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天馬がそこに入ったとき、暴漢に入られた女子大学生の部屋よりも酷かった。無数に飛び交う書類の山は崩され、風で巻き上げられては床に落ちる。窓ガラスは割れ、部屋の主はおらず、床に倒れている男が一人――― 「現朗殿っ!」 あわてて駆け寄って、抱き上げる。二度三度振ると、軽いうめき声があがった。 「………しごと……は? ……大佐の、仕事」 「現朗殿っ。大丈夫ですかっ」 「…………大佐、は、どこに……?」 天馬は首をゆっくりに横にふった。 彼の求めている影はない。 天馬は上司の体を抱いてソファに置く。よくはわからないが、とりあえず官舎にいる人を収集させるべきだろう。この異常な状況。遊んでできたものとは思えない。天馬が官舎中をくまなくめぐり、再び戻ってきたときには顔を強張らせた上司たちが円を作って相談していた。 賊は単独で、この軍で最強の称号をほしいままにしている零武隊に入ってきたのだ。そして、大佐がいなくなった。ただごとではない。たとえどんな状況であったとしても、とにかく相手は相当な手練だろう。 ようやく昨日海軍の修理が終わった激と鉄男、そして謹慎処分を食らっている毒丸が、現朗の手当てをしている。といっても外傷はなく少しぼんやりしているようだった。 「……現朗。どんな奴だったか、覚えているか? 思い出せたら……なんでもいいんだ」 激が背をさすりながら尋ねる。 「……一人だ。白い、厨房の……料理人のような服を着て、中華鍋と包丁を持っていた。零武隊の門の前にいたのを見たから、誰か目撃した奴もいるかもしれない。 そうだ。片言の言葉遣いで、新作とか評判とか言っていた気がする。恐ろしく早い動きだった。 ……大佐のお知り合いのようだった」 「この窓はそいつがやったの? 包丁で。ありえないでしょこれは。一応防弾硝子の上に英国製の特注文だぜ」 じゃりじゃりと、毒丸が動くたびに音がたつ。 金髪の青年は首をふった。 「それは、大佐だ。大佐がそこから出て行かれた」 「あの大佐が? 敵前逃亡なんてそれこそありえねーだろ」 現朗は口に手を当てて考え込む。そうなのだ。激に指摘されるまでもなく、何故大佐がここから出て行ったのか、それが気になってしょうがない。 少年が、おずおずと、近寄ってきた。 「あ、あの。 もしかして、その人。白い料理服を着ていて、鼻が丸くて、結構太っていて、持っているのは出刃包丁じゃありませんでした?」 現朗が目を大きく見開く。天馬のいった特徴、全て当てはまる。 親友の反応から察した激が、心当たりは、と尋ねた。 「あります。ええっと、あの、大佐の居場所も予想がつきます。お電話をお借りしてもよろしいでしょうか?」 「ああ。どこに?」 「……警視庁。八俣警視総監に」 いいながら、部屋の奥にある机にかつかつとすすんでいった。大佐専門の電話機だが、これでかければ直接警視総監の部屋にかけることも可能だ。誰も文句を言わなかった。本来新人の自分がこのようなことをするのは身の程知らずもいいところだが、事態が事態だ。天馬は心臓が口から出そうなくらい緊張しながら、受話器を持った。十数回のコール音の後、がちゃり、とつながる。 「はーい。面倒ごとやめてよねぇ。何? 今度は」 「……は、は、八俣さんっ。申し訳ございません、今は、その伺いたいことがあってこの電話を使わせていただきました。 母ではありません。お忙しいところ申し訳ございませんっ!」 思いつく限りの謝罪の言葉と前句を述べてすぐに耳から受話器を離す。 「きゃぁぁぁぁぁぁ―――っ! 天馬ちゅわぁんっ!? うそぉ、マジ? マジ? 今夜の八雲、空いてるわよ。てゆーか天馬ちゃんのためなら今からだって空けてもいいわっ。何するのっ!?」 離しておかなければ耳がやられていた。 何せ、彼の超音波は、現朗や激のところまで聞こえてきたのである。 「……いえ。あの八俣さんのご予定を伺いたいんではないのです。 店主が胡散臭く日本語を話す美味しいお店があると母から聞いたのですが、場所はご存知ではないでしょうか?」 爽やかに断られても、めげるオカマっぽではない。さっとテンションを通常状態にもどして、記憶を探った。 「学生時代よく皆でいったとこのこと?」 「はい。今日、そこの店主が現れたみたいで」 「あらぁ。新作出たのかしらぁ?」 はい、ええ、と相槌を打ちながら天馬はメモをとる。 電話を切って現朗の下にもどってきた。 「現朗殿、食事はお済ですか?」 「まさか」 「では。今から行きましょう。 大佐の迎えもかねるでしょうから、馬車を出した方が良いかと」 にこり、と天馬は手をさしのばす。現朗はそれをとってソファから立ち上がった。ぱんぱんと軍服をただし、横においてあった拳銃を取って腰につけなおす。心配そうな表情を浮かべる激に、少し微笑む。 「出かけてくる。お前たちは丸木戸教授の件を頼む」 現朗は天馬の顔だけ見て、他の者を見ずに淡々といった。 今、親友の顔を見たくないのだ。見ていると、いきなり激昂してしまいそうで。 そして、心配してくれる親友を許せない、そんな心の狭い自分が許せなかった。 だが、そんな金髪の心情など誰がわかるだろうか。みるみるうちに激の顔が紅潮し、怒りで唇が震えている。 なっ、と小さいうめき声が聞こえた。 「お前ほどの相手を倒した相手なんだぞっ! 二人で行かせられるかっ」 言うだけ言って、背を返して激はどすどすと部屋を出て行く。 その後を毒丸、鉄男がついていった。 「ま。そーゆーわけで。俺たちも一緒に行くから。六番馬車を用意しておいてね。天馬ぼっちゃん」 「はいっ」 さっと天馬は敬礼した。 そして、彼らの後について部屋を出ようと踏み出した瞬間、気がついた。 「現朗殿?」 「……何故放っておいてくれない!」 現朗の表情は、普通ではない。目を見開き、息荒く心を落ち着かせようとしている。激と毒丸がいなくなって、とうとう感情が爆発した。 「今は、こんなことをしているときではないのだっ。何故わからないっ!? 仕事がどれだけ溜まったと思っているっ。この状態をなんだと考えているのだ。教授の件を一刻でも早く片付けなければならないのに。大佐の捜索などに人員を割いている場合ではないのにっ。 こんなことをっ……こんなことに時間をとっている場合ではないのにっ」 一瞬見せる切なそうな顔に、天馬が心配そうに眉をしかめた。悲しげに。 少年が何もいわないのは、もしかしたら彼だけは少しだけこの青年の気持ちがわかっているからなのかもしれない。 取り乱した姿を見せたのが恥ずかしくて俯く現朗に、天馬は再度敬礼をしてから去った。 「小さい頃に、母……じゃない、大佐から聞いたのですが。学生時代に美味しいお店をみつけて、父や八俣さんと何度も行っていたそうです。 ちょっと変わったお店の名前で。父や八俣さんはそういうことをしなかったのですが、母はまあ……あの性格ですから。そのせいで店主さんとは因縁が深いそうです」 「すまん。全っ然わからんから。 言葉伏せるのやめれ」 と、激に指摘されて天馬はいやぁといいながら頭をかく。 馬車を運転しているのは鉄男だった。天馬が御者台に座っていたのだが、鉄男のほうが馬が安心するといって下ろされ、少年は車の中に連れてこられて事情の説明を求められた。 「……食逃上等、という名なのです。 母は、本当にその看板を真に受けて逃げていたようで。時折店主に道端で会ったりすると……猛ダッシュで逃げるのです。私も三度くらい見たことがあります。あの中華鍋、投げてくるんですよ」 あいた口がふさがらないといった表情で見られて、天馬は頬を染めて俯く。 当時父親は笑って「元気がいいねぇ。母さんは」などといっていたが、傍から見ればかなり引く話だろう。事実、あの後数日間は包丁を構えた太った料理人が来る夢にうなされた。 馬が止まった。 そこは、横浜の瀟洒な地域の一角だった。日傘を持つ人々の間を割って天馬が連れて行ったそこは、西洋風の木造二階建ての白い館だった。 「ここ? ……って、中華料理屋じゃないの?」 毒丸が全員の疑問を代表して尋ねると、あっさり天馬は答える。 「ええ。洋食屋ですよ」 三時過ぎがばかりでさほど混んでは居なかったが、繁盛している店だとは如実に知れた。確かに、看板には『食逃上等』の四文字が載っている。が、それが出来そうな雰囲気ではない。 彼らが入ると、すぐにウエイトレスが来て案内にきた。だが、それと同時に遠くから呼ぶ声が聞こえた。 「はぁい天馬ちゃん。ここよぉん」 見れば水色の髪をした警官と、長髪の軍人が先に食べている。八俣は一枚目だったが、蘭は三枚目の皿のカレーをすでに半分食べ終わっていた。 |
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