・・・  正しいストレス解消法3  ・・・ 


 「……こんなの。終わるわけない」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、蘭が小さくぼやく。腹がぐるるっと鳴った。少し食べたせいで余計に腹が減ってしまう。書類一山につき食事一回という条件だったが、この山の事件は蘭も覚えていないくらい遠い昔の話で昨日の昼からさっぱりすすんでいない。
 食べていない時間が十時間を越えて、糖分不足でふらふらしたときに現朗が所用で部屋を出るといった瞬間、神がみえた。全く信じていない神の言葉が聞こえた。電話で急いで丸木戸を呼び、弁当を持ってこさせてさあ食べようというとした段になって戻ってきたのである。たった五分で。
 誰が予想するかっ。そんなに早く戻ってくるなどっ!
「弱気なこといって手を止めるとノルマ増やしますよ。
 というか、先に食べてしまったのですから、もう一山終わらせるまでは食事はなしですね」
「おいっ! 教授の機械ではないのだぞっ。
 これ以上飯を食わなければ死ぬわっ、普通にっ」
「……大丈夫です。俺も、天馬殿と出張から戻ってきたときに現状を報告された瞬間、驚いて死ぬかもしれないと思いましたが生きています。死ぬといくら思っても人は死にません。
 だいたい、どこも普通じゃない大佐がいきなり普通なんて言葉を使わないで下さい。国語辞典に失礼ですよ」
言い返す余力もなくて、書類に目を落としながらそっと滲んだ涙を拭く。一言言うたびに三十倍の嫌味で返されて、食事も奪われ、軟禁され、一番嫌いな仕事ばかりさせられた日々が続いて、正直蘭は完全に参っていた。
 事件っ。早く事件よ起きろっ! 私が部下にいびり殺されるではないかっ。
 じっと頼みの電話を睨んでみるが、ここ一週間少しも鳴る気配がない。
「あと。天馬殿が一時間もすれば戻ってくるとの連絡がありました。ようやく毒丸の件は片付いたそうです。
 戻ってきたらこの部屋で仕事させます」
「本当かっ!?」
天馬ならば言いくるめることもできなくはない。―――などと、期待にぬれた瞳を上げる上官に、冷たい視線がぐさっと穿つ。
「……勿論俺も一緒ですから」
目に見えて落胆する蘭が思いのほか心地よくて、これが胸のすく思いなのだろうか……と考えた。同時に、いけない、いけないと言い聞かせる。
 実のところ。
 現朗の我慢限度の限界点は相当高い。人生今まで一度だってその限界点を超えたことはなかった。ところが今回、それを完全に壊した。初めての怒りに一週間経った今でも、自分でも怒りをどうやって納めたらいいのかわからないのである。激を見れば牢屋送りにしてやりたいし、毒丸は鉄男の養子にでもしておきたい。蘭は両足に鎖でもつけて部屋から一歩も出してやりたくない(着替えや風呂のために何回は部屋から出している)。それをぎりぎり我慢して食事抜きにしているのだ。そこの、微妙な優しさをわかってほしいものである。
 と。

「兄ちゃん。あんたなかなかやるネ」

 部屋の中に突然、新たな気配が生まれた。
 扉のほうを見ると、いつの間にやら開いている。蘭は机を蹴って椅子から降りて、刀を抜いていた。
「上だっ。現朗っ」
腰の拳銃をひきぬきながら上を見ると、天井に白い影がある。丸いこの巨体がどうやってそこに張り付いているのかは不明だ。何故か二本足で腕組みして立っている……天井を地面にして。
「くくく……髪の長い凶暴で逃げ足の速い女。ここであったが百年目あるヨ」
「ふっ。貴様か。
 久しいな……さて、伝えたいことがあるなら温厚に聞いてやってもいいぞ」
と、言いながら蘭は机のペンたてに入っていたガラスペンを奪って投げつける。
 ざくざくっ。
 いい音がして天井に刺さるが、狙った獲物は簡単に避けて、床に降り立ち現朗の真後ろに立つ。予想外の早い動き対応が遅れ、現朗は腕を取られ動けなくなる。蘭はにたにたと笑って刀をきらめかせた。
「くっ」
腕を振っているがどうにかなりそうな力ではない。
「新作は卵つかったトマトソース味ヨ。焦げ目の香ばしさが食欲増進で、評判恐ろしくよろしいアル。
 ……ふん。兄ちゃんも髪の長い凶暴で逃げ足の速い女の手先だったネ。不気味な殺気が漏れた部屋があったから入ってみて正解だたヨ。居留守を使うなんて随分姑息な手段を使うアル」
「居留守?」
蘭が不思議そうに聞き返すが、さらっと金髪は答えた。
「……髪の長い凶暴で逃げ足の速い女が大佐だとは思いませんでしたので」
その一言でおよそ察した蘭は、さらりと髪をかき上げた。
 何より、いいことになった。これ以上ないほどいい状況だ。唇の端を吊り上げて好戦的な空気を撒き散らした。
 自然、料理人も興奮をしてくる。
「ふんっ。貴様と私が会って、人質騒ぎは面白くないだろう。
 やることは一つだ」
くるり。
 と、軍人はいきなり踵を返した。その大きなガラス窓に直進し、防弾仕様だったそれをいきなり鞘で破壊する。

 がしゃぁぁぁ―――ぁんっ

ありえない光景に目を丸くする現朗を無視して、ひょいっと新しく出来た突破口から出て行ってしまう。
「待つヨ。くいに―――」
どずっ。
 鈍い音が現朗に響く。みぞおちの一撃に、膝を折り、ゆっくり地に倒れる。過ぎ去るその料理人の足音を聞きながら意識が暗転した。