始まりの夜 着衣 闇夜 反転 口争
 ・・・  口争  ・・・ 
                                  注意  現朗の一人称です。

 目の前の女性は、見覚えがあった。
 言い値で抱いた。理由は抱きたかったから。人肌がなければ死んでしまいそうな、そんな渇望が常に心を蝕んでいたからだ。そんな女は五万といたが、彼女だけは何度も抱いた。そして彼女も俺が幾度も感情抜きで抱いていることを咎めず受け入れてくれた。
 だから覚えていた。
 今はもうそんなことはなく、色町には久しく行っていない。
「あの」
彼女は目を上げる。赤らんだ頬が何を意味するのかわからない俺ではない。追い詰められたようなその瞳はいろいろ物語って、突然、潤み、そして一筋の涙をこぼした。
「……ご結婚なされたのですね」
こんな時間、昼間に彼女が町にいるということは、つまり、そういうことなのだろう。身請けなどという下世話な言葉を結婚という甘い言葉でくるんでやると、ええ、と首を縦に振った。
 さわさわと木が囁く。
 花びらが、ひらりひらりと、まるで劇画のようなタイミングで落ちてくる。
 ふいに、彼女が動いた。俺は動けなかった。
 次の瞬間、人の温もりを全身に感じていた。彼女はその細い腕で俺をしっかりと抱いていた。
 ああ。やはり、抱いたか。
 あまりに予想通りの動きだったので、逆に何もできなかった。
 押し返すことも、避けることも。しばらくそのままで黒髪をぼんやりと見つめていた。
 その時。
 視界の隅で人影が動くのに気がついた。
 気がつくと同時に顔をあげて、それを見ていた。そして見たと同時にそれが誰だか一瞬で理解した。
 それはもう、脊椎反射の域だ。
「あ゜」



 我ながら最高に間抜けな声をあげた、と今では思う。
「ぎゃはははははっ」
腹を抱えて笑っているのは毒丸。ものの見事にこの青年の悪戯に引っかかったため、現在、自分の寮部屋に入れず廊下で足を組みながら座っていた。
 椅子を持ってきてまで動こうとしなかったのは、もはや意地だったからだ。
 懐かしい遊女を連れてきたのもこの青年で、しかもその出会っている様をよりによって激に見せたのもこいつだった。自分が神ならば毎日内臓を鷹に喰わせても飽き足らないが、そんなことよりもなによりも、今は恋人の誤解を解く方が重要だ。
「……何がそんなに面白い」
かなり凶悪な面をしているのを自覚をしながら、天下御免の後輩を一瞥する。
「だってさー。
 あの現朗ちゃんが、締め出しくらって廊下にいるんだよ。しかも激ちゃんを怒らせて。どこをとっても面白いじゃん」
「……締め出しではない。扉の鍵が壊れて入れないんだ」
廊下を行く顔見知りに尋ねられたとき返すのと同じ文句で切り返した。
 だが、この憎たらしい青年にはその理屈は通用しない。
「じゃあぶち破れば?」
「黙れ」
おおこわと揶揄い調子の声が戻ってくる。
 一遍殺して反省させたほうがいいのかもしれない。
 いや、一遍では足りないな。
 刀の柄に手をかけながらいろいろ思案していると、相手もおなじみの武器―――特注の鞭―――に手をかけていた。
 にやにやと睨みつけるその瞳の奥には、浮ついた調子では隠しきれない殺気が溢れ出して明らかに俺を狙っている。
 動けば、奴も、動く。
 零武隊では、隊員同士の斬り合いは原則ご法度で喧嘩両成敗の判決が下される。ただし、病院送りにならなければお咎めはなしだ。
 ……激の誤解をとく前に、まずはこの小うるさい口を黙らせるか。
「でもさー。あの女は馴染みなんだろ?
 すげえじゃん。吉原の最後の花魁、ってあの子だろ? 俺も一度お願いしたけど駄目だったんだよね。いいねぇ現朗ちゃんは顔がいいから、女も男も好き放題じゃん。
 遊びなら一人や二人くれよ
 遊び。
 その言葉が、いやに、琴線に触れた。
「遊びだ……と?」
危険を悟ったのだろう、毒丸は、間合を取りながら攻撃態勢に切り替える。
 鞭が走ってくるのがわかっていたのに、避けられなかった。
 鋭い棘が肩を掠める。
 痛い、というのは感じた。だがそれ以上に胸が痛い。

「勘違いするな。
 遊ばれているのは、俺だ。
 俺は…………俺だけが……本気でいるんだ」

 毒丸の目が、点になった。
 俺が、泣いているからだろう。昂ぶった感情がどこにどう向いたのか、そんな結果を引きを越した。それはもはや俺の意思ではなかった。
 逃げるでも無く、こちらに来るわけでもなく、毒丸は狼狽しながら立ち尽くす。

 がちゃ―――

 扉が開く音が後ろから聞こえてた。はっと俺が振り向くと、眉をしかめた激が、入って来いと手を振っている。彼の目もまた兎のような目をしていた。
 近くまで来ると、手をつかまれて引きずられるように暗闇に入れられた。
「……俺だって。本気だ」
耳にその温かな声が落ちる。
「嘘だ」
「嘘じゃねえ」
「何も聞いてくれなかったじゃないか。そして信じようともしなかった。俺を捨てる気なんだろう? お前はいつもそうやって―――」

 ―――。

 珍しく、彼から抱きしめてきて。
 初めて、激から、唇を奪われた。
「……心臓が止まるかと思ったんだ」
口を離して一番に言ったのは、そんなことだった。
「あれは毒丸の悪戯だと言った」
「でもお前は動こうとしなかった。払いのけたりしなかったから……てっきり……なんか……そう思ったんだよっ! あの人すっげえ綺麗だし、俺だって噂くらい聞いたことあるし。すごい女だって知ってるし。
 あんな人に比べられたとか思ったら、すげえ、自分が、情けなくて……
 信じたいけれど、理屈じゃなかったんだよ!
 それに、いつもいつも俺ばかり悲しくなってるし、泣いてるし、部屋に戻ったら涙が溢れて溢れて止まらないしっ! オメーの所為なのにっ。オメぇの所為なのに……お前は、ずっとその綺麗な顔のままだから、悔しくて、悔しくて……。
 でも、なんか……でも……」
言葉にならなくなっていく恋人の言葉を聞きながら心臓が落ち着くのを自覚する。

「……お前の泣き顔、誰にも……見せたくねえっ―――」

有難う。そんなにも俺なんかを、愛してくれて。独占してくれて。俺のために心を砕いて、考えて、泣いてくれて。
 本当に……有難う。


 お前が俺を見てくれるようになったから。
 その笑顔を惜しみなく俺に与えてくれたから。
 渇望という名の幻から、抜けることができたんだよ。