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一陣の風が吹いた。桜舞い散る風の中、服の裾がばたばたと音を立てる。強風をものともせず、彼は二本足ですっくとたっていた。 その建物を道の反対側からただ眺めるだけですでに一分が経過しようとしている。明治の世が始まってから創られた、西洋造りのハイカラな煉瓦棟。周囲を巡る塀は一本一本先端が尖っており無言で進入を拒む。門はしっかりとした鉄製で、今は太い鍵によって堅く閉ざされていた。 『零武隊』 門柱の一つにかかっている看板に、その三文字が載っている。 唇が引きつった。 ここにいるのだ。とうとう見つけた。永遠の、追って追って追い続けなければならぬ女が。彼女との勝負はまだついていない。 その男は、一見すれば不審な人物ではなかった。 白い料理人服を纏い、縦にも横にも大きい―――端的にいえば太った―――男である。大きく丸い鼻、そしてその下に細いハの字型の整った髭。いろんなところに目を瞑れば、どこにでもいそうな中国料理人だ。 腰にある銃刀法違反の包丁とか、背負っている中華鍋とかを深く考えず、道端で料理人の服を着ていることとか、一分もつっ立って含み笑いをしているとかそういう異質な状況を全て無視すれば、確かに料理人にすぎない。料理人ならば普通の一般人だし、帝都に反逆を試みるような輩ではおそらくないのだし、職務質問するほど不審ではない。 心の裏に色々言い繕ってみたが、現朗は、やはりその異常性を無視することは出来なかった。 「あの。こちらになにか御用がおありでしょうか?」 一応一般人という可能性も捨てきれず、丁寧な口調で声をかけてみる。 くるりと振り向いた。中国料理の豚を思い出させるような、鼻と目の大きい丸顔。温厚そう、といえなくもない。変人っぽいというほうが言いえているが。 「アイヨー。 ここに髪の長い凶暴で逃げ足の速い女がいると聞いたヨ」 ……いる。 上官の顔を思い浮かべて、軍人は一瞬迷った。 「この官庁にいる方には予約がない限り会うことはできませんよ。予約はおありですか?」 「くくく、お兄さん面白いこと言う。 私とアイツが出会うのは必然の運命であって予約は前世から取り付け済みアル」 答えになってない答えを返して、腰の包丁をとってべろりとなめる。目がいっているのはこの際どうでもよいとして(大佐の知り合いなら多少頭の螺子が緩んでいても別に不思議ではない)、問題なのは上官の方だ。 今、デスクワークがありえないほど溜まっているのに、蘭を遊びに行かせる理由をつくるわけにはいかない。となると、このどうみても厄介ごとを運んできそうな男を零武隊の官舎に招き入れるべきではない。 とりあえず予約はないらしい。ならば、ここで追い払っておこう。 「そうですか。 では、来週の改めて起こし下さい。今週は栃木に出張しております。その、髪の長い凶暴で逃げ足の速い女性にあたるような人は」 「トチギ? 何処アル?」 「宇都宮の方に」 名前しか聞いたことのない地名を言うと、相手は包丁をしまって手を組んで黙り込んでしまった。 その横を、まるで見えないように通り過ぎる。これ以上関わりたくはない。 現朗が門を押し開けたとき。 「待つアルヨ」 鬱陶しいという感情をまざまざと出して、振り返った。 「髪の長い凶暴で逃げ足の速い女に、伝えておいて欲しいヨ。 ……異国に行ったとしても逃げられると思うなよ、と」 栃木は外国じゃありません。日本です。 思ったことはおくびにも出さないで、わかりました、と淡々と現朗は答えておいた。 |
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