている。それは、蘭の目を釘付けにして動けなくするには十分すぎた。視点はそれから外れないまま彼女は口を開いた。
「……美味しそうだな。日明」
「昼飯に余ったのだけれども、お腹すいている?」
「うむ。空いている」
言いながら少女は手を伸ばす。
 その動き、子供が出せる速さではない。が、それの数段上をいく速度で日明は握り飯を包みの皮ごと取って持ち上げた。
 え? と疑問符を浮かべる可愛らしい顔。
 小さな手は空を切る。
「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして」
もらえると思った握り飯がお預けをくらって、途端に不機嫌になった蘭は、頬を膨らませながら興味なさそうに問う。
「歌か?」
「伊勢物語の有名な恋歌だよ。……この感情、わかるかい?」
「知らん」
十歳の少女が即答すると、はぁぁぁとわざとらしく兄弟子が溜息をついた。情けないという表情で、首をゆっくりとかぶり振る。
「どうせ伊勢物語なら愛だの恋だのそんなものだろ!
 それがどうしたというのだ。私だって、人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んじまえ、とかいう歌を知ってるんだぞ」
彼女はその無知を責められたと思ったのだろうが、そこは日明の意図している点とわずかにずれる。
「ああ、そう、知っているのかい。
 つまりね、男女の愛というのはとても大切なものなんだよ。海を渡った先には、フランスとかブリティッシュとかアメリカとかそういう国があってね、そこでは小説という形態でいくつも愛を題材にした本が出版されている。
 一種の、そう、文化になっているわけだ。
 さて、その重要な感情についてだけれども―――」
「愛がー?」
興味のなさがありありと籠もった声でつい口を挟む。と、ひょいとお握りが上へ上がった。
 とうとう耐え切れなくなって、少女はお握りを狙って立ち上がると、それにあわせて日明も立ち上がる。
 ギリギリ届かない位置に大好きなものを置かれると、どうしても取りたくなるのが人の性。飛んだり跳ねたりして手を伸ばすが、良いところで逃げられてしまう。次に助走をつけて高く飛ぶ作戦に映ったが、それは跳び上がる直前で足を掛けられて盛大に転んでしまった。それでもめげず、兄弟子の足から背中に回って上ろうとしたが、もちろんあっさり振り落とされる。握り飯にかける執念は恐ろしい。少女は次々に手段を思いつき、息つく間もなく実行に移した。
 道場の片隅で繰り広げられる見世物を、飛天と八雲は寝っ転がって半眼で眺めていた。二人の額には汗が滝のように流れ落ちている。
 ……実際、彼らが不自然なのではなく、日明と蘭がおかしいのだ。この40度を超えるような茹だる暑さを前に、あんな元気に動くことができるんなんて。
 師匠から道場の留守番を頼まれたのだが、師匠がいなくなった途端四人は稽古をやめた。午後二時の日差しの暑さは、日陰の道場にいても半端ない。蝉の鬱陶しい鳴き声と滴る汗に、力と勢力が完全に吸われてしまった。
 こんな暑い時には、服を脱いで冷たい床に臥しているに限る。
 かく言う理由で二人は既に褌一丁になっていた。
「……あー。日明が何かやってるわー」
「ほんとだなぁ……。あいつマメだしなー。…………報われないが」
「報われないでしょうねー」
正気の失われた目で八俣は争っている道場の隅を見ていた。
 頬から伝わる床の温度が熱くなってきたので、首を回す。ぎゃーと蘭の悲鳴があがる。
 再び八俣が首を戻すと、蘭は彼と同じように床に横たわっていた。だが、すぐに体を上げて正座をすると、今度は、大人しく少年の話を聞いているようだ。
 何故だ。何故だ。何故あの二人は、あんなにも元気なのだ。
 そんな考えてもどうしようのない疑問ばかりが頭を占める。
「お前さぁ」
八俣の無意味でスパイラルな思考は、横の飛天の声で止められた。
「ん?」
視線を少し動かせば、飛天の黒い片目と、八雲の赤い隻眼とがかち合う。双方、いつもの禍々しい輝きは失せていた。だるそうな声で、飛天が口を開く。
「……握り飯なんか、今、食いたいか?」
「………………馬鹿言ってんじゃないわよ。
 こう暑くちゃ、食欲なんてあるわけないでしょ」
「……………………だよな。
 良かった。俺実は虚弱体質なのかと思った」
馬鹿な、と言い返してやりたい気持ちもあったが、八俣は面倒なので口を閉じる。喧嘩もツッコミも全てが億劫だ。
 留守番さえ頼まれていなければ川にでもいって涼んでいたのだが。
 師匠の言いつけである以上暑過ぎるからという理由で反故するわけにはいかない。
 床に耳をつけている二人に、ぱたぱたと小さなの足音が近づいてきた。
 音を立てない習慣をつけるよう訓練されているはずだが、それを忘れるくらいに嬉しいのだろう。
 顔を少しずらしてみれば、満面の笑みの少女が仁王立ち。口の元にはご飯粒。なのに両手に握り飯が一個ずつ。
「だらしないなっ」
その声量のある声を聞くだけで、面倒だ面倒だ面倒だ面倒だ面倒だ面倒だという感情がふつふつと沸き起こる。
「あーそーだ。だらしないんだ。だから向こうへ行け」
飛天の言葉を全く気にしないでにかっと少女が太陽のように微笑んだ。戦利品を自慢したくてたまらないその気持ちはわからないでもないが、この暑さにその元気さは正直鬱陶しい以外の何物ではない。
 飛天に邪険に扱われて、むっと不満げな顔をしてから、今度は水色髪の兄弟子に狙いを変える。
 八雲の顔の傍でしゃがんで、ひょいっとその顔を覗き込んだ。
「やーくーもー。
 ほらー握り飯だぞー凄いだろー」
「今日お休みなの。向こうへ行って頂戴」
「なんでだっ。握り飯を四個も貰ったのに、羨ましくないのか!?」

 ……うん。全然羨ましくない。

 飛天と八雲は瞬間的に心の声が唱和する。
「蘭さん。ほら、こんなのは放っておいて、稽古をしよう。全くだらしないね、たった42度を超えただけなのに」
汗溜まりに溺れていた飛天が目を少し上げると、少しも服装が乱れない少年がすっくと立っているのが見える。
 汗一つ、かいていない。人間じゃないとは重々承知していたが、化け物でもこんな奴は居ない。
 蘭は勿論汗をかいており、時折首にかけている手拭で拭っている。握り飯はいつのまにか食べきってしまったようだ。
「しかし、稽古よりは今日は講義にしようか。
 ……勝つためには人の情を知っておいた良い。己を律するのにも、また、他人を理解するのにも役に立つからね。彼れを知りて己を知れば、百戦して殆うからず」
「えー」
「この傍の甘味処といえば、兎屋かな。
 講義といえば何か食べながらが良いだろう?」
「やるっ。やるやるぅっ!」
二人は連れ立って道場を後にする。
 その仲の良さそうな二人の背中をぼんやりと見ながら、取り残された二人の気持ちは一つだ。

 ……押し付けたな、留守番。

 だがそれを恨みに思う余力は全て熱さに吸い尽くされていた。
 酷暑なんて月並みの言葉が吹き飛ぶような暑さの中、空には悠々とした入道雲。それが帝都の人々に恵みの夕立を齎すまで、あと少しだ。