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幸い帰り道に『大佐のファン』は現れず、すんなりと軍に戻ってきた。 彼女の行動一つ一つがかなり破壊力を持つので、零武隊の隊員に会わぬよう執務室に即座に詰め込ませる。天馬は温かな珈琲をもってきて、二人で向かい合ってソファに座った。 毒丸と丸木戸は一段落がつくと、一目散に逃げていてしまった。 帝月と瑠璃男は、疲れたからといって帰った。彼らとてこれ以上かかわりたくない。そもそもの原因はヨミを誤った帝月にある。それを非難される前に身を隠してしまうほうが得策だ。 丸木戸の話を聞いた零武隊の隊員たちは、まずは一笑した。あの? 大佐が乙女ちっくだって? そりゃ見ものだ。毒丸と丸木戸の必死の制止を聞かず、愚かにも、窓からその禁断の様子を覗きに行った。……そして彼らは、『禁断』に触れた代償として、致命傷に近い精神的ダメージを受けて戻ってきた。 激と現朗が戻ってきたとき、零武隊の宿舎には禁断に触れた罪人たちが死屍累々と横たわっていた。比較的ダメージの少なかった隊員らが、真っ青な表情をして無言で執務室の扉を指差す。何人かは倒れて白目をむいていおり、緊急手当てを受けていた。 愚かな。嘆くくらいなばら見ねばいいものを―――と、現朗は思って同情はしなかった。気持ちはわかったが。 屍を通り過ぎて扉の前にたどり着いた。 開ける前に、息を整えて覚悟を決める。そうでないと、心臓に悪い。 「失礼します」 かちゃ、と開けると。 涙をこぼし、内股気味に両膝をしっかり合わせる女性がいる。 扉を閉めて猛ダッシュで逃げたくなる衝動に駆られながら、頑張って一歩を踏み出す。後ろ手に、逃げている激の襟首を攫みながらとりあえず残った理性で平静な表情をつくろった。そこら辺はやはり零武隊で白服を着用することが出来る人間ではある。 「天馬殿。どうでしょう?」 「落ち着かれたみたいなのですが。 真弓さん。お顔を上げてください」 ハンカチを天馬が差し出すとそれで目をぬぐう。 小脇をきゅっと締め、女らしいその仕草。 どかどかっ――― と、窓の外で何人かが落ちたような音がする。 「つまり、その……もとの体に戻るには、あなたの気持ちを満足させなければならないのです。体に戻った後で、帝月に頼んで幽体離脱の癖を治す呪をかけてもらいましょう」 「……ありがとうございます」 蚊が鳴くような細い声を聞いて、激を肌の下から蚤に刺されるような痛痒感が全身を襲う。むずむずと体を動かしてなんとか沈めた。 「では、お相手をなんとかこちらでご用意します。 その体の方は先ほどもおっしゃったとおり、地位もあり、命も狙われているので、誰でもというわけにはいかないのです。 申し訳ございませんが、どうぞご容赦下さい」 こくり、と彼女はうなずく。 承諾を取ったので、天馬は現朗のほうをみた。 まっすぐな瞳に、はっと彼は現実に引き戻される。一瞬飛んでいた。 「現朗殿。 どなたか数日間彼女と一緒にいても宜しいでしょうか。 まあ、帝月のいうにはその彼女と……」 彼女と。 何をするのか。 続きの言葉がおぞましくて、慌てて現朗は言葉をさえぎるように返事を返す。 「そ、そうだな。大佐の御身に何かあるのは零武隊では一大事だ。 隊員をこちらの部屋に呼びます。何人かは、真弓殿の希望に沿う方がいればよいのですが……」 現朗が言いながら、踵を返して部屋を出て行こうとする。 真弓はあわてて席を立ち上がった。 「いやっ」 大きな声を上げてしまって、彼女自身が驚く。頬が紅潮している。 金髪の青年の足が止まったのと同時に、彼女はばすんとソファに戻って頬を手で覆い隠した。天馬は驚いたように彼女の顔を覗き込む。 「どうかなさいましたか?」 「こ、このお召し物。 ……殿方に会うには、恥ずかしゅう御座います」 ぼたぼたぼたっ――― と窓から落ちるのは何十名か。 激も現朗も完全に引いている。今の攻撃は唐突で耐性がなかった。 たっぷり五分が経過して、そのまま固まっていた現朗がぎぎぎと首だけ何とか振り向く。彼女の攻撃。このままくらい続けていたら確実に寿命が目減りする。恋人ごっこなぞ、誰しもができる芸当ではない。というか、俺がその役にあたったら確実に死ぬ。 「て、天馬殿。 彼女に、選んで、もらう前に、我々の方でもその人物ができるか否かを判断してもいいだろうか? その、やはり日々尊敬している大佐がこの状態だと、落ち着かない者も多いし、任務を遂行出来ない者もいると思うのだが」 なんじゃそりゃ、と天馬は本当に驚いて返事ができない。 天下の零武隊の、天下の現朗が言う発言ではない。 「つーか、天馬……。 本当のところ、お前が恋人役に一番いいと思うんだけど。一番平和的だろ。それが」 にこり、と天馬が微笑んだ。 「無理です。恋人役は。 母ですから。何度もいうように。」 ぎくっ。 部屋中溢れた殺気に、直撃を食らった激だけではなく、窓の外の隊員たちまで背筋を正した。キレた少年の笑顔は、十五歳とは思えない妙な迫力だ。 空気の重い部屋を後にして、現朗は廊下に出た。扉を閉め、そこに背をついてまずは息を整える。とにかく生贄選びを始めなければならない。 「召集だ。十五分後、休憩室に集まれ」 近くで聞き耳を立てていた零武隊の一人に、力なくそう告げた。 ***** 結局、人選が行われた結果、わずか一名しか残らなかった。 丸木戸をはじめ三十余名の隊員は、絶対無理と軍内部を駆け巡って怯え半狂乱。鉄男と数人は白目をむいて固まってしまっている。残りの、正気をなんとか保っている者の中で丸木戸が心拍数と血圧を測った。異常値を示す者はどんどん省かれる。 結局、残ったのは一人。 ―――つまり。 「……すみません。俺も含め、腑甲斐ない軍人どもで」 現朗は深々と敬礼する。男性にこのように礼をされること自体彼女には恐縮で、あわてて礼を返した。 「ホントだよっ! なんで現朗ちゃんや激ちゃんまで死ぬほど怯えているんだよっ。おかしいって」 ばしばしと膝をたたきながら、毒丸が不平をあげる。 生贄に決定したのは彼だ。 「いや。マジで言わしてもらうけど、正直戦場行くより怖いんだ。お前はまだ大佐の恐ろしさを知らんからそうはならんが。 俺たち年寄組はこういう状況変化には耐性ないんだ。すまん」 普段の一・五倍速の口調で、視線を明後日の方向にそらしながら激は言い訳をつむぐ。 「なんでだよぉ。俺が一番新人ってわけでもねーのに」 毒丸としても怖いとかそういう気持ちがないわけではなかったが――― ない、わけではない。 だが、別人だと思えばそう思えた。 肩を落とし、こじんまりと小さくなる長髪の女性は、普段の威厳も威圧感もなく、自信なさ気にうつむいている。 本当のことを言えば、別人だなんてわざわざ思わなくても……。 「真弓ちゃん」 毒丸は横に座ると、ひょいっとその前髪を持ち上げた。 びっくりして、顔を後ろに引く。 「は、はい」 「毒丸っていうんだ。なかなか、覚えやすい名前だと思わない?」 「……どくまる……様……」 よし、つかみはOK。 戦略的撤退とばかりに、現朗と激は、信じられない速度で部屋を後にする。天馬は静かにそこにすわって、毒丸の一挙一動を大きな目で見ていた。瞳に映る嫉妬の色。それを隠そうともしない。 そうだね。お前には母親だ。 でも俺にとっては女なの? わかるかい、ぼーや。 毒丸も悪びれた様子も感情も一切見せないで、横に座った。 「今週末さぁ、隅田川で花火があるんだよね」 「ええ。毎年……行っていたような気がします」 「良い見所があるんだ。俺しか知らない。 なぁ、もしよければ一緒に行ってくれない? 君のような可愛い子と、一緒に見たいし。美味しい泥鰌鍋もあるんだけれど。 そうだ。サーカスも面白いのが来ているよ。真弓ちゃんはサーカスにいったことあるかい?」 「私なんかで……」 「やーだーな。真弓ちゃんはすぐそういう。 俺じゃ不満かな?」 ぶるぶると顔を横に振った。毒丸は彼女の手をとった。 そして、立つように促す。 「そう。じゃあ今夜着物から揃えようぜ。 ……あはは。大丈夫、軍からお金出してもらえるみたいだから、費用は心配しないしない。それより、思ったこといってくれなきゃ駄ー目。我慢は禁物。 じゃあ俺大佐の護衛兼ねてデートで一週間仕事するから。 天馬許可とっといてよ」 「わかりました。楽しんできて下さいね」 固い少年の声を聞きながら、毒丸は彼女の手を引いて大股に出て行った。 扉の前で、くるりと首を回す。 にやり、と少年を挑発するような不敵な笑みを浮かべて。 「―――今日は、遅くならないようにするからさ」 天馬は返答しなかった。だが、目に浮かぶ殺気を快く感じながら扉を押し開いた。 |
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