・・・  吹雪5  ・・・ 


 比較的怪我が軽傷ですんだのは毒丸と現朗で、炎と激はまだ寝台から起き上がることもできなかった。事件が終わったのは、もう一週間も前のことになる。
「早く帰りてー」
窓の外を見ながらぼやく激を、現朗は一瞥する。
「無茶を言うな。久々の休暇だからゆっくりしろ。大佐のことだ。有給からさし引くに決まっている。帰ったら数年は休日はないぞ」
「だよなー。
 ……俺の有給……今年こそ絶対温泉旅行行こうと思ってたのに……」
ぐずっと、鼻をすする。
 こんこん、とノックが病室に響いた。
「面会です」
なじみの看護婦の声とともに、扉が開く。彼女の後ろにはなんと、鉄男が片手に果物籠を持って立っていたのである。
「鉄男ぉ」
一番回復の早い毒丸は、飛びはねるように男の下へ駆け寄る。彼を気にしないでいったん敬礼をし、それから果物籠を側の台に置いた。
「あの、奥の患者さんだけはちょっと傷が酷いですから眠らせてください。まだ意識もはっきりしていないようなので。他の方々には、お静かにお願いします」
「わかりました」
ゆったりと丁寧な言葉で看護婦に返事をすると、彼女は安心したように踵を返して出て行く。毒丸は思いがけない見舞いに喜んで近寄り、ギプスのついた両手でぱしぱしと叩いた。
 現朗が激の寝台の側に来るよう手で合図をすると、鉄男は言われたとおりに来て近くの椅子に座った。さすがに毒丸は現朗の側にはいきづらいのか、鉄男の横に立ってじっと睨んでいる。
「案外元気がよくて、よかった。大佐が見舞いに行けというからには、相当なのかと帝都の者たちが心配している。
 大佐からこれを」
と、報告書のようなファイルを現朗に渡した。ギプスで受け取って、表題だけちらりと読む。要するに労災手当てだ。
「現朗殿が書けと。全員分」
「了解した」
「……俺。自分で書けるよっ」
「毒丸が何かいったら命令だといえ、と大佐から。
 お主や激が書くと誤字脱字書類ミスに提出ミスの上、汚い文字で解読と申請許可が下りるのに五倍以上時間がかかるのだ。我侭を言ってはいかんぞ」
ぷう、と毒丸の膨れる横で
「……すごく言われてないか。俺」
寝台の中で一人黒髪がぼやく。毒丸はともかく、激は一応これでも零武隊で古参の上にエリート組みなのに。
「で。お主、何があった」
単刀直入に、そのものずばりと毒丸に向き直って尋ねる。いきなりの転換に少し驚いたようだったが、むっと上目遣いをした。鉄男が見舞いに行かされた、その理由がようやくわかった。
「……なにも」
「鉄男を呼び捨てにするな、って現朗に怒られて拗ねてただけ。だろ?」
「……はあ。
 ……零武隊ではあまりそういうことを気にしない御仁が多いが、他の部隊に行ったときは気をつけたほうがいいぞ」
自分が呼び捨てなのは一切とがめず、鉄男はまだ幼さの残る男を見つめる。
「お前には、さんも君もちゃんも様も殿もつけないからな。
 鉄男は鉄男しかいわねー」
「毒丸っ。まだいうかっ」
今まで聞いていた現朗が切れて、立ち上がった、イーだ、と毒丸が口を引く。

「鉄男は、俺の鉄男だもん。
 俺のなんだから俺だどう呼んだっていっだろっ!」

が。
 前とは違った理由に、金髪のほうが拍子抜けをしてしまう。
 なんて、子供じみた理由。こんな理由ならばここまで怒る必要はない。どころか怒ってしまったことが恥ずかしい。金髪かかる頬に、朱がさした。くくく、と寝台の中の激が腹を抱えて笑っているのが聞こえる。
 巨体の男は困ったように毒丸を見て、ぽんぽんと頭を撫でた。
「わしも、お主を毒丸殿とは呼びたくないが。
 ……現朗殿。零武隊はとかく規律も風紀も甘い。そこは大佐の意向でもあるのだから、少しは大目にみてやってくれないか。毒丸も、入隊から一年もたっていない。色々気に病むことがあるのだろうし」
「その、そういうことに……腹を立てたのではないのだ。声を荒立ててしまって申し訳ない」
怒りをごまかすように現朗は再び激の寝台に座る。
 毒丸は顔をにやにやとしながら現朗に近づき、相手が困ったような表情をするのを見届けるといきなり横に座る。迷惑そうな顔をするが、後輩の心情が読めない以上振り払うこともできない。
「現朗ちゃんはエリートのやり方で大佐手伝ってんだろ」
「は?」
意味のわからない問いに、疑問符を浮かべる。
 だがそれを答えてやるつもりはない。
「……俺はエリートじゃなくてもいい。
 零武隊にいる。それが、重要なんだ」
俺の意思を体を、死を、生を全て受け止めて、無駄にしないあの人がいる。あの人の下では、俺は無駄な死はない。それは翻って、俺が生きていることを認めて、価値あるものだといってくれる。俺は生きる価値がある、だから、ある場になったら『死んでも』いい―――
 雪の中の言葉に、思いが巡る。何故、あれだけあの安らぎを得られたのか。恐怖も痛みも消えたのか。生きていると気づいたとき、どうして大佐の側にいたい―――それだけを願うようになったのか。その理由を今まで必死に考えてきて、ある結論を得ていた。
 その結論を何度も何度も心で繰り返して味わっている。
 と、そこで彼の思考がとまった。
 そんな、言葉で何とかなるような、安堵感ではなかった。
 こんな理由ではない。
 胸の奥でそんな声が聞こえると、ざわざわと不安になる。
 口元にギプスを当てて考え込む。千変万化の毒丸の表情の変わりように、ついていけない現朗はちょっとばかり頭を悩ませた。
「毒丸」
「ん?」
はて、と横を振り向くと、至近距離に秀麗な顔があった。
「お前も、大佐に惚れたか」
そうだ。よくわからないが、とにかくそれだけは間違いない。
 こくり、と満面の笑みで大きくうなずく。
 なんとなくこの新人の心情を察して現朗は得心がいった。
「そうだ」
鉄男が話の区切りで、言葉を割った。
「……炎殿。大佐からの伝言です。
 何故初めの一撃を食らわせられたのか、と尋ねてこいと」
寝たふりを決め込んでいた男は、さすがに見舞い客を無視することは気が引けて、くるりと半身を返して向き直る。まだ体を起こすことはできない。起きているとは思っていなかった毒丸は、素っ頓狂な声をあげた。
「同種の冥府のものと斬りあったことがある。相手も冷気を纏った屍だった。凍てつくので攻めあぐねていたときに、ある奴が灯油をかけて火を放った。
 『雪女は溶ける』
 とかなんとかいって、まあ、実際は溶けなかったが、火があるときだけは攻撃がきいた」

「……なぜそれを報告せん。
 貴様は」

ありえない言葉の闖入に、鉄男以外がいっせいに部屋の隅を見た。そこにはいつもの白い軍服をまとった上官が、足を組んで壁にもたれながら立っている。
『大佐ぁぁぁ?』
つかつかと炎の寝台の元に歩いていき、見下ろす。ばちっと火花が飛ぶような音が聞こえた。慌てふためく現朗を無視して、炎に尋ねる。
「他に報告していないことを聞きたいな。是非」
「……特にない」
「特に? では、その雪女との戦いはどうして起きたのだ。そこの説明からたっぷり始めてもらうぞ。時間はある」
鉄男が、沈痛な面持ちで現朗に言う。
「大佐も、そのこちらの陸軍に謝礼を言うといってきたのだ。
 仕事は……恐ろしくあるのだが。今回ので。デスクワークがその……。それを全部現朗殿に押し付けるといって聞かず。実は全部持ってきてある」
「どんどん増えるぞー。ここの三人を使っていいから、処理は頼んだ。
 今日からここは零武隊第十出張所として、電話はひいてやる」
炎は、使い物にはならない。激と毒丸は、そもそもこのようなデスクワークには字が汚すぎて使えない。要するに現朗一人で残業してやれ、といっている。
 確かに大佐からの信頼は厚い。
 というより、デスクワーク嫌いな彼女が安心して仕事を押し付けられる相手―――それが零武隊にたった一人しかいない頭脳派の現朗なのだ。特別扱いなんて良い身分ではないのだ。
「わかりましたよっ!」
現朗は言うだけ言って自分の寝台に戻ると、くるりと丸くなってしまった。あまりにも腹が立ったから、仕事を始める前に不貞寝をすると決めた。もう、そう決めたのだ。
 蘭は近くの椅子に座り、炎の話を聞いている。
 鉄男と毒丸は顔を合わせて、それから現朗の寝台のほうへ二人して向かう。寝ても仕事は終わらないのだから、零武隊唯一の頭脳派を起こさなければならない。慰めたり揺すったり温かい珈琲を持ってきたり。二人は寝台の周りをうろちょろして、漸く金髪は体を起こした。
「……ほんと。親子みたいだねぇー」
激の寝台から漏れた呟く声に、現朗は射殺さんばかりに睨みつけたのだったが、鉄男が運んできた書類をみて直ぐに大きく溜息をついた。