・・・  花火大会2  ・・・ 


 揺り動かされて、目が覚めた。
「タイサぁ。何してるんですか、二時間後に出るっていったのに。疲れすぎですよ。栄養剤調合しておきましたから、早く飲んでください。
 出かけますよ。皆待ってます」
ぱちくり、と何度も目を瞬かせながら、丸木戸をまじまじと見る彼女。動きはどことなく緩慢で、惚けているようだ。まだ夢の続きでも見ているのだろうか。
 しかたない、と思いながら彼はカップの口を相手に押し当てた。
 その行動に驚いて、目を大きくする。
「飲ませまーす」
言葉よりも先に行動が出たが、それはいつものことだ。後でたぶん剣で小突き回されるだろうな、と思いながらも急いでいるのでそれは考えないことにした。
「ごふっ」
どろりと生黒い固体―――のような液体が、口の中に押し込まれる。
 恐ろしい苦さが口内に広がった。ぼろぼろと、鬼の目からも涙。
 転げ落ちるように椅子から降りて、机の横にあったゴミ箱にげぇげぇ戻していた。一通り戻し終わると、わなわなと自分の嘔吐物を見つめている。丸木戸を、怒りも睨みも刀を抜きもしないで。
 反応が違うな、と少し疑問が教授の脳裏に去来した。
「……なんで戻しちゃうんです。まあ、しかたないか。
 いいから起きて。もう予定時間から十五分過ぎてます。
 刀忘れないで下さいよー」
丸木戸は机にあった書類をかき集めて全部持つと、戸口のところまできて手を振る。本当に時間がないのだ。彼女は立った瞬間に落ちてしまった刀をおずおずと両手で持ち上げた。
 そして、男の必死の形相に促されるままに扉へ向かう。しかし。

 どがっ。

 蘭は自分の服に足をもつれさせて転んでしまう。絨毯なので音はそうたたなかったが、正面から避けることなく落ちたのでこれはかなり痛い。倒れたまま、その場を動こうとしない。その行動に、焦ったのは丸木戸だ。
 ……ええっと。俺、こういう時どう反応すればいいわけ?
 と、現実逃避。
 生涯一度も、あの日明蘭が転ぶなんてシーンに出くわすとは考えたこともなかった。
 普通の女性なら手を貸すだろう。普通の男性でも、転んだ以上は手を貸してやることはしたかもしれない。小さい子供なら逆に手を貸さず、起きあがったところを撫で撫でしてやっただろう。また本当に一般公道でいきなり人が倒れたら見なかった振りをするのもまた優しさだ。

 が。

 ……日明大佐を? この距離で? どうすりゃいいんだよ。
 困惑する丸木戸をよそに、なかなか上官は起き上がろうとはしない。体に痛みがあったからではない。確かにかなり痛かったのだが、それは一時期的なものですむ。心の整理がつかないのだ。
 その奇妙な緊迫を破ったのは、一陣の風だった。
「おーいっ。まじで急がないと大佐やばいって。赤い狐が文句いいますよぉ」
風のように入ってきた青年は、緑色の軍服をきた髪の長い男だった。腰には刀はなく、鞭を腰にさしている。一瞬彼は部屋の状況に戸惑ったようだったが、それでもすぐにずんずんと歩いて彼女に向かってきた。
 そして、手を差し出す。
「教授。なんか変な薬でも盛ったんじゃないでしょーね?」
その手を受け取って、ゆっくり立ち上がった。刀がごろりと落ちるのを、青年はすぐに拾って彼女の腰に戻す。随分手馴れた動作だ。
「命が惜しいよっ」
「行きますよ。大佐っ」
彼は斜め後ろから、自分についてくる。
 一歩、一歩確かめるように歩いた。この服は『着たことがない』。すごく動きにくい。教授と呼ばれた男についていきながら、ふと、廊下の突き当たりにあった大きな姿見のところで足を止めた。

 ―――これ、夢?

 ぽん、と軽く後ろの青年が腰を押す。
「駄目っすよ。身支度は馬車の中で。
 やばいんっすから」


 *****

 馬車の中は、彼女と教授が二人きりだった。御者台のところに、三人が座っている。二人は白い軍服に身を包んでいた。詰め込まれるように馬車にいれられて数分、彼らは皆無言だ。教授と呼ばれた男は、少し不安げな表情で自分をみていた。
「あの。……申し訳ございません」
決心を決めて、彼女は口を開いた。
 一瞬、丸木戸は聞き間違えだと思った。現実逃避をした。が、再び彼女はその言葉を繰り返す。彼女はまったく想像していなかったが、その一言は、教授を一瞬で驚愕と恐怖のどん底に突き落とすのに十分な威力をもっていた。
 口をあんぐり開き、わなわなと震わせ、馬車の隅に駆け寄る男。選択誤ったのかしら、女の心が揺らいだ。
「す、すみません。い、今、なんと? なんか馬車の揺れって案外大きくて。空耳の、空耳アワーみたいな言葉がちらっとここに聞こえちゃってもう大変★」
「い、いえ。まだなにも言ってないのですが。
 ええと、申し訳けございませんが……」

「た、た、た、た、た、た……大佐ぁぁぁぁっ!?
 そ、そ、そ、そ、そ、そんなにあの栄養剤まずかったですかっ。
 いや、何もいれてませんよっ。いつものとーりイモリの黒焼きとか、蝸牛の黒焼きとかしか入ってないし。あ、もしかして鼈の生き血が古かったとかぁ?
 お、お命だけはお助け下さいっ」

いきなりばたんと這い蹲ると、両手を頭の上で合掌させながら拝伏して悲鳴のように叫ぶ。彼女としても、心の半分はこの男は危ない人だと叫んでいたが、このまま何もしないわけにはいかない。この状況をなんとしても伝えなければならないのだ。誤解が小さいうちに。  ぽんぽん、と彼の肩を叩いてやさしい声で囁いた。
「いえ。なにも、その、私は申しておりません。
 ただ伺いたいことと、お伝えしたいことがございますの。私、このタイサとおっしゃる方では……」
その行動が。
 丸木戸にとって、死の宣告のように聞こえた。
 問題は内容ではない。行動だ。
「どぎゃぁぁっ。殺されるっ。殺されるぅっ。
 現朗君、毒丸君たすけてぇ。大佐がやばいこといってるよぉっ。肩叩かれたよぉぉぉっ。申し訳ないとか言ってるよぉぉ―――ぉっ」
「黙れっ。うるさい。そんな場合ではないっ」
馬車の中が壮絶に騒がしくなると、現朗もさすがに無視できず小さな窓から助けを求める男にどなりつけた。
 確かに、そんな場合ではない。
 馬車の周りには、いつもの『野良犬』が群れをつくってたかっているのだ。
「国賊っ」
「成敗してくれるわっ」
と、口々にいう覆面の男たち。激はあくびをかみ殺しながら、自分の得物をすらりと抜いた。
「今日も豪勢ねー。大佐のファン」
「馬鹿なことはいうな。毒丸。馬を頼むぞ」
毒丸の返事を待つ前に、二人は男たちの群れへ飛び降りた。
 降りてくる方よりも、迎え撃つ方が容易いと思っていた……のに。彼らの予想を裏切って、二人の放つ剣の一撃は恐ろしい間合いで暗殺者たちの喉元に迫ってくる。
 避けきれず、数人が地に倒れた。
「九人……。一人頭三人かぁ」
ぼやきつつも、馬の鞭とは違う、攻撃的な鞭で毒丸は馬車を狙ってきた男を刺し殺す。

「きゃぁぁぁぁ―――」

最後の男が丁度地面に崩れ落ちたとき、悲鳴が、あがった。
 思わず三人は、馬車の方を見てしまった。敵の攻撃なんかよりもずっと驚いた。空恐ろしい気持ちを抱きつつ、馬車の扉を、現朗が開ける。
「丸木戸教授っ。
 女みたいな悲鳴を出さないでもらおうかっ。
 心臓に悪いっ」
丸木戸は馬車の隅に丸くなって、がたがたと首を横に振る。
 違う。違うのだ。と、喉の奥でつぶやくが、声にできない。
 彼と反対の位置にいるのは―――
 蘭が、膝をかかえ、丸くなってうずくまっている。
「お……女、みたいな悲鳴を上げたんじゃない」
ようやく、言葉が口を出た。
「女、が、悲鳴をあげたんだ」
「はぁ? 冗談やめろよ。
 ……だって……た……」

「きゃぁぁっ。来ないでぇっ。人殺しぃ―――」

三人石化。
 丸木戸が恐ろしさのあまり、頭を抱えてうずくまる。
 ―――嘘だろっ。それは、ありえないだろっ。
 誰もの心が一つになる。心が一つになっても奇跡は起きなかったし、現実も好転しはしなかったのだが。
 彼らの目の前で、みるみるうちに彼女はしくしくと泣き始めてしまった。泣きたいのは俺だ、と誰もが思ったが誰も口にはできない。当たり前だ。口にできるわけがない。
「……き、教授っ。なんの毒を盛った!?」
「何もっ。何もしてないしっ。ていうか、こんな怖いことするはずないでしょっ」
半泣きで絶叫する丸木戸に、青ざめた表情の現朗。毒丸も呆然として、どんな顔をしたらいいのかわからない。うるっとした瞳をあげて、彼女が四人をみた。
 その顔のあまりの怖さに、全員悲鳴をあげて馬車の隅で抱き合って固まる。
「わ……私、その、よくわからないのです。
 これは、私の体ではありません。別の方のです」
「た、大佐。ご冗談を……」
現朗が代表でいうと、ふるふると首を横にふった。
 その、内股姿。死ぬほど怖いんですが。
 と、いえる勇気がほしいと激は切に願う。
 どんどん、と馬車の戸を叩く音が闖入した。窓から見えるのは、少年の顔に白い軍服。天馬だ。
「大丈夫ですかっ。皆様」
「天馬くん……」
丸木戸がまるで砂漠で菩薩にあったような、そんな絶妙な表情をたたえて扉をあける。外には二人の少年もいて、二頭の馬を引いていた。
 扉があくと、我先に馬車の中から出て行く。このおぞましい光景は一時でも早く逃れたい。代わりに天馬がはいって、うずくまる女性に優しく微笑んだ。
「驚かせてしまいましたね。大丈夫ですか?
 ご安心下さい。あの方々は護衛の者です。その体の方は、日明 蘭大佐といいます。零武隊の隊長、われわれの上司にあたります。職務柄命を狙われることも多い方なので、恐ろしい目に遭わせてしまいました」
彼女は、わっと天馬に抱きついた。


 *****

 そんな真夏の怪談なみの恐怖な事態が進行している一枚の板を区切った外では、漸くこの怪現象の次第が四人に説明されていた。
「僕が見誤っていた。簪についていた御霊は、生霊だった」
「はあ」
激は生返事で返す。早鐘のような動悸に収まらない興奮のせいで、脳細胞のシナプスが普段の四分の一も働かない状態だ。
「……それが、どうしたというのだ?」
話がすすまないので、現朗が自分で尋ねる。
「相当霊力のある娘だ。うまく育てればヨミ師にも巫女にもなれるぞ。
 簪についていたのではなく、彼女は簪を使って自分の御霊を飛ばしていたのだ。特に結界を張っていなかったものだから、簪から御霊が動いてしまった。
 おそらく、大佐が眠っているときに体に入り込んでしまったのだろう。あそこにいた唯一の女だったからな。
 天馬、彼女の名前は聞けたか?」
「真弓殿。
 ……ただ、まだやはり苗字は思い出せないそうだ」
馬車の窓から、聞こえる声。
「それで。どうすればその御霊は出て行くのだ? 大佐があのような状態では困るっ。死ぬぞっ、我々がっっ!」
軍人が言うには思いっきり情けない言葉を口にする。そのくらい彼らは追いつめられていた。
「うむ。先ほどよんだ時に、力が増幅した原因はどうも思春期特有の感情の暴走があったようだ。
 その、気持ちを、上手く発散させてやれば戻っていくと思うのだが」
「つまり? 何をすればいいのだっ」
言いにくいことを、ずばりと現朗は求める。気がせいて、いつも以上に言葉が荒い。
 ちらり、と帝月は瑠璃男のほうに視線をやった。お前が言え、ということだ。馬を牽いていた少年は躊躇したが、主人に逆らえるわけもない。

「……十四の女の子と、ちょっとばかし恋人ごっこすりゃあええんや。
 そうすりゃ満足して出て行くって」

 ……なにそれ……
 四人の目が眩む。都合よく記憶が消せたら、ここ一時間の記憶を全てなかったことにしたい。
「彼女にさぁ、別な人に移ってくれるようにいえねぇ? 大佐と恋人ごっこって……そりゃさすがに無理だよ」
激の提案に沈痛な面持ちで帝月は首を振った。彼女は霊力のコントロールはさっぱり出来ていない。自分がどうやって大佐の体にはいったのか、それすらわかっていないのだろう。ましてや出て行く術などできるはずがない。
「まずは、軍に戻ろう。対策はそれから立てる。
 四之宮様には俺が連絡する。激、お前は警察と協力してここの片づけを頼む」
「お、俺は? 現朗ちゃん」
「馬車を扱えるのはお前しかいない。お前は天馬殿の組んで、カミヨミ、大佐、丸木戸教授の護衛をしながら軍まで移送しろ」
「うっ」
……俺があの大佐みてくのかよ。
 と、喉元まででかかった不満を唾とともに嚥下する。
「あ。僕馬に乗りますね。天馬君が側にいたほうがいいみたいですから」
いいながら、丸木戸は瑠璃男から馬を借り受けた。瑠璃男は自分の前に帝月を乗せて、馬車の側へいく。仕方なく、毒丸は御者台に戻った。
「天馬さー。怖くない、それ?」
御者台と座席を区切る板についてある小さな窓から、声をかける。
 少年は、困った顔をして少し笑った。
「母ですから。大丈夫ですよ」
「……お母上なのですか? 天馬殿」
その女性らしい言葉遣いをきくだけで、薄ら寒い思いをしてしまうのは、自分は人として間違っているのだろうか。そんなことをつらつら考えながら、毒丸は手綱を大きく振るった。